2010年8月4日水曜日

イネ裁判とは何か:大平原の小さな事件――21世紀の悲劇の誕生――(2010.8.4)



大平原の小さな事件――21世紀の悲劇の誕生――

はじめに
 これは5年前、日本有数の米どころ、新潟県の高田平野の一角で起きた事件とその裁判の記録です――カラシナディフェンシン産生の遺伝子組換えイネの野外実験とその中止を求める裁判。遺伝子組換え作物について知り、関心を持つ人はいても、この具体的な事件の中身を知っている人は殆どいないでしょう。その意味でこれはとても小さな事件です。しかし、私がこの事件を取り上げるのは、20世紀の人類と地球にとって最大の脅威が、無生物(物質)のミクロの世界の操作により可能となり、出現した核の問題(ヒロシマ・ナガサキにせよ、チェルノブイリ・スリーマイル島にせよ)だとすれば、21世紀の最大の脅威は、生物のミクロの世界の操作により可能となり、出現する生物災害だと思うからです。とはいえ、現在までのところ、この事件によって人類と地球に差し迫った危機が発生したという事実は確認されていません(正確には、確認のために調査は実施されていません)。しかし、生物災害に共通するように、私たちの目に見えないところでひそかに進行し、「災いは忘れた頃にやって来る」可能性があります。そして、生物災害は目に見える形で発生したときには取り返しのつかない大変な被害をもたらします。いつか、私たちも、ヒロシマ・ナガサキに匹敵するような、チェルノブイリ・スリーマイル島の事故に匹敵するような生物災害を経験したときには、きっと、二度と生物災害を起こすまいと固く誓うでしょう。しかし、そんな悲惨な体験を通過しなければ生物災害と正面から向かい合うことができないものでしょうか。既にヒロシマ・ナガサキを経験し、チェルノブイリ・スリーマイル島を経験した人類は、依然、それほど受身で、無知にとどまるのでしょうか。
 この小さな事件は、生物災害のヒロシマ・ナガサキ、チェルノブイリ・スリーマイル島を経験する前に、人類がどのように生物災害と向き合ったらよいか、それを考えるための貴重な素材を提供するものです。というのは、この事件の中に生物災害の基本要素(何が原因で、開発者は生物災害の発生を見落としたのか。何が原因で、開発者は生物災害の危険性の評価を誤ってしまったのか。どういう人たちが野外実験の強行を支援し、生物災害の発生に貢献したのか等)がすべて出そろっていて、ここから今後あり得る悲惨な生物災害を未然に防止するヒントを見出すことができるからです。この裁判の原告や支援の人たちは「高田は生物被爆した」と考え、50年後、100年後の子孫と地球のことを考え、この裁判に関わってきました。その意味で、これはとても大きな事件なのです。

目 次
序言:沈黙する当事者
1、2005年日本の転換:GMOの異端の国から普通の国へ
(1)、世界のGMO栽培状況
(2)、GMOの安全性に関する世界の動向
2、転換の不成功とその原因
  (1)、GMOは世界の足をすくう
第1部:自然界の悲劇の誕生
1、開発者たちの見込み(光と影)
(1)、光:開発の狙いは農薬散布無用の病害に強いイネ
(2)、影1:ディフェンシン耐性菌の出現の可能性は“低い”
(3)、影2:出現するディフェンシン耐性菌の危険性はこれまでの耐性菌と変わらない
(4)、最終結論:野外実験はゴー。国もフリーパス。
2、見込みちがいだった自然界1:耐性菌出現の可能性は極めて高い。
(1)、推理その1:実験室での結果からの推測
(2)、推理その2:抗生物質耐性菌との対比
(3)、推理その3:反論1(品種改良の延長)
(4)、推理その4:反論2(カラシナ畑は平穏無事)
3、見込みちがいだった自然界2:出現する耐性菌の危険性も極めて高い。
(1)、これまでの耐性菌の危険性
(2)、ディフェンシン耐性菌の未曾有の危険性
(3)、理由その1:交差耐性
 (4)、理由その2:遺伝子の水平移動
第2部:人間界の悲劇の反復
1、見込みちがいをただす市民の取り組み
(1)、話合いの思いがけない展開:素朴な疑問と意外な返答と深まる不信感の連鎖
(2)、強行された田植えと市民に残された対抗手段
2、裁判に対する開発者の反応
(1)、普段の口癖と裁判の中で見せた態度
(2)、開発者の事案解明1:全国の百名弱のバイオ研究者の要請書。
(3)、開発者の事案解明2:証拠の切り札は原告が反論できない一番最後に提出。
(4)、開発者の偽装発覚と開発者に優しい裁判所
第3部:世界市民の出現
(1)、共同体の中の科学者と外に立つ科学者
(2)、世界市民としての声:灰谷健次郎氏の遺言
(3)、禁断の科学裁判の行方


序言:沈黙する当事者
1、2005年日本の転換:GMOの異端の国から普通の国へ
(1)   、世界のGMO栽培状況
2005年までの遺伝子組換え作物(GMO)の栽培に関する世界の状況は以下の地図の通りです。オレンジ色の5カ国がGMO95%を栽培生産しており、オレンジ色の斜線の国々はGMOを栽培生産しています。オレンジの点の国々は野外での実験が許可されている国です。ここから、日本の周辺諸国、つまり西の国、韓国、中国、インド、南の国、フィリピン、インドネシア、オーストラリア、東の国、アメリカ、カナダ、メキシコ、ブラジル、アルゼンチンでは全てGMOを栽培生産していることが分かります。その中で日本は、GMOを栽培も野外実験もしない北朝鮮と並ぶ異端の国でした。


                            GMO生産マップ(2005年)
 
 そのGMOの異端の国日本が普通の国に転換を遂げたのが2005年です。この年、日本は初めて、GMOそれも主食であるイネのGMOの野外実験を許可・実施するに至り、ようやく周辺の国々と肩を並べたからです。
(2)、GMOの安全性に関する世界の動向
 他方、GMOの安全性については、これまで、個々の研究者から実験に基づいて様々な問題点が指摘されてきましたが[1]、2009年5月、アメリカの環境医学学会は、動物実験の結果を踏まえて、「遺伝子組換え食品と健康上の有害な影響との間には偶然では済まされない関連がある」、「遺伝子組換え食品は、毒物学の領域で、また、アレルギー、免疫システム、生殖機能、代謝機能、生理学的機能、遺伝子に悪影響を与えるという点でも、深刻な健康リスクを引き起こす」と述べ、遺伝子組換え食品の即座出荷停止を求める声明を発表しました。遺伝子組換え食品が日常的に食卓にのぼるアメリカの事態を、アメリカの霊長類学者・作家のジェーン・グドールは、こう警告しています。
「今やアメリカの子供たちは世界の実験動物になってしまいました。遺伝子組換え食品を食べることで長期的にどんな影響があるのか観察される対象になったのです」
 しかも、この警告は対岸の火事ではありません。日本はGMOの栽培こそしないものの、遺伝子組換え食品の世界最大の輸入国だからです。
2、転換の不成功とその原因
(1)、GMOは世界の足をすくう
その日本がGMOの栽培に向けて大きく舵を切ったのが2005年のGMOの野外実験の実施です。
この野外実験が首尾よくいけばGMOの栽培生産に向けて大きく前進できるからです。それは日本が輸入のみならず栽培においても、世界有数のGMO国に変貌することを意味します。それはこの国の「食の安全」「市民の健康被害」「自然環境の破壊」の行方を決めるターニングポイントともいうべき出来事でした。
その転換点にあたる年に、選ばれてGMイネの野外実験が実施されたのが新潟県の上越市にある北陸研究センター(かつて北陸農事試験場として名を馳せた新潟・長野・富山・石川・福井の北信越5県の研究機関)でした。この由緒ある研究機関で実施されたGMイネの野外実験は、しかし、当初の目論見から大きく外れ、思いがけない大騒動に発展し、とうとう裁判にまで至りました(5年間、今もなお続いています)。
そのため、「GMOは世界を救う」といったキャッチフレーズのもとで、GMOでも世界の普通の国の仲間入りを果たそうとした日本国は最初の行動でつまづき、威信は大きく傷つきました。しかし、国家の足をすくった張本人はほかでもなく、彼らが自ら開発したGMイネそのものだったのです。では、いったい、高々イネの品種改良でしかないと思われていたGMイネが、一体どうやって、国家の一大計画を狂わせし、威信を傷つけることが出来たのでしょうか。そして、これがもっと重要なことですが、その番狂わせは一体何を物語るのでしょうか。
 現在、事件の張本人であるGMイネは国家機密の名目のもとで、沈黙の中に身を置いています。以下は、国家により有無を言わせず出現させられた沈黙するGMイネを取材した報告です。

