新米学生にとって、リスク評価論の謎とその解明(試論)
2005年8月19日
目 次
0、用語の解説
1、はじめに――ささやかな表明――
2、リスク評価論の謎
3、リスク評価論の基本問題――リスク評価論の2つの次元の存在とその自覚――
(1)、2つの次元の並存と独自性をめぐる争い
(2)、2つの次元の並存と独自性をめぐる認識の違いがもたらした事例の紹介
(3)、真(科学的認識とはなにか)をめぐる対立・葛藤――一般性と普遍性の混同――
(4)、善(道徳・法律とはなにか)をめぐる対立・葛藤1――「市民」の捉え方をめぐって――
(5)、善(道徳・法律とはなにか)をめぐる対立・葛藤2――適正手続の保障の導入をめぐって――
(6)、リスク評価の全体構造をめぐる対立・葛藤――シビリアンコントロール導入をめぐって――
(7)、リスク評価の全体構造をめぐる対立・葛藤――倫理・価値を含んだ新しい科学の提唱――
(8)、リスク論の新米学生にとっての最大の躓き――科学の限界を評価する基準の不在――
0、用語の解説
ここでは、食品の安全性に関するリスク評価等について、政府の食品安全委員会の解説による。
(1)、リスク評価
食品中にハザード(危害要因)が存在する結果として生じる健康への悪影響の起こる可能性とその程度(健康への悪影響が発生する確率と影響の程度)」を評価すること。
(2)、ハザード(危害要因)
健康に悪影響をもたらす原因となる可能性のある食品中の物質又は食品の状態。例えば、有害な微生物、化学物質などの生物学的、化学的、または物理的な要因がある。
(3)、リスクコミュニケーション
前記(1)のリスクに関する情報及び意見の相互交換。
(4)、遺伝子組換え食品
遺伝子組換え技術を利用して開発された食品をさす。ある生物から有用な遺伝子を取り出して、他の生物に導入することで、農産物の従来の育種の範囲を拡大することが可能となった。
具体的には、栄養成分や機能性成分に富む農作物や不良環境や病虫害に強い農作物などが挙げられる。
(5)、「リスク・ベネフィット」原則(リスク・ベネフィット論)
これについては、とくに解説なし。
1、はじめに――ささやかな表明――
真の法律家とは法律を最も信用していない連中のことである――ご多分にもれず、最初この言葉を聞いた時、私もまたその意味がさっぱり分からず、それが胸に落ちるまで20年近く要した。それまでの間、法律家とは所詮、人の不幸を食い物にするハイエナでしかないのかと正直なところ思っていた(だから、法律を仕事・研究の対象にしようとする連中の気が知れなかった)。しかし、それ以上の問題はそうした悩みを共有できる場所、人がいなかったことである。そうした私にとって、この悩みを初めて共有できた場が、「日本の法学の先駆的業績」と評価されている民法学者の川島武宜の主著「科学としての法律学」(1958年)である。川島は、この本の中で、「学生時代、法律学というのはいったいどういう学問であるのかもわからないで、日々の学生生活に少しも生き甲斐を感ずることができなかった」(2頁)と法律学への不信を赤裸々に語っている。にもかかわらず、「自分も含めて、多くの法学生たちが、そうした法律学に興味を持つようになったのは、実は法律学を正しく理解したからではなく、むしろ、普通の素人にはわからない『秘伝奥義的技術』を身につけたと感じて、素人には分からない技術を使いこなせることに一種の優越感・快感に浸るためである」と看破した。
そこで、川島は、素人には分からない「秘伝奥義的技術」を駆使して、素人をちょろまかすためだけに存在しているとしか見えない法律学への不信を正面から表明し、これに代わって、法的判断の客観性=科学性を確立することを彼自身の終生の課題とした。それが「科学としての法律学」である。また、その成果のひとつが、彼の弟子の平井宜雄の因果関係論(因果関係を、事実〔科学的判断〕としての因果関係と、それを踏まえた法的な判断としての因果関係という2つの異質な次元があることを明らかにした)として広く知られている。