第1部:自然界の悲劇の誕生
 一般に、冤罪の悲劇はその中で二度くり返される、一度目は見込みの悲劇として、しかし、二度目は国家の威信を守るための意図的な悲劇として。これが冤罪の基本構造です。そして、これと殆ど同様のことが今回の事件でも起きました。そこで、以下、2つの悲劇に分けて上演したいと思います。

1、              開発者たちの見込み(光と影)
(1)、光:開発の狙いは農薬散布無用の病害に強いイネ
それは、開発者たちの次のようなアイデアで始まった――自然界でカラシナやダイコンといったアブラナ科の植物が病気に強いのはカラシナたちが作り出すディフェンシンというタンパク質が病原菌を殺菌するからだ。だったら、このタンパク質を作り出すカラシナたちの遺伝子を取り出して、常にタンパク質を作れと命令するプロモーターとセットにしてイネのDNAに組み込んで、いつもディフェンシンを作り出すように改造すれば、きっと病気に強いイネができるにちがいない。これだったら農薬の大量散布なしで丈夫なイネが育てられ、農薬散布による農民の健康被害や環境汚染も防げるわけで、夢のようなイネではないか。こうして10年以上前に始まった研究で開発された遺伝子組換えイネ(GMイネ)が室内実験の中で、アブラナ科の植物のうちカラシナのディフェンシンを作るイネがいもち病や白葉枯れ病に最も強いことが証明されたとして、開発者たちは、実用化に向けて屋外で実験したいということになりました。
しかし、一般に夢のような開発には、コインの表側(夢)に匹敵する悪夢が裏側に伴います。今回の悪夢は耐性菌問題、つまりディフェンシンという抗菌タンパク質でも死ななくなるという耐性菌の出現でした。菌を殺す薬剤として抗生物質や農薬の多用・乱用による耐性菌の出現は周知の歴史的事実でした。これと同様の事態が発生するのではないか?開発者たちがこの問題を頭に浮かべたのは当然のことでした。事実、その当時、ディフェンシンのような抗菌タンパク質により耐性菌の出現を警告する研究者の警告が発せられていました。そこで、開発者たちはこの問題について、どのような見込みを立てたでしょうか。

(2)、影1:ディフェンシン耐性菌の出現の可能性は“低い”
 まず、彼らは、ディフェンシン耐性菌の出現の可能性について、検討の末次のような見込みを立てました(雑誌「化学と生物」2005年4月号掲載の論文に、これを発表)。
     抗生物質と比べ、抗菌タンパク質の病原菌に対する攻撃は、一般に“穏やか”であること。
     抗菌タンパク質研究の権威とされる研究者が「抗菌タンパク質が病原菌を攻撃する部位は病原菌の細胞膜だが、これに対し病原菌が防御のため細胞膜の構造を変化させる、つまり耐性菌に変身するためには、あまりに大きな遺伝的変化を必要とするので、その可能性は極めて考えにくい(surprisingly improbable)」という仮説を発表していたので、その仮説を採用。
     結論として、野外実験で耐性菌出現の可能性は”低い”と見込んだ。但し、とりあえず”低い”と評価したものの、耐性菌出現の場合に備えて、引き続き、その出現の頻度について、抗生物質と農薬による耐性菌と比較して研究を進めることとする。
重要なことは、野外実験における耐性菌出現の可能性は”ない”でなく、”低い”と見込んだこと、にもかかわらず、野外実験を実施するという結論にしたことです。というのは、耐性菌出現の可能性は”低い”とはいえその可能性を認めた訳ですから、もし耐性菌の出現の阻止を最優先に考えたのであれば実験中止が選択されるからです。ここから、彼らが、最悪の場合には耐性菌が出現してもやむを得ないと考えていたことが分かります。では、なぜ、そのような判断をしたのでしょうか。

(3)、影2:出現するディフェンシン耐性菌の危険性はこれまでの耐性菌と変わらない
それは、もう1つの影である「出現するディフェンシン耐性菌の危険性」について、彼らが抗生物質や農薬の耐性菌などと変わらないと見込んでいたからです。もし彼らが人類の健康被害や地球環境に重大な影響を及ぼす可能性があると認識していたなら、さすがの彼らも腰が引けた筈です。しかし、そのように認識せず、抗生物質や農薬による耐性菌と同程度の危険だと考えていました。だから、抗生物質や農薬による耐性菌の場合に別の薬剤で対処するように、ディフェンシン耐性菌が出現した場合には≪現行農薬に対する耐性菌ではないため、現行農薬で十分対処できる≫[2] その程度の危険性だったら、病気に強いイネの開発の目的のほうを優先しよう、と。こう考えたのです。

(4)、最終結論:野外実験はゴー。国もフリーパス。
2004年11月、開発者は野外実験の承認を得るため国に申請書を提出しました。尤も、申請書には耐性菌について一言も記載しませんでした。記載しなかったのはなぜか。本来、耐性菌問題に本当に自信があれば「耐性菌の出現の余地はない」と堂々と記載した筈ですが、そこまで詭弁はしませんでした。もし国から「耐性菌の出現はどう考えているのか?」と尋ねられたらその時には農薬で対処すると答えて切り抜けようという腹だったと思われます。しかし、国の審査委員たちは、(耐性菌問題の重大を本当に知らなかったのか、それとも知らなかった振りをしたのか不明ですが)誰ひとり耐性菌問題を取り上げる者はおらず、こうして、2005年5月、審査委員の祝福を受けながら[3]、めでたく野外実験の承認がおり、翌月、実施されることになりました。

2、見込みちがいだった自然界1:耐性菌出現の可能性は極めて高い。
しかし、自然界は、開発者の見込みに対し国のフリーパスのように甘くありません。自然の法則に従って情け容赦ない対応しかしません。
では、自然界はどう対応したでしょうか。実は自然はまだ正式な回答をしていません。つまり、被害発生を明らかにしていません。しかし、被害発生までに潜伏期間を経るのが生物災害の常であり、今回もまだ5年しか経過していませんので、現時点では何とも言えません。
そこで、以下に、耐性菌や微生物研究の専門家の人たちの見解を参考にしながら私たちが立てた推理を紹介します。

(1)、推理その1:実験室での結果からの推測
私たちは、耐性菌出現の可能性は”低い”とした開発者の見込みは間違いであり、実際は”極めて”高い”と推理しました。理由のその1は、以下の表1のとおり、既に、実験室でディフェンシンを使って耐性菌の出現が(とくに動物のディフェンシンでは多数の実験例が報告)、酵母やカビでも耐性微生物の出現が確認されており、さらにはディフェンシン以外の抗菌タンパク質を使った耐性菌の出現も確認されており、とりわけ2005年に、上記に記載した、開発者が見込みの根拠にした抗菌タンパク質研究の権威とされる研究者が、数年前の自らの仮説を覆す実験を行った、つまり実験室で抗菌タンパク質を使って耐性菌の出現を確認し、その結果について「もしも何かが試験管の中で起こるなら、それは実際の世界でも起こるでしょう」とコメントした(著名な科学雑誌Natureのニュース)からです。
表1 過去の耐性菌問題の科学的な「常識」
     生物の分類
抗菌手段の分類
微生物
昆虫
植物
酵母
カビ
抗菌タンパク質
ディフェンシン
植物
実験室で耐性菌確認(以下、○と表示)
実験室で○
実験室で○


動物・人
実験室で多数○




ディフェンシン以外
実験室で○




抗生物質
自然界でも実験室でも多数○




農薬
同上
耐病性品種改良
同上
害虫抵抗性遺伝子組換え作物



自然界・実験室
とも○

雑草抵抗性遺伝子組換え作物




自然界・実験室
とも○

(2)、推理その2:抗生物質耐性菌との対比
理由のその2は、自然界での抗生物質耐性菌の出現から、本野外実験でのディフェンシン耐性菌の出現が強力に推定されるというものです。とりわけ、バンコマイシンという抗生物質の耐性菌が大変参考になります。なぜなら、バイコマイシンは、他の抗生物質がつぎつぎと耐性菌の出現により効力を失っていく中で、これなら耐性菌は出ないと言われ「究極の抗生物質」として使用されてきたからです。その理由は、さきほど、抗菌タンパク質に対し耐性菌が出にくいと仮説を立てた理由と同じで、バンコマイシンが病原菌を攻撃するメカニズムは病原菌の細胞壁の生合成を阻害するもので、病原菌が耐性を獲得するためには自ら細胞壁の構造を変化させる必要がありましたが、それは大きな遺伝的変化を必要とすると予想され、そんな大変な変化は起きず、耐性菌は出現しないだろうと予想されたのです。しかし、この予想は見事に覆り、1986年、細胞壁の構造を変化させた耐性菌が確認されました。従って、これと同様の攻撃のメカニズムを有するディフェンシンであっても、菌との頻繁な接触という条件さえ備われば、耐性菌の出現の可能性は十分高いと言うことができるでしょう。

(3)、推理その3:反論1(品種改良の延長)
 これに対して、ごく素朴なものとして次の反論があります。
世間では意外と流布されているのですが、遺伝子組換え技術は「品種改良の延長線」だと考え、安全性についても品種改良と同様に考えるというものです。つまり、遺伝子組換え技術は品種改良技術の延長である。なぜなら、品種改良がDNAの構造の変化を人為的な交配により試行錯誤的に行なってきたものであるのに対し、遺伝子組換え技術はそれを単により合目的的、効率的、意図的に行うものにすぎないから。そして、品種改良による作物では基本的に安全性は確保されているから、その延長線上の技術にすぎない遺伝子組換え技術も同様に安全と考えてよい、と。
しかし、この見解は遺伝子組換え技術に固有の構造的な特徴を全く見落としています。それは、遺伝子組換え技術は単に目的とする遺伝子(以下、目的遺伝子と言います)を改造したい生物のDNAに組み込むのではなく、目的遺伝子がいつタンパク質を作るかを指示するプロモーターの遺伝子を必ずセットにして一緒に組み込むものだからです。その結果、品種改良作物がその作物の指示のもとで目的遺伝子のタンパク質を作るのに対し、遺伝子組換え作物では、目的遺伝子が作物の指示を受けず、それとは無関係に、もっぱら外部から組み込んだ特別なプロモーターの指示に従ってタンパク質を作るのです。例えば植物の遺伝子組換え技術で用いる最も有名なプロモーターはカリフラワーモザイクウイルスと言われる植物に感染するウイルスが持っているプロモーターです。これをウイルスから取り出して植物のDNAに組み込むことにより、常に、どこの細胞でも目的のタンパク質を作るように指令を出すことが可能になります。このような別の生物のプロモーターによる生命操作は品種改良ではあり得ません。この強力なプロモーターによる生命操作こそ遺伝子組換え技術に固有の最大の特徴というべきものです。ですから、その強力な操作がもたらし影響や安全性については、従来の品種改良と同列に考えることはできません。

(4)、推理その4:反論2(カラシナ畑は平穏無事)
さらに、これもごく素朴なものと言えますが、次の反論があります。
≪ディフェンシン耐性菌の問題で何か異変が起きていれば、既に自然界のカラシナ畑で異変が起きている筈である。しかし、カラシナ畑で何も起きていない以上、ディフェンシン耐性菌問題は心配ない≫。[4]
 しかし、この研究者は微生物のことは分かっているのでしょうが、前述の品種改良論と同様、遺伝子組換え技術の本質のことを全く理解していません。自然界のカラシナは病原菌がやってきたときだけディフェンシンを作るのであって、それ以外には作りません。これに対し、強力なプロモーターを組み込ませた遺伝子組換え技術では全く異なります。本件の野外実験では、病原菌がやって来ようが来まいと関係なく、ディフェンシンを常時作るように指令を出すプロモーターを組み込ませてあります。その結果、ディフェンシンは常時作られ、休みなく細胞の外に運ばれます。
ディフェンシンに関するこのような生命操作は、カラシナも含めて自然界が未だかつて経験したことのないものです。もともと自然界のカラシナが病原菌が襲来したときにだけディフェンシンを作り、殺菌するというのは、むやみやたらと姿を病原菌に晒して、病原菌に防御を学習させないようにするための自然界の叡知です。従って、これまで自然界のカラシナで異変が起きなかったのはそうした叡知のなせる技です。それに対し、この叡知を見落とし、遺伝子組換え技術により、常時、ディフェンシンを作り続けたら、病原菌に防御を学習させる機会をふんだんに与え続けることになり、異変が起きても不思議ではありません。この意味でも、自然界で異変が起きていないことは、本野外実験で異変が起きない保証には全くなりません。

3、見込みちがいだった自然界2:出現する耐性菌の危険性も極めて高い。
次に、出現したディフェンシン耐性菌の危険性は抗生物質や農薬による耐性菌のそれと変わらないとした開発者の見込みは間違いであり、実際は抗生物質や農薬による耐性菌とは比べものにならないくらい、危険性が高いものです(これは推理ではなく、確定した知見です)。理由を順番に解説しましょう。

(1)、これまでの耐性菌の危険性
抗生物質や農薬による耐性菌の場合、それが危険なのは、それらを使用する生物(ヒトや野菜)が、手術後の治療といったように、抗生物質や農薬を使用する必要があるときです。それ以外の場面では危険はありません。また、問題の場面においても、耐性菌に対しまだ耐性を獲得していない別の抗生物質や農薬を使うことで対処できます(但し、最近は、多くの抗生物質や農薬に対しても耐性を獲得しているいわゆる多剤性の耐性菌の出現が増え、深刻な問題となっていますが)。

(2)、ディフェンシン耐性菌の未曾有の危険性
これに対し、ディフェンシン耐性菌の場合、事情が全く異なってきます。その最大の理由は、ディフェンシンは、抗生物質や農薬と異なり、多くの生物が病原菌から身体を守るために自ら作り出しているものだからです。つまり、ディフェンシン生産者がごまんといることです。そのため、世の多くのディフェンシン生産者に対し、カラシナ・ディフェンシン耐性菌は悪影響を及ぼすおそれがあるのです。

(3)、理由その1:交差耐性
もう少し丁寧に解説しますと、
ディフェンシンを自ら作り出す生物は、カラシナなどアブラナ科の植物以外にも、ヒトや牛、豚、カエル、蜂蜜、昆虫、高等植物など多くの生物に及びます。ところで、耐性菌の基本的性質として、特定の薬剤や抗菌タンパク質に対する耐性菌と知られていたものが、それ以外の薬剤や抗菌タンパク質に対しても耐性を発揮することがあります。これを交差耐性といいます。交差耐性が認められるとカラシナ・ディフェンシン耐性菌の場合なら、カラシナ以外のヒト・動植物のディフェンシンに対しても耐性を発揮することになり、その結果、その生物はカラシナ・ディフェンシン耐性菌の襲来に対しディフェンシンが効かず、生態防御のメカニズムを突破され大打撃を受けます。