これに対し、私は、今再び、自分が同じ問題に直面していると感じている。それは、リスク評価論の新米学生になったからである。そして、リスク評価論を読み始めてみて直面した現実とは、「リスク評価論というのはいったいどういう学問・制度であるのかわからないで、日々の勉強生活に少しも生き甲斐を感ずることができなかった」からである。正直言って、リスク評価の文献を読んでも、「ダメだア、1行たりとも理解できねえ」というのが正直な実感である。それどころか、市民運動の現場からも、リスクコミュニケーションに対して「口にするのも汚らわしい大嫌いな言葉」「本の索引からも削除してしまい、燃やしてしまいたい」といった過激な反発の声を聞くに及んで、ひょっとしてこれは自分ひとりの感想ではなく、ここには多くの市民に共通する問題が潜んでいるのではないかと思い直すに至った。そして、これだけ根深い不信をばらまいているにもかかわらず、他方で、こうした意味不明のリスク評価論を論じてやまない人たちがいるというのは、前述した川島の指摘の通り、「普通の素人にはわからない『秘伝奥義的技術』を身につけたと感じて、素人には分からない技術を使いこなせることに一種の優越感・快感に浸るためである」のではないかと疑うようになった。
そこで、私も、ひそかに、川島にならい、素人には分からない「秘伝奥義的技術」を駆使して、素人をちょろまかすためだけに存在しているとしか見えない(にもかかわらず、この世にのさばり幅を利かせている)リスク評価論への不信を正面から表明し、これを一掃して、リスク評価論の客観性=科学性を確立することを私自身の終生の課題としたいと願うようになった。
なお、誤解がないように言っておきたいが、ここで私が問題にしているのは、リスク評価論の客観性=科学性であって、たとえば或る化学物質がどの程度の危険性があるかといったリスク評価の科学性のことではない。ひょっとして今のリスク評価は科学的に行なわれているのかもしれない(もっとも、BSE〔狂牛病〕のリスク評価からも明らかな通り、すべてがそうであるとは到底思えないが)、しかし、ここで問題なのは、リスク評価の科学性ではなく、リスク評価のシステム全体がどのような構造になっているのか、その科学的(=客観的)な解明であり、そして、その解明に基づいて、客観的・科学的なリスク評価を担保する方法を発見すること(私は、これらを総称して、「リスク評価論の客観性=科学性」と呼んでいる)である。ところが、BSE(狂牛病)のリスク評価を見ていても明らかな通り、リスク評価論の現状は、「普通の素人にはわからない『秘伝奥義的技術』」に陥っている。そこにこそ、今、科学の光を照射する必要がある。川島にならっていえば、それが「科学としてのリスク評価論」の探求である。
2、リスク評価論の謎
リスク評価を学び始めて以来、最も不可解と感じた謎は、リスク評価論では何が最も基本的な問題なのか、何が最も根本的な課題なのか、それが少しも明らかにされていないことである。
もともと、多様な価値観の共存を前提とする現代の民主主義国家の下では、当然、どんな制度・システムにおいても、その制度のあり方・運用の基本的指針をめぐって、多様な価値観の共存・対立を反映して、そこに根本的な理念・価値観の対立が存在する。そのことは、とりわけ重要な制度であればますます顕著である。
例えば、刑法という制度であれば、その制度のあり方・運用の基本的指針をめぐって、古くから、刑法は秩序維持を目的とすべきであり、そのために刑法を積極的に発動すべきであるという価値観と、刑法は個人の生活利益の保護を目的とすべきであり、その発動はやむを得ない必要最小限に限定されるべきという価値観の基本的な対立が存在した。
ところが、リスク評価論では、この基本的な問題がさっぱり分からない。つまり、もともと民主主義国家は、多様な価値観の共存を前提としているのだから、リスク評価論という重要なシステムにおいても、多様な価値観の共存・対立が反映して、リスク評価のあり方・運用の基本的指針をめぐって、基本的な理念・価値観の対立が当然のことながら発生する筈である。にもかかわらず、今のところ、リスク評価をめぐって、そこに、どういう根本的な問題が横たわっているのか、この基本的な対立・問題点は、我々市民の前には、ちっとも明らかにされていない。あたかも、何の対立も葛藤もないかのように、すべての矛盾を解決した万歳三唱の制度として存在しているかのような相貌を見せている。しかし、もしそうだとしたら、それは欺瞞でしかない。なぜなら、多様な価値観の共存・対立を前提にしている以上、無矛盾な制度・システムなど原理的にあり得ないものだから。また、かりにそうならば、実際上、少なからぬ市民からリスク評価論に対する激しい反発など起きる筈がない。