(4)、理由その2:遺伝子の水平移動
他方で、耐性菌は自分が獲得した耐性遺伝子を様々な方法(形質転換・形質導入・接合伝達)で他の菌に伝達する性質を持っています。これを遺伝子の水平移動といいます。これによって、多くの種類の菌が耐性遺伝子を持つことが可能となります。もともと病原菌は特定の生物にしか感染しないものですが(感染する相手の生物のことを宿主といいます)、多くの種類の病原菌が遺伝子の水平移動により耐性を獲得した結果、それだけ多くの種類の宿主が耐性菌によって脅威にさらされる危険性が増大します。例えば、イネの病気であるいもち病の菌はヒトには感染しませんから、いもち病菌のディフェンシン耐性菌が出現しただけでヒトは心配に及びませんが、しかし、いもち病菌の耐性遺伝子が田んぼにいる緑膿菌に伝達されたとき、その緑膿菌のディフェンシン耐性菌はヒトに感染するという事態が生まれるのです。
 このように、一方で交差耐性、他方で遺伝子の水平移動という性質の組合わせにより、ディフェンシンを作っているヒトをはじめたくさんの種類の動植物がディフェンシン耐性菌の脅威にさらされることになります。こうしたことは抗生物質や農薬による耐性菌では起こり得ず、その危険性は比較になりません。なぜなら、抗生物質や農薬ではそれを使用する生物(ヒトや野菜)が、手術後の治療といったふうに抗生物質や農薬を使用する必要があるときにだけ問題が発生するのに対し、ディフェンシンの場合には、これを作り出す全ての種類の生物に対して、普段の生活の中で日常的に問題が発生する可能性があるものだからです。しかし、開発者は誰もこの重大なちがいに気がつきませんでした。というより、彼らはもっぱらイネのことしか頭にありませんでした。

第2部:人間界の悲劇の反復
1、見込みちがいをただす市民の取り組み
(1)、話合いの思いがけない展開:素朴な疑問と意外な返答と深まる不信感の連鎖
5年前のGW初日の2005年4月29日、開発者のGMイネ野外実験の説明会がありました。開発者側は、GWで人も来ないだろう、自分たちの説明でスムーズに進むだろうと楽観していました。しかし、事態は想定外の方向に進みました。
当日、会場満員の住民が出席しました。そして、風評被害に対する開発者側の回答がまず地元住民の心に不信の芽を芽生えさせました。住民の「GMイネ野外実験のおかげで、新潟のコシヒカリは純米じゃなくてGM米だといった風評被害が広がり、米が売れなくなったらどうするのだ」という不安に対し、開発者側の回答は「風評被害は前提にしていない」というものでした。そこで、住民の「風評被害が起こった場合は誰が補償してくれるのか」という問いに対しても、彼らの回答は「風評被害の心配はない」でした。つまり、開発者側は風評被害に対して住民が抱いている切実な不安をぜんぜん受け止めていなかったのです。
さらに、住民の「地元で誰も望んでいないGMイネをなぜ作るのか」という問いに対して、答えませんでした。その後、地元の新聞記者に、「怖いと言って手をこまねいてはいられない。研究者の使命だ[5]」と開発者のトップ(センター長)が発言しました。このまれに見る正直な回答は、しかし住民の不安・不信を一層掻き立てるだけでした。
 その後、開発者側と地元の若い農家の間で『玄米問答』が始まりました。説明会で、開発者は「GMイネは葉緑素のある細胞でしかディフェンシンを作らないから、可食部の白米部分は全く心配ない」と食の安全を強調したので、若い農民たちは「じゃあ、玄米はどうなの。未熟で緑色の段階の玄米の表皮はディフェンシンを作っているんじゃないの」と素朴な疑問をぶつけました。そしたら、「玄米の一番外側の細胞も緑色の間はディフェンシンを発現するかもしれないが、色が変わった後はディフェンシンは分解されコメとして食べる時にはディフェンシンは残っていないと回答しました。これは彼らの最初の説明と明らかにちがうものでした。そこで、農民たちは「じゃあ、緑色が変わらない青未熟粒ならどうなの」と聞きました。すると、開発者の回答は「今後調査する」でした。その後、「玄米粒全体を解析したが、ディフェンシンは検出できなかった。今後、ディフェンシン遺伝子の発現場所については細かく調べる」と回答してきました。これは、彼らの最初の説明「可食部の白米部分は全く心配ない」から随分ちがう説明でした。玄米は農民にとって最も身近なもので、その玄米について農民の素朴な質問にすら、開発者は、最初に述べた食の安全を強調する説明と矛盾する回答しかできず、住民の心に不信感を募らせる結果となりました。
(2)、強行された田植えと市民に残された対抗手段
住民の素朴な質問に開発者はどれ1つまともに答えられませんでした。しかし、野外実験中止の姿勢だけは一歩も譲りません。地元住民と地元自治体[6]の実験延期の強い要望にも関わらず、全く聞き入れられず、なおかつ住民の不安に対する得心のいく説明がないままGMイネの田植えが強行されることになったとき、住民たちに残された解決方法は2つしかありませんでした。1つは実力による阻止、もう1つは裁判による解決です。住民は”穏やか”に裁判による解決を選択し、開発者側の見込みに対して真実はどうなのか、その真相解明のために舞台は裁判所に移りました。日本で初めての遺伝子組換え作物に関する裁判、のみならず世界でも数例しかない最先端の裁判でした。
 尤も、相手は上越市の由緒ある名士。よくそんな大それた真似が出来たと思われますが、もともと裁判を受けるのはどんな市民にも憲法で保障された基本的人権です。その上『地元で誰も望んでいないGMイネをなぜ作るのか』という素朴な疑問から行動を起こしたものです。ちょうど、『地元で誰も望んでいない米軍をなぜ駐留するのか』という沖縄の人たちの素朴な疑問と同じ、自然の摂理です。

2、裁判の中での開発者の態度
(1)、普段の口癖と裁判の中で見せた態度
開発者の口癖は「適切な情報公開・提供に努めます」でした。そこで、原告の市民は、裁判の中で、開発者に野外実験の安全性についての真相解明を求めました。開発者は答弁書で安全性に問題がないことを強調しました。しかし、問題はその理由です。
①.野外実験にあたって開発者はどのような根拠に基づきどのような見込みを立てたのか。
②.その後、現段階において実際の真実はどのようなものだったのか、
この2つについて真相の解明が求められました。
しかし、開発者は、事前の屋内実験の過程で得られた情報をひとつも公開せず、のみならず、①の過去の見込みも、②の現段階での真実についても、これを歪曲しました。つまり、これらについて、真実と裁判になって開発者が言い出した主張とは次のように矛盾、ズレがあったのです。
①の過去の見込み
真実
裁判になってから言い出した開発者の主張
≪抗菌蛋白質は一般的に病原菌に対して”穏やか”に作用すると考えられている、‥‥抗生物質や農薬の主成分である薬剤と比較して、抗菌蛋白質では抵抗性崩壊(注:耐性菌の出現のこと)の懸念は低いと考えられている≫[7]
つまり「抗菌作用は穏やかであり、耐性菌の出現の可能性は抗生物質や農薬と比べ、低い」
≪そもそも本実験に用いるディフェンシン蛋白質のような抗菌性タンパク質の場合、抗菌作用は穏やかであり、耐性菌の出現の余地は科学的になく≫[8]
のちには、以下のように変更。
≪ディフェンシン耐性菌問題は、‥‥発生可能性がないことが科学的に公知であった[9]

②の現段階での真実
真実
裁判になってから言い出した開発者の主張
200511月、PerronZasloff論文の発表
実験室で、抗菌タンパク質を使って耐性菌の出現を確認。
Zasloff氏の警鐘「もしも何かが試験管の中で起こるなら、それは実際の世界でも起こるでしょう」
Zasloff氏の「抗菌タンパク質に対する耐性菌の出現は極めて考えにくい(surprisingly improbable)」という仮説に依拠していた開発者は、前記Zasloff氏の新見解に基づき、従来の態度変更を迫られた筈。
原告が取り上げ、反論するまでは、自ら一切、黙して語らず。

裁判では、このように開発者は自らの科学的立場すらかなぐり捨ててしまったのです。これはもはや最初の見込み=偶然の悲劇ではなく、意図した悲劇=茶番です。その答弁書の締めくくりとして、次のように原告市民に対する率直な感想を表明したのは、むしろ自らの非科学的態度に対する自嘲から思わず神経症的な反動が来たのではないかと思われます。
≪本申立は、本実験を批判し、批判を喧伝する手段の一つとして行われたとしか考えられず、手続を維持するだけの法律上の根拠は全く認めることができない。いずれにせよ、本申立においては、そもそも一般的な高等教育機関で教授ないし研究されている遺伝子科学の理論に基づいた主張を展開しているものではなく、遺伝子科学に関し聞きかじりをした程度の知識を前提に特定の指向をもった偏頗な主張を抽象的に述べているに過ぎず、また法的に考察しても非法律的な主観的不安を書きつらねただけのものとしか評価しようがなく、債務者としてはかような仮処分が申し立てられたこと自体に困惑するばかりである≫[10]
2005年8月、開発者は、一審裁判所から、ディフェンシン耐性菌等の問題について次のように命じられました。
「今後とも生産者や消費者に的確に情報提供したり説明をすることにより、本件GMイネに対する不安感や不信感等を払拭するよう努めていく責任があり、仮にも、上記の情報公開等が円滑に行われず、いたずらに生産者や消費者の不安感等を助長するような事態を招き、その結果、農業等行う上で具体的な損害ないし支障が生ずるような状況に立ち至ったときには、本件野外実験の差止めを求められてもやむを得ない」
 そこで、これを踏まえて、原告市民は開発者に耐性菌問題についてきちんと情報公開してほしいと請求しました。すると、「適切な情報公開・提供に努めます」が口癖の開発者は「ディフェンシン耐性菌の発生については、今回の実験の目的ではなく、調査する予定はない」と回答して情報公開を拒否して、原告市民の期待を無視するのみならず裁判所の決定すら無視することも恐れぬ、さらには自ら発表した前記論文との矛盾撞着さえも恐れぬ、類まれなる勇気を発揮したのでした。

(2)、開発者の事案解明1:全国の百名弱のバイオ研究者の要請書。


(3)、開発者の事案解明2:証拠の切り札は原告が反論できない一番最後に提出。
(4)、開発者の偽装発覚と開発者に優しい裁判所


[1]スコットランドのプッタイ博士、ロシアのイリーナ博士など。
[2] イネ裁判の仮処分手続における開発者の答弁書12頁。
[3] 「日本初といいますか、有用な遺伝子がこういう形で使われるというのは非常にいいことで、うれしいことだと思う」(審査委員の高木正道新潟薬科大学教授の発言。審査会議事録35頁)
[4] 開発者の野外実験承認申請書を審査した委員のうち、ただ一人の微生物専攻の研究者が、のちの裁判で、開発側の依頼で意見書を作成・提出し、その中で述べていたことです。
[5] 新潟日報5月28日。
[6] 例えば、当時、上越市長が『北陸研究センターから実験の必要性や内容が分かりやすく説明されていない。消費者農家の合意が得られるまで説明してもらいたい』と述べました(5月27日朝日新聞新潟県内版)。
[7] 野外実験直前に雑誌「化学と生物」に発表した論文の233頁。
[8] 開発者の答弁書1316行目以下。
[9] 2005年9月27日被告準備書面(5) 9頁
[10] 答弁書19

2009年9月27日日曜日

リスク評価の課題とは何か(2009.9.27)

リスク評価の課題とは何か」青山学院大学総合研究所広報冊子NEW SOKEN2009年所収。

リスク評価の課題とは何か

第1、なにが問題なのか
 本稿では様々なリスク評価のうち、食の安全や生物災害に関するリスク評価を念頭に置いて議論する。
 今、リスク評価の危急の課題とは何か――それは、個別のリスク評価事例に対する不満・課題は鬱積しているにもかかわらず、何がリスク評価の本質的な課題であるかが依然さっぱり分からない、それが問題である。
法律でメシを食っている者からみて信じ難いことだが、通常なら、或る制度(システム)を制定するにあたっては、どんな制度を作るかをめぐって激しい価値観の対立・衝突があり、その調整が不可欠となる。その価値観は当然、その制度の運用に影を落とし、個々の運用場面での対立の原因となる。これにより制度の基本的な問題点は明快となる。もともと制度とはそういうものである。ところが、リスク評価はこれと全くちがう。リスク評価の基本的なあり方をめぐって根本的な価値観の対立・衝突がちっとも明らかにされない。さながら、リスク評価にはそのような対立は存在しない完全調和の世界のようにさえ思えてくる。
そうだとしたら、それは欺瞞である。現実に無対立な制度・システムなど原理的にあり得ないものだから。
以下において、常々、取り沙汰されることのないリスク評価の本質的な課題を、裸の王様を嗤う少年の眼でもって、掴み出してみたい。

第2、そもそもリスク評価とはなにか
1、その1
リスク評価とはなにか。この単純な問いに正面から答え得た者はまだ誰もいないと思う。なぜなら、(少なくとも食品事故や生物災害について)リスク評価が取り沙汰されたのは狂牛病の出現などごく最近であり、個別事例への対応に追われる余り、自分たちが一体何をやっているのか、自省する余裕もその気もなかっただろうから。しかし、世の中には「解き方」を間違えたために、どうしても解けない問題というものがある。数学史の有名な出来事として5次方程式の解法。 
+2x+3x+4x+5x+6=0
このような5次以上の方程式は加減乗除の方法で解くことが(一般には)できないことは1824年、アーベルの手で初めて証明されたが、それまで数百年にわたって、これを加減乗除の方法で解けると信じた者たちにより空しい努力が積み重ねられてきた。この数学研究者の迷妄の歴史をここで想起しておくことは価値あることである。

2、その2
しかも、この迷妄は「科学」内部の問題にとどまらない。「芸術」と「法律」が交錯する裁判として有名な「悪徳の栄え」事件――1961年、フランスの作家マルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』を翻訳し、出版した翻訳者の澁澤龍彦と出版社が、同書に性描写が含まれており、わいせつ文書に該当するとして起訴された事件だが、澁澤らは、「芸術性と猥褻性とは別次元の概念である」を前提にして、同書の芸術性には理解を示さず、専ら善(法律)の次元で判断しようとした検察に反発する余り、「芸術性と猥褻性とは別次元の概念ではなく、芸術性が高い作品ではその芸術性により猥褻性が消失することがある」という論理でもって対抗しようとした。つまり、美的判断が法的判断に優先するという立場を取った。しかし、この「解き方」は裁判所に容易に理解されず、解き方をめぐって「永遠の水掛け論」に陥り、その中で澁澤は不貞腐れ、さじを投げ出してしまった。しかし、彼の提起した問題は少しも解決されておらず、時を経て同じ問題が反復される運命にある。その一例が1994年に提訴された「石に泳ぐ魚」事件である。ここでもまた、芸術性という美的判断がプライバシー保護という法的判断に優先するという主張が反復された。このような芸術裁判で、その「解き方」をめぐって美(芸術)と善(法律)の判断の関係が問われているが、その正しい「解き方」が分からないため迷妄が反復されている[1]