そこで、リスク評価論をめぐって、そこにどういう根本的問題が横たわっているのか、それを明らかにすること――これが「科学としてのリスク評価論」の探求その1の課題である。
さらに、ここで重要なことは、リスク評価論をめぐる対立の存在を正しく認識することにより、リスク評価に関わる者たちが、対立するどの立場を選択するのか、主体的に選び取ることができることである。したがって、もし、自分の選択が不都合をもたらすと気がついた場合、それに対し、責任を取ることもできるし、その反省から、別の選択を主体的に選び直すこともできる。つまり、リスク評価の制度に対し、主体的、責任をもって向かい合うことができる。逆に言えば、リスク評価の制度をあたかも自然の与えられた存在のごとき所与のものとして受けとめるのであれば、そこからどんな不都合が生じても、天変地変の災害のごときものとして、受動的に、成り行き任せに向かい合って済ませてしまう恐れがある。つまり、そこでは自然災害のように「しょうがない」と簡単に諦め、人間の責任が問われない。
ただでさえ、日本には古来から無責任体制の傾向が蔓延っている。これ以上、そうした悪弊をはびこらせないためにも、そして、リスク評価の制度に対してきちんと主体的、責任をもって向かい合うためにも、リスク評価に関わる者たちが、どういう価値観を選択し、その結果、どういう制度のあり方になったのかを認識し、自覚しておくことが是非とも必要不可欠である。
3、リスク評価の基本問題――リスク評価論の2つの次元の存在とその自覚――
(1)、2つの次元の並存と独自性をめぐる争い
これまでのリスク評価論で必ずしも明確にされてこなかったが、「科学としての法律学」を確立しようとしてきた川島武宜や平井宜雄の方法に従えば、ちょうど、法律で問題になる因果関係が①事実上の(客観的・科学的な)因果関係と、②法的な因果関係の2つの次元にまたがる問題であることが明らかにされたように、リスク評価の問題もまた、
(a)、①真(認識)と②善(道徳・法・実践)の両方の次元にまたがる問題であり、
(b)、①真(認識)と②善(道徳・法・実践)という異質な次元について、それぞれ、ほかの次元の判断を括弧に入れるという独自の吟味を経ることが不可欠である。それは、一方の判断をもって、他方を省略したり、代用したりすることはできない。
(c)、②善(道徳・法・実践)の次元の判断とは、①真(認識)の次元の判断に対し、次のような特色を持つ。
(ⅰ)、ここで問われるべきことは真か否かという二者択一の問題ではなく、最初から複数の結論が相並び立ち、それらは根本的な価値の違いによって、おのずから導かれる結論が異なってくるという関係にあること。
(ⅱ)、いかなる根本的な価値の立場に立ったとき、具体的な問題でどのような帰結に導かれるのか、あらかじめ、その(立場-帰結)の論理的な構造を明らかにされるべきであって、
(ⅲ)、その上で、自分がどのような根本的な価値観に立ち、そこからどのような帰結を選択するのかを、認識ではなく、まさに決断=実践することがここでは問われる。
しかし、このことを承認するのに抵抗を示す多くの人たちがいるにちがいない。つまり、リスク評価とは、あくまでもその方面の専門家=科学者の判断だけ完結するものであり、その意味で、上の②善(道徳・法・実践)の次元は必要ない、と。
この反発は、かつて、文学書がわいせつかどうかが問題になったチャタレー事件や悪徳の栄え事件における文学者たちの反応と似ているところがある。つまり、両者はともに専門家(科学の専門家である科学者、文学の専門家である文学者)の専権の領域を不当に干渉するものであるという反発の点において共通する。しかし、この考え方は世界の認識としてそもそもまちがっている。
200年以上前、哲学者のカントは、我々が世界を見、物事を判断するとき、①真(認識的)、②善(道徳的)、③美(美的、快か不快か)という異なる独自の3つの次元の判断を持つことを明らかにし、その各々の次元について、それまでの判断のあり方を批判した(純粋理性批判、実践理性批判、判断力批判)。
もっとも、この3つの異なる次元が存在し、これがそれぞれ独自のものであるということは、我々の日常で明確に自覚されて入るわけではなく、通常、この3つの次元は渾然と交じり合っている。夏目漱石は「文学論」の中で、19世紀のフランスで、シェークスピアの「オセロ」を上演した際、悪役のイアーゴーの女房殺しの場面に、憤激した観客が俳優を射殺した事件を紹介しているが(全集14巻174頁)、これなどは②善(道徳的)の次元と③美(美的、快か不快か)の次元を区別することができなかった事例である。