3、その3
他方、この迷妄は別に専門的、特別なことではなく、日常の出来事、例えば教育現場などでも登場する。かつて、日本で最も自由な教育を行なうと宣言し、斬新な芸術教育で注目を集めた某私立学校で、その後、悪質ないじめや校内暴力が発生し、大量の学生を退学処分したとき、みずから設立理念を否定するような処分行為に出た学校関係者は途方に暮れたが、その学校を訪れた柄谷行人はこう言った――いくら自由と自立を尊重するという理想的な教育をしても、いじめや暴力は決してなくならない。もともとそれは人間の攻撃性に由来するものだからです。そこで必要なのは、芸術(音楽、美術、文学)ではなく、むしろ人間の攻撃性を科学的に解明しようとしたフロイトです。いじめや暴力に対してまず必要なのは、美的判断でも倫理的判断でもなくて、科学的判断(認識)だからです、と。つまり、いじめや校内暴力に対しては、正しくは、まず真(科学)で立ち向かうべきなのに、解き方を間違って、美(音楽、美術、文学といった芸術)や善(倫理)で解こうとしたために、迷妄に陥ったのだ、と。 

4、その4
しかし、これらはリスク評価にとって対岸の火事ではない。これと同じ迷妄にリスク評価もまたさらされているからである。
 食品安全委員会などの公式的見解によれば、リスク評価とはあくまでも科学的な判断であるという立場、つまり真(認識)だけで問題を解こうとするものである。しかし、果してそうだろうか。食品安全委員会の現実のリスク評価の混迷ぶりを見ていると、「解き方」を間違えていないだろうか。
 そもそもリスク評価が最も問題となるのは、測定値が科学的に正しいかどうかといったことではなく、むしろ、そうした科学の探求を尽くしてみたが、それでもなお或る現象の危険性について確実な判断が得られないときである。つまり、科学の力が尽きたところで、初めて、ではこの「不確実な事態」をどう評価するのだ?という判断が問われる時である。その意味で、リスク評価とは科学の問題ではなく、科学の限界の問題である。言い換えれば、リスク評価とは、科学的に「解くことができない」にもかかわらず「解かねばならない」、この2つの要求を同時に満たす解を見つけ出すというアンチノミー(二律背反)の問題である。
そうだとしたら、このアンチノミーをどうして科学的判断=真(認識)だけで解くことができるだろうか。科学の限界の問題を科学で解こうとすることほど非科学的なことはないからである。

5、その5
しかし、そんなことは食品安全委員会などの頭のいい人たちはとっくに分かっている筈である。けれど、彼等の使命は科学的に「解くことができない」問題を同時に「解かねばならない」ことにある。となれば、さしあたり、科学の限界の問題にもかかわらず、さも科学の範囲内の問題であるかのように振舞って解くしか手はないだろう、たとえそれがどんなにいかがわしく、欺瞞的に思われようとも。
 これが今日のリスク評価を覆っている迷妄の正体である。

第2、リスク評価の迷妄の打破のために

1、その1
では、リスク評価のこの迷妄を打破する道はどこにあるだろうか。それは別に難しいことではない――リスク評価の方法という問題に科学の光を照射するだけのことだから。つまり、科学としてのリスク評価方法を確立することである。その際のキーワードは、科学史として言い古されありふれたものだが、真実に対する正直と勇気の2つで十分だと思う。すなわち、
第1に、問われている現象のリスク評価に対して、自ら科学の限界にあることを率直に認める勇気を持つこと。
 なぜなら、もともとリスク評価の本質とは科学の限界の問題なのだから。
第2に、真(認識)における「科学の限界」を踏まえて、善(倫理・法律)と美(快・不快)の判断を導入して、それらを総合して判断する勇気を持つこと。
なぜなら、哲学者カントによれば、我々が世界を見、物事を判断するとき、①真(認識)、②善(倫理・法律)、③美(快・不快)という異なる独自の3つの次元の判断を持つが、リスク評価が①において科学の限界に直面し、科学的に「解くことができない」以上、②と③の2つの次元の判断を導入して解くしかないからである。それが科学的に「解くことができない」と同時に実践的に「解かねばならない」アンチノミーの正しい「解き方」である。

2、その2:科学の限界の不承認について
リスク評価を語るときの研究者・専門家の特徴の1つは、自分たちが「科学の限界」に直面していることを決して正直に認めようとしないことである。その振るまい方は、かりそめにも「科学の限界」であることを認めようものなら、リスク評価のケリがそこで着いてしまうかのように思い込み、怖れている節すら感じられる(「科学としてのリスク評価」であれば、科学の限界はリスク評価のスタートであっても、決してゴールではないのに)。
そのため、彼等は自分たちは元々「科学の限界」には直面しておらず、科学の範囲内の問題として処理できるのだという(私からみて魔法の)ロジックをひねり出す。そのロジックの1つが
「今までのところ、危険性を示すデータが検出されていない。だから、これは安全と考えてよい」
である。例えば、
①.2005年新潟県上越市の圃場で野外栽培された遺伝子組換えイネの実験中止の裁判のケース(→裁判の公式HP
(1)、リスクの1つ、カラシナ・ディフェンシン耐性菌が出現する可能性について
 「実際、耐性菌の出現についての報告もない」(被告)
 「何か起きるのであれば、既にカラシナ畑で起こっている」(被告)
(2)、リスクの1つ、周辺の非組換えイネとの交雑防止のための隔離距離について
 「これまでの知見では、交雑の生じた最長距離は25.5メートルである」(被告)
 ②.体細胞クローン牛技術のリスク評価書(2009年6月)
「体細胞クローン牛や豚、それらの後代(子供)の肉や乳について、栄養成分、小核試験、ラット及びマウスにおける亜急性・慢性毒性試験、アレルギー誘発性等について、従来の繁殖技術による食品と比較したところ、安全上、問題となる差異は認められていません」(食品安全委員会)。

すなわち、これらは危険性を示すデータが検出されないことを理由に安全性を導き出す根拠にしている。しかし、検出されないことが果して安全性を導き出す合理的根拠たり得るだろうか。
そもそも近代科学において「データ」とはどうやって検出されるものなのだろうか。実はデータは見つかるものではなく、我々が見出すものである、それもしばしば、ベーコンの指摘の通り、自然を拷問にかけて自白させるやり方によって。
例えば、もしアインシュタインの一般相対性理論がなかったら、皆既日食で、太陽の近傍を通る星の光の曲がり方を示すデータは決して検出されることはなかったろう。むしろ、このデータは一般相対性理論によって初めて存在するに至ったのである(その詳細はH.コリンズほか「七つの科学事件ファイル」104頁以下参照)。また、10-21~10-23秒しか寿命がない素粒子の存在を証明するデータが自然に見つかることは凡そあり得ない。つまり、一般相対性理論や素粒子の科学的な仮説が先行し、なおかつその検証のために必要な実験装置が考案されて初めて、これらのデータが存在するに至るのである。
そうだとすれば、リスク評価においても、科学の限界のために、いかなる具体的な危険な事態が出現するかを予見できず、その具体的な危険性を検証するための実験装置も考案できない状況下で、その危険性を示すデータが存在するに至ることなど(危険な事態が現実化した場合以外に)凡そあり得ない。
 
 これに対し、危険性を示すデータが検出されないことを安全性を導き出す根拠としてよいと説明するためのロジックとして使われるのが、問題の新技術は「従来技術の延長=実質的に同等にすぎない」から、或いは体細胞クローン技術は「(安全性が取り沙汰されている)遺伝子組換え技術は全く別物」だから、といったものである。
しかし、そもそも「従来技術の延長にすぎない」かどうかはリスク評価をしてみて初めて判明する結果なのに、それをリスク評価のための材料にするのは本末転倒も甚だしい。また、「従来技術の延長=実質的に同等」かどうかは真(認識)の次元ではなく、価値判断の次元の事柄である。それを科学的検討を行なうと称する場で実施することは越権行為というほかない。
また、体細胞クローン技術について、DNAを組み込まれる立場(ここでは卵子)からすれば、一部のDNAを組み込まれるか(遺伝子組換え技術)、それとも核全部のDNAを組み込まれるか(体細胞クローン技術)という違いでしかない。丸ごとDNAを組み込むから、一部だけのDNAを組み込む遺伝子組換え技術とちがって安全だという科学的根拠はどこにもない。