しかし、この観客を笑うことはできない。我々もまた、例えば、人を愛するとき、相手が②善(道徳的)の次元で人間的魅力があるのか、それとも③美(美的)の次元で美的、性的魅力があるのか、さらには両方ともあるのか、愛する本人にもよく分かっていないことが多い。また、第2次大戦後の現代美術に大きな影響を与えたフランスの美術家デュシャン(1887~1968)が「泉」と題して便器を美術展に提示したとき、多くの者たちは眉をひそめ、狼狽したからである。しかし、デュシャンは単に、《芸術を芸術たらしめるものが何であるかをあらためて問うた》(柄谷行人「倫理21」67頁)にすぎなかった。つまり、便器という対象に対し、①真(認識的)と②善(道徳的)関心を括弧に入れて見るという芸術本来の判断を求めただけのことである。しかし、このことを理解するには、それ相当の文化的訓練が必要である。
その意味で、もともと、科学者もまた、こうした文化的訓練を積んだ者のことである。もともと近代の科学は、研究の対象を、②善(道徳的)的と③美(美的、快か不快か)的関心を括弧に入れて認識することにおいて成立したものである。この点で、医者も同様である――産婦人科医は、妊婦を美的或いは性的に見ることを括弧に入れる訓練を積んでいる。外科医も、手術の後で、血のしたたるビフテキを平気で食えるほど、②善(道徳的)的、③美(美的、快か不快か)的関心を括弧入れる訓練を積んでいる(柄谷行人同書同頁参照)。
したがって、リスク評価論においても、
(a)、①真(認識)と②善(道徳・法・実践)の両方の次元が存在し、
(b)、おのおの判断においては、それ以外の次元(①真〔認識〕であれば、②善と③美。②善〔道徳・法・実践〕の次元であれば①真と③美)を括弧に入れて判断する必要があることが明白である。
ところが、問題は、ことの本質は①真(認識)の次元や③美の次元の判断と同様なのにもかかわらず、②善(道徳的)の次元の判断について、こうした文化的訓練を積んだ者が殆どいないということである。それは、この次元の専門家のひとりである法律家についても基本的に妥当する。川島武宜や平井宜雄などの少数者を除いて、前述したチャタレー事件や悪徳の栄え事件の本質(裁判の対象がたとえ科学であろうが芸術であろうが、その最終的な判断は、①真(認識的)と③美(美的、快か不快か)的判断を括弧に入れてあくまでも②善(道徳的)の独自の次元でなされること)が今なお正しく理解されていないことからも、そして、その変奏曲(昨今の事例として「石に泳ぐ魚」事件など)がいまだにくり返し続いていることからも明らかである。
ましてや、②善(道徳的)の次元の判断について素人同然である科学者の人たちが、①真(認識的)と③美(美的、快か不快か)的判断を括弧に入れてあくまでも②善(道徳的)の独自の次元で判断を下す文化的訓練ができていないとしても無理はない。しかし、問題は、そうした点で素人同然の科学者が、実は、現実のリスク評価論の場面において、①真(認識的)の次元の検討(この次元では、科学者として上記の文化的訓練ができているかもしれないが)を終えたあと、前述した善の次元の文化的訓練(①真〔認識的〕と③美〔美的、快か不快か〕的関心を括弧に入れて判断する)もできないまま、また、恐らくその自覚も全くないまま、ズルズルと②善(道徳的)の次元の検討を終えて、リスク評価について最終結論を出すのだとしたら、それは相当にヤバンで危険なものと言わざるを得ない。なぜなら、法律の因果関係論でも周知の通り、もともと②善(道徳的)の次元の判断は、①真(認識的)の次元の判断と内容的にちがってきて当然である(公害事件などでは、たとえ①につき、事実上の因果関係の立証が不十分であっても、②においては、言われなき被害を蒙った被害者救済の観点から、法的に因果関係を肯定したり、確率的に肯定するという独自の判断をすることがある)。にもかかわらず、そうした文化的訓練を経ていない人たちが、最初に自分たち自身で検討して導き出した①真(認識的)の次元の検討結果を、②善(道徳的)の判断においても、そのままズルズルと肯定してしまうという誘惑に打ち勝つことは、人性の本質上、まず不可能であると言うほかないからである。
(2)、2つの次元の並存と独自性をめぐる認識の違いがもたらした事例の紹介
(1)で述べた「①真(認識)と②善(道徳・法・実践)の次元の並存とその独自性」を承認すべきかどうか、をめぐる争いが実際上決定的な違いとなって現れた最近の事例をひとつ紹介しておく。
それは、本年3月25日に東京高裁で下された元厚生省生物製剤課長松村明仁被告人に対する判決である。同判決は、松村被告人は有罪としたが、彼の上司の上司である薬務局長も事務次官にも責任はないとした。その理由は、「上司には血液製剤の安全性を判断する専門的な知識も能力もなかったから」である。
これは、法律家といえども、「因果関係に限らず、凡そ法律の概念の本質は次のことである」ということが依然、十分に理解されていないことを示している。
(a)、①真(認識)と②善(道徳・法・実践)の両方の次元にまたがる問題であり、
(b)、①真(認識)と②善(道徳・法・実践)という異質な次元について、それぞれ、ほかの次元の判断を括弧に入れるという独自の吟味を経ることが不可欠である。それは、一方の判断をもって、他方を省略したり、代用したりすることはできない。
つまり、確かに、血液製剤の安全性の問題は、第一義的には、①真(認識)の次元の問題であり、そこではその方面の専門家(=科学者)の判断が求められる。この点で、非専門家である上司(薬務局長ら)に責任はないというのは正しい。しかし、それは純然たる科学的評価のことであり、ここで問題になっているのは、あくまでも血液製剤の安全性に関する社会的評価であり、なおかつその社会的な責任である。
したがって、血液製剤の安全性の問題は、そのあと、引き続き、②善(道徳・法・実践)の次元の問題として判断することが問われる。そして、この次元においては、①の担当した専門家(科学者である上記裁判の被告人)が引き続き担当するのはむしろ適切ではなく、ここでは法的、社会的見地から、それに相応しい人物たち(本件では、最終判断を下す上司である薬務局長や事務次官)がこれを担当し、なおかつその判断の責任を負うべきである。
ところが、担当した裁判官は、この「科学としての法律学」のことが十分理解されていなかったため、社会的責任が問われる場面であるにもかかわらず、
「血液製剤の安全性の問題は、あくまでもその方面の専門家=科学者の判断だけ完結するものであり、彼らに任せておけばよい(つまり、②善(道徳・法・実践)の次元の判断は必要ない)」
といった俗論を受け入れてしまい、そこから、本来のものとは全く正反対の結論を導き出してしまったのである。
そのため、この判決が、世のコモン・センスから激しい批判を浴びたのは不思議ではない(4月10日日経新聞の内外時評「責任負わない事務官たち--問題残した薬害エイズ訴訟--」参照)。
(3)、真(科学的認識とはなにか)をめぐる対立・葛藤――一般性と普遍性の混同――
「リスク評価にとって、科学的認識とはなにか」をめぐる対立として第一に取り上げるべきことは、「一般性と普遍性を混同してしまう」ことである。つまり、本来、科学的認識とは、普遍性をもったものでなければならないのに、それを見落として、経験から抽象される一般性(俗にいえば、単なる目安)で足りると思い込むことである。その結果、経験から抽象された単なる「目安」でしかない一般性の基準が、安全性確保の基準とされて堂々と通用するというヤバンで危険な事態が発生する。
その重要な一例として、遺伝子組換え(以下、GMと略称)作物の野外実験の実例を挙げる。GM作物の野外実験にあたっては、花粉の飛散による一般作物との交雑を防止するために、一般作物との隔離距離を定めているが、問題はこの隔離距離の数値を導き出すための方法である。
たとえば、2004年、GMイネの野外実験において、農水省が導き出した隔離距離は20mである(注1)が、その数値を導き出した根拠は、過去の5つの実験例から得られたデータを元に、その中の最大値15mに基づいて5mプラスしたことにある。しかし、これがどれくらい普遍性を持たず科学的根拠がないか、その翌年、新しい交雑距離の実験結果、25.5mが出たという理由で、さっそく、26mに延長されてしまったことからも明らかである(注2)(しかも、今度は、実験結果から0.5mしか余裕を持たせておらず、なぜ最初のように、実験結果から5mだけ余裕を持たせなかったのかも不明である)。