3、その3:善(倫理・法律)の判断とはどういうことか
 善の判断とは一言で言って、価値観をめぐる判断である。現代社会は多様な価値観が共存する場だから、善の判断もまた、多様な価値観の衝突の調整ということになる。
ここで取り上げたいことは、「多様な価値観」の変容という問題である。今、それを時間と空間の2つの軸に沿って取り上げる。
(1)、時間軸をめぐる「多様な価値観」の変容
これまで法律・倫理が問題にして来た価値は、いまここで生きている人を対象にしてきた。
しかし、それでは不十分ではないかという問題提起がなされている。それが一方で、死者の問題(臓器移植をめぐる死の定義)、他方で、胎児の問題、さらには未だ生まれざる未来の人々の問題である。
なぜこれが取り上げられることになったかというと、科学とりわけ生命科学の進歩のおかげで、人間、胎児、未来の人の価値が損なわれる恐れという新たな事態が出現したためである。
(2)、空間軸をめぐる「多様な価値観」の変容
 これまで法律・倫理が問題にして来た価値は、基本的に人及び人の集合(団体)を対象にしてきた。
しかし、今ではそれでは不十分ではないか、動物も人間と同等の価値を享受すべき存在であり、種が異なることを根拠に差別するのはおかしいという動物の権利が取り上げられるようになった。
そこで、体細胞クローン動物技術のリスク評価にあたっては、この動物への倫理という観点からも検討すべきである。
尤も、動物倫理の考え方として、動物が受ける「苦痛」に着目し、その苦痛を感じる能力に応じて人間と同等の価値を享受すべきであるという立場があるが、もしこれを倫理の根拠とするならば、倫理の対象は動物にとどまらない。植物でも微生物でも、彼らは悲鳴はあげないが、生命体である以上「苦痛」の可能性は否定できないからである。
例えば、DNAを大量コピーするためにDNAクローニングで、大腸菌に組換えプラスミドを進入させるためにリン酸カルシウムを加え、大腸菌の細胞壁を溶かし、あいた穴からプラスミドが浸入するようにするとき、それは大腸菌に「苦痛」を与えているのではないだろうか。
また、植物で遺伝子組換えをするために、DNAクローニングと同様、植物細胞に組換えプラスミドを進入させるために、植物の細胞壁をセルラーゼという酵素で破壊し取り除いてしまい、プラスミドがたやすく細胞内に浸入できるようにするとき、それは植物細胞に「苦痛」を与えているのではないだろうか[2]。或いは、植物で遺伝子組換えをするために、パーティクルガン法で、目的の遺伝子を結合させた微粒子を弾丸としてガンで植物細胞に撃ち込むとき、それは植物細胞に「苦痛」を与えているのではないだろうか。
 これに対し、何を寝ぼけたことをと思うかもしれない。しかし、人類は少し前まで、肌の色がちがうというだけで相手を同等の人間と見ることができず、或いは非ヨーロッパ人というだけで、召使の彼らの前で平気で裸になるなど、相手を同等の人間と見ることができなかったのである。今抱いている私たちの価値観がどれだけ普遍性が持ち得るのか、実は何も検証していないのである。

4、その4:美(快・不快)の判断とはどういうことか
リスク評価の中に美的な判断などという非科学的な評価を持ち込むのは論外であるというのがリスク評価関係者の大方の考えだと思う。
確かに、芸術至上主義的に、美的判断がリスク評価の最終判断となることは問題だろう。しかし、美的判断というものをバカにはできない。なぜなら、美的判断には、(常とは言わないが)原初的、直感的に本質を捉える場合があるからである。
例えば、多くの市民たちが、なぜ、あれほどまでに強く、遺伝子組換え食品に反発するのか--ひとつには、遺伝子組換え食品に対し、彼らはごく素朴に、何かおぞましい、得体の知れない「不快」な感情を抱かずにはおれないからである。これは厳密なバイオ技術の理解に立脚したものではないとしても、遺伝子組換え技術が、従来の品種改良技術とは断絶した、種の壁を強引に突破する力業であることを知ったとき、生命現象に対するその強引な介入行為に対し、同じ生命体として、思わず、おぞましく、許し難い「不快」な感情がわき上がってくるとしたら、それは十分理に適ったことであり、リスク評価の最初の一歩として極めて貴重なものではないかと思う。これがリスク評価の美(快・不快)的判断である。
また、狂牛病でのたうち回り狂死に至った牛の映像を見た市民たちが、これは「これまでの病気のイメージ」とは隔絶した、生命体が罹るべき病気の限界を越えたとしか思えないような、何か、悪魔に呪われているのではないかと思わずにおれないような、思わず、おぞましく、許し難い「不快」な感情がわき上がってくるのを押えられないとしたら、それもまた十分理に適ったことであり、その判断が検査方法として様々な検出限界を指摘され、検査費用もかさむと散々ケチがつけられたにもかかわらず、利害打算を超えて、全頭検査が多くの市民に支持された根拠になっていたと思われる。これもまたリスク評価の美(快・不快)的判断というものである。
むろん、これまでも、リスク評価の場で、こうした市民の声は暗黙のうちに反映されていた。しかし、それはあくまでも「科学的評価」というリスク評価の正式な判断手続の外野席で、こっそりと取り上げられ(尤も、大抵は無視され)てきた。しかし、リスク評価の「解き方」によれば、こうした市民の声はリスク評価の手続の真っ只中で正面から取り上げられるべき事柄であり、それこそが正しい「解き方」である。

5、その5:リスク評価の判断者とは誰か
以上から、リスク評価の正しい「解き方」によれば、誰が判断者として相応しいかも自ずと明らかだろう。
これまでリスク評価は専門家=科学者がやるものと相場が決まっていた。しかし、リスク評価の本質は科学の問題ではなく、その限界の問題である。ところで、科学の問題に通暁している専門家=科学者であっても、その人は必ずしも科学の限界の問題に通暁しているとは限らない。そうだとすると、ここで必要な専門家とは、第一に、科学というシステムの内部で優秀であるような科学者ではなくて、むしろ科学の限界といういわば「科学のメタレベルの問題」或いは数学基礎論に対応するようないわば「科学基礎論の問題」に通暁している者が相応しい。
他方で、リスク評価とは科学の限界を踏まえて、善(倫理・法律)と美(快・不快)の判断を導入して、それらを総合して判断することである。従って、ここで必要な専門家とは、科学者というより、善や美の方面の文化的訓練を受けた別個の専門家が相応しい。そして、ここで美的判断者として相応しいのは別に美学者でも芸術家でもなく、食の安全と安心についてごく普通の良識とセンスを備えた一般市民である。
ただし、善や美の適正な判断は、真(認識)の適正な判断を基礎にして初めて可能となる。そのために、善的判断者や美的判断者は、予め真(認識)の判断を十分正確に理解しておく必要がある。そこで、彼らと前記の科学の限界に通暁した専門家との緊密な連携作業が不可欠となる。であれば、科学の限界に通暁した専門家の側でも、科学の限界について、一般市民に理解可能な言葉でもって語れる能力(しかし、昨今の専門家でこれを備える者を見つけ出すのは至難の技である!)を備えることが必須となる。

6、おわりに
以上から、リスク評価の急務とは、①.リスク評価の正しい「解き方」に基いてシステムと評価方法を再構築することであり、②.科学の限界に通じ、一般市民に理解可能な言葉でもって語れる専門家=科学者を育成することである。後者の実現のためには、従来の、異業種交流といっても所詮同業者(科学者)内部の交流でしかないシステムでは全く使い物にならない。改めて、近代科学の祖デカルトが実行した原点に戻り、食の安全と安心についてごく普通の良識とセンスを備えた一般市民=「世間」という大きな書物と交流し、そこから学び直す新たなシステムが作り上げられなければならない。