もともと、予見不可能性とその回復不可能性を特質とするGM事故に直面するGM作物の野外実験においては、1粒の交雑からでもGMイネが3年後には1千万粒に指数的に爆発的に拡大する可能性があることから、交雑防止は100%完璧を期す必要がある。それゆえ、交雑防止策としての隔離距離は、単なる目安でしかない一般的なものではダメで、1粒の例外をも許容しない普遍的なものでなければならない。にもかかわらず、農水省が導き出した隔離距離は、単に5つの実験報告の最大値を元に算定されたものであり、その上、その最大値が得られた実験において調査したイネの株数はたった2株である。つまり、これは単にわずかばかりの経験から抽象されたただの「目安」でしかなく、普遍性を主張するにはお粗末過ぎる。そして、このようなお粗末な「目安」のために、回復不可能な交雑の事態が発生する危険性は大きく、この点で、科学的認識のイロハもわきまえない農水省の責任は極めて重大と言わざるを得ない。
同様な指摘は、以下の通り、つとに研究者からもなされており、知らなかったという弁解は農水省には通用しない。
「現時点では安全性や環境への影響に関する基礎研究が乏しすぎ」「「今あるデータを基に花粉飛散距離を普遍化することは禁物であり、それを守ったからといって、交雑を完全に防止することはできない」(植物育種学・受粉生物学専攻の生井兵治氏)
(4)、善(道徳・法律とはなにか)をめぐる対立・葛藤1――「市民」の捉え方をめぐって――
リスク評価においては、これまで「それは、誰にとってのリスク評価か」という問いがなかった。つまり、そこでは、抽象的、一般的な「市民」という前提で、暗黙のうちに、私たち市民全部にとってのリスク評価が議論されてきた。これは、ちょうど、近代市民法が、抽象的、一般的な「市民」という前提で、契約自由の原則や過失責任の原則を考えてきたのと同じである。
しかし、本来なら遅きに失することであるが、リスク評価においても、そこでは、具体的にどういう「市民」のリスクが問われているのか、早急に、これを明らかにする必要がある。ちょうど、近代市民法が、抽象的、一般的な契約自由の原則や過失責任の原則を形式的に適用した結果、貧富の拡大や、危険な経済活動の結果謂われなき重大な被害の発生といった理不尽な事態をもたらし、それに対する深刻な反省から、抽象的な「市民」を、(労働関係なら使用者と労働者、賃貸借関係なら貸主と借主、消費者関係なら事業者と消費者といった風に)具体的に社会的強者と弱者に分類し、或いは(企業とその周辺の住民といった風に)危険性の発信者と受信者に分類したように。
なぜ、こうした分類が意味があるかというと、それは、分類ごとに正義・公平の見地からその中身に相応しい原理を見つけ出し、分類された市民ごとにそれに相応しい原理を適用していくべきだからである。ちょうど、近代市民法が、実質的公平の実現のために、社会的強者や危険性を発信する企業と、社会的弱者や危険性の受信する住民とでは、適用すべき原理が異なっているのと同様である。
今、こうした「市民」の具体化の結果、少なくとも、次のことが明らかになるであろう。リスク評価論で、よく「リスク・ベネフィット」原則(ただし、その正確な内容は必ずしも明らかではない。ここでは、さしあたり、「誰がリスク発生の責任を負うか」という問題について、「リスクの発生を通じてベネフィットが帰する者に、そのリスクに関する責任も負わせるのが公平に適う」という意味で理解しておく)が話題になるが、少なくとも、この原則が適用される対象は、もはや、抽象的、一般的な「市民」であってはならない。そして、「リスク・ベネフット」原則とは、理念の中身として「利益の帰するところに、損失もまた帰する」という報償責任の原理と同じであることを考えれば、この原則が適用される対象とは、そのリスクの発生を通じて、経済的な利益が見込まれる市民=法人・企業にほかならない。これに対し、そのリスクの受信者である市民=周辺住民や消費者たち(これを経済的弱者とも言うことができる)には、「リスク・ベネフット」原則は適用されるべきではなく、彼らに適用されるべき原理とは、不合理な差別の禁止である――ベネフィットは負わない経済的弱者に対し、リスクのみ負わせるのはまさに不合理な差別に該当し、禁止される、と。
このことは、たとえば、GM作物の野外実験のリスク評価において最も顕著に当てはまる。GM野外実験を通じて、ビジネス上の莫大な利益が見込まれる人(法人・企業)のリスク評価と、ベネフィットは負わず、GM汚染というリスクのみ負う周辺住民のリスク評価のあり方は、おのずから全く異なってくる。前者には、基本的に、「リスク・ベネフット」原則=「利益の帰するところに、責任(予防責任)もまた帰する」が適用されてしかるべきであるのに対し、ベネフィットは何も負わず、GM汚染というリスクのみ負う周辺住民に適用されるべき原理とは、無条件に、彼らにリスクを負わせてはならない、という原理である。
これに対し、本年5月、米国の牛の生産者団体の幹部が「日本の消費者は、牛を食べてベネフィットを享受しているのだから、リスクも負うのが当然だ」旨発言したことが報道されたが、これはベネフィットの意味のすり替えである。この論理だと、もし工場の廃液、煤煙、騒音、化学物質などによりリスクに晒される周辺住民も、たまたまその工場の製品(自動車、食品など)を購入していたなら、リスクの責任もまた自ら負わなければならないことになる。発生させたリスクに対応するベネフィットとは、そのような個人が対価を支払って購入した商品を使用することによって得られる利益のことではない。発生させたリスクを上回る、その発生者に見込まれる経済的利益のことにほかならない。
(5)、善(道徳・法律とはなにか)をめぐる対立・葛藤2――適正手続の保障の導入をめぐって――
リスク評価論において、これまで、「適正手続の保障」の問題が十分論議されてこなかったように思う。なぜなら、これまでのリスク評価論は、人々への危険性の有無・程度という「結果」のみが全面に出て、それさえクリアしていれば基本的に問題がないという発想があったように思うから。
もしそうだとしたら、この発想は根本的に問題である。なぜ問題かというと、もともと善(道徳・法律とはなにか)の次元の重要な理念として、「適正手続の保障」というものがある。これは、市民の自由・人権を侵害さえしなければいいというのではなく、直接、自由・人権侵害が発生したかどうかを問わず、そうした事態が起きないように予防的に定められた「適正な手続き」がきちんと守られているかどうかを極めて重要なこととして重視するという理念である。現憲法でも、この「適正手続の保障」の重要性を踏まえ、31条以下40条まで具体的に明文化しているのみならず、表現の自由についても、検閲の禁止(21条2項)、宗教の自由についても、政教分離(20条)といった「適正手続」(つまり、憲法が禁止した手続を実施した場合には、それによる人権侵害の発生の有無を問わず、画一的に違反とみなす)を定めている。
つまり、「適正手続の保障」の理念は、民主主義社会の根幹をなすものであって、市民の人権に深く影響を及ぼすリスク評価においても、この理念は全面的に掲げられなければならない。
ところが、リスク評価の現場では、依然、「かりに手続的にはいろいろ問題があったとしても、最終的に人々への危険性がない或いは取るに足らないものであれば許容してもいいのではないか」といった「結果」オンリーの立場が依然根強いように見える。その意味で、改めて、リスク評価に「適正手続の保障」の導入の必要性の意味を明らかにしておく必要が大きい。
以下、その具体的なものを2、3列挙する。
ア、事前と事後の手続的厳密さ
一般に、化学物質の研究やGM作物の研究などにおいて、各研究段階ごとに、安全性確保のために解決しておかなければならない課題・テーマというものがある。それを片付けないまま、その次の段階に進むことは、たとえ、その次の段階の研究自身が、直接、市民の人権を侵害するようなことがないとしても、それは「適正手続の保障」という理念から見たとき大きな問題であり、適正手続違反として直ちに、その次の段階の研究は中止されなければならない。
具体的な例を挙げれば、GM作物における室内実験から野外実験への移行の問題がある。
一般に、自然界との接触を持ち、それゆえ様々な危険性を伴うGM作物の野外実験においては、そこに移行するためには、その前に、室内実験において解決しておかなければならない課題・テーマがある。にもかかわらず、それらの課題を未解決のまま、野外実験に移行することは、たとえその野外実験の設備が完璧で、自然界への危険性に対し万全の措置を取っていたとされても(実際は、「事実は小説(科学)より奇なり」で、それでもなお、人知を超えた想定外のことが発生するので、万全の措置ということはあり得ない)、適正手続違反として、野外実験場から直ちに退場するしかない。