09.09.27 柳原敏夫)


-> 青山学院大学 総合研究所掲載の文「リスク評価の課題とは何か



[1] これに対する私の解は、法律至上主義の検察の立場でも、芸術至上主義の澁澤の立場でもなく、――美のことはまず美に聞け。それから、善の判断に進め、というものである。
[2] 事実、植物の遺伝子組換え技術を開発する研究者の中には、植物の苦痛を論じる者もいる(例えば、It should be pointed out that the cloned CaMV DNA suffered no major insertions or deletions during reintroduction into the plant.[Howell Stephen H]

2008年9月11日木曜日

「リスク評価」論への戸惑い・翻弄(2008.9.11)

『リスク評価』論への戸惑い・翻弄」青山学院大学総合研究所広報冊子NEW SOKEN2008年所収。

「リスク評価」論への戸惑い・翻弄

「リスク評価」の研究の中間報告めいたものをというリクエストだが、とてもそんなものは書けない。なぜなら、法律家にとってリスク評価は躓きの石みたいなもので、この間、戸惑いと途方に暮れることばかりだから。以下、その戸惑いについて報告したい。

 法律家が「リスク評価」に躓くのは1つには、それが科学に基づくものだからだろう。というのは、法律は何を隠そう、世の中の多種多様な専門分野の中でも最も科学から遠ざかった分野だから。文学でさえ、ピアジェの構造主義やチョムスキーの生成文法、ヤコブソンの構造主義的言語学などの一流の科学的研究の成果を踏まえているのに、法律にはそれすらない(構造主義的法律学すらまだ登場していない。その昔、川島武宜が「科学としての法律学」に挑戦したが、それも彼だけで途切れてしまった)。この夏、法律の最先端分野と言われる特許法を精読したが、発明の機械的、形式的な把握の仕方というレベルの低さに唖然とした。こんな機械的な発想では、最先端の科学や技術の成果である発明の本質にとても肉薄できないだろう、それができないようではいくら法律的な議論を深めていったところで不毛でしかない、と法律の先行きを考えて暗澹たる気持ちにすらなった。

もう1つ、私には個人的な思い込みがあって科学に躓く傾向があった――科学とはもともといかがわしいものである、と。小学校3年生のとき、クラスの女の子から「1+1は?」というトンチクイズを出され、「2だ」と答えると、彼女に「ブブゥ、残念でした。答えは1です」きょとんとする私に向かって彼女は言い放った。「だって、1個の粘土にもう1個の粘土を足してごらん。粘土は1個よ」これ以上完璧な答えはなかった。私は言葉を失った。以来、学校で教える科学と称する学問は、それは単にテストで○をもらうための方便でしかなく、科学は真理とは無縁のものであるというのが私のひそかな確信となった。

しかし、にもかかわらず、私は、現在、科学以上に信頼を置いている分野はない。それは、科学が時と場合によっていかにいかがわしさと隣合せのものであろうが、それがいかにまだ未解明なものを数多く抱えていようが、要するに、ごまんと様々な欠点を抱えていようが、にもかかわらず、それらを上回るただ1つの長所を持っていると思えるからだ。それが証明である。つまり、或る命題が証明されていない限り、科学はその命題の存在を主張することは許されないとしていることだ。それは権威や多数決を否定することである。そのことを教えてくれたのが数学者遠山啓であり、言語学者チョムスキーだった。遠山啓によれば、直角三角形に関するピタゴラスの定理は、経験的には古代エジプトで明らかであったが、古代ギリシャが要求したものは、それを真実であると主張するためには証明することであった。古代エジプトのように、王の権威でもってこれを真実とせよと命ずることを認めなかった。あくまでも証明が求められ、その結果、どこの馬の骨か分からないような人物(ピタゴラス)でも、それを証明し得た以上、受け入れられた。
この証明の精神こそ、過去、現在、未来にわたり科学が信頼を持ち得る殆ど唯一の基準のように思える。

ところが、今はやりの「リスク評価」は、この証明精神を骨抜きにするための、いかがわしさに満ち溢れているのではないかと思うことがある。なぜなら、証明とは、本来、或る命題を積極的に証明することであるのに対し、その反対の命題が証明されていないことを持って、こと足れりとするようなロジックがまかり通っているからだ。例えば、遺伝子組換え生物が外界に及ぼす危険性について、本来であれば、「そのような危険性がないこと」について証明してみせるのが科学である。しかし、世の中で往々にまかり通っているのは、上の命題の反対の命題「そのような危険性があること」を持ち出して、その命題を根拠づけるデータが今のところ示されていないことをもって、「そのような危険性があること」は今のところ証明されていない、だから、「そのような危険性がないこと」と考えてよいという結論、或いはそのような結論を前提にした対策が導かれていることである。これは、あたかもピタゴラスの定理について、「直角三角形の2辺の2乗の和は、斜辺の2乗にひとしい」とは限らないという命題が今のところ証明されていない以上、「直角三角形の2辺の2乗の和は、斜辺の2乗にひとしい」という命題が証明されたと考えてよいというのと同様である。
これはインチキではないか。なぜなら、証明とは元来、その命題を積極的に証明することであって、その反対命題を成立しないことを暫定的、消極的に示しただけでは足りないのは明らかだからだ。

しかし、こうしたインチキが堂々とまかり通っているのを見ると、これは確信犯ではないかとすら思う。つまり、「リスク評価」は科学に基づく必要はなく、単に科学に基づいているように見せかけることができさえすればよいのだ、と。言い換えれば、「リスク評価」は偽装科学が活躍する舞台だ、と。
 しかし、これは何も特別なことではない。マキアヴェベリは、君主論で、君主は聖人である必要はないが、そう見える必要があるということを言っている。それと同じことだからだ。つまり、「リスク評価」もまた科学に基づく必要がないが、そう見える必要がある、そして、それ以上でもそれ以下でもない、と。

 だから、「リスク評価」は本質的に「政治」の領域の問題である。もっと言えば、マキアヴェベリの君主論が、いかにして大衆の指示を獲得するかという「広告」の問題であるのと同様、「リスク評価」もまた、いかにして大衆の指示を獲得するかという「広告」の問題である。
それゆえ、「リスク評価」を有効に分析し、批判するためには、科学者や法律家というより、マキアヴェベリのような冷徹な政治批評家や広告批評家の才能と力量が求められる。もちろん、この指摘自体が、現在「リスク評価」を推進している人たちにとって容認しがたいことだろう。しかし、今まず必要なことは、「リスク評価」のやり方はいかにあるべきかを問うことではなく、現在進行中の「リスク評価」の正体の科学的分析である。それが適正に科学的に分析されれば、そこで、きっと「政治」であり、「広告」であることが明らかにされるであろう。
 つまり、まずは、「リスク評価」が科学であることをまとった「政治」であり、「広告」であることことを知らせないことを止めて、科学であることをまとった「政治」であり、「広告」であることことを科学的に証明した上で情報公開すべきである。

その上で、科学であることをまとった「政治」であり、「広告」である「リスク評価」を、では、どうしたら、よりまともな「政治」であり、「広告」として機能し得るようになるのか、という課題に初めて正面から取り組むことが可能になるだろう。ここでもまた、私は、科学的精神のエッセンスである「証明」が最大の武器になり得ると思う。但し、今度は、「リスク評価」が対象としている遺伝子組換え生物といった不確実な現象だけではなく、それらの開発をめぐる有象無象の利害関係人の利害衝突という魑魅魍魎とした不可解な現象の「証明」である。その意味で、科学的精神の「証明」が活躍する出番はまだまだ無尽蔵にあり、新たなに「政治」の科学者、「広告」の科学者の出番も無尽蔵にある。この意味で、法律家の私に「法律」の科学者として何ができるのか、「リスク評価」を通じて、突き付けられ続けている。
08.08.25 柳原敏夫)

-> 青山学院大学 総合研究所掲載の文「リスク評価」論への戸惑い・翻弄