イ、重畳的対策の保障をめぐって
一般に、化学物質の研究やGM作物の研究などにおいて、たとえ1つの方法でさしあたり安全性が確保されると思われる場合であっても、万全の安全性確保のために、それ以外にも同様の方法でもって重畳的に安全対策を講じ、それによって、万全の安全性を確保することが行なわれる(以下、これを重畳的対策という)。とりわけ、予見不可能性とその回復不可能性を特質とするGM事故に直面するGM作物の野外実験においては、万全の安全性確保が要請され、そのためには、重畳的対策が不可欠である。
従って、そのような場合、仮に、重畳的対策のうちの1つの対策が実効性を失った場合には、たとえ、それ以外の安全対策により、さしあたり安全性はなお確保されていると思われる場合であっても、それは「適正手続の保障」という理念から見たとき大きな問題であり、適正手続違反として直ちに、その研究はいったん中止されなければならない。
ところが、この、リスク評価における憲法の大原則「適正手続の保障」の具体化である「重畳的対策の保障」の重要性については、政府レベルでも、今なお、正当に認識されていない。
例えば、農水省のGM作物の野外実験指針によれば、GM作物の野外実験における交雑防止措置として、隔離距離による方法か、または開花前の袋かけなどの方法の「いずれかの交雑防止措置を採」ればよいとし、「いずれの交雑防止措置も採らなければならない」(=重畳的対策)とはしていない(注3)。
しかし、そもそも、この指針に示された隔離距離の数値は、前述した通り、イネについて、過去のわずか5つの実験例から得られたデータを元に、その中の最大値(しかも、この実験で調査した株数もたった2株である)を元に算出したもので、到底、普遍性を持った数値とは言えず、事実によりいとも簡単に破られるものでしかない(事実、その翌年、さっそく、数値がプラス6m塗り替えられた)。つまり、本来なら1つの対策でさしあたり安全性は確保されていると思われる場合であっても、「適正手続の保障」という理念から重畳的対策が要請されるべきなのに、ここでは、1つの対策ですらその中身はズサンで、安全性はいとも簡単に崩れるようなものなのに、そのような杜撰なものを、重畳的ではなく単独だけでよろしいとする恐るべき安全対策を採用している。
これでは、将来のGM事故発生を待機しているにひとしい。しかし、そのとき、この指針を作成した者たちは、予見不可能性とその回復不可能性を本質とするGM事故に対し、一体どのような責任を取るのだろうか。
(6)、リスク評価の全体構造をめぐる対立・葛藤――シビリアンコントロール導入をめぐって――
ここでの問題は次のように言うことができる。
リスク評価が本来、①真(認識)の次元の検討を経た上で、さらに②善(道徳・法・実践)の次元の検討を通じて結論が導かれるものだとしたとき、そこで、②善(道徳・法・実践)の次元において、①真(認識)の次元の検討が暴走・乱用することがないように、シビリアンコントロールを導入する必要があるのではないか。
しかし、一般論で言えば、科学者は、もちろんこれを消極的であろう――なぜ、科学者の理性を信用してくれないのか、と。しかし、科学の力は、湯川秀樹に言わせれば、今やざっと次のようなものに変貌してしまっていることを忘れてはならない。
《 20世紀までの科学というのは、要するに、物理現象を「認識」することや。その対象が、だんだん人間離れして、マクロ(宇宙)の相対性理論になったり、ミクロ(原子)の量子力学になったとしても、やっていることの中心は、あくまでも自然現象を法則的に記述するという「認識」や。
ところが、だんだん、様子が変わってきた。それは、科学の中心が「認識」から「実践」(作り出すこと)に移ってきた。これまでの科学的認識を武器にして、新しく「もの」を作るようになった。その最たるものが、原爆や。これは、地球の自然現象には存在しないものを、人間の力業で作り出してしまったのや。言ってみれば、地球の自然ではできないことを、やってしまったという意味で、地球の神様以上のことをしでかしてしまったようなものだ。だから、そのあと、核の扱いをめぐって、人間がコントロールできないような厄介な問題に直面しているのや。
それと同じようなことが、原爆ほどではなくても、化学の世界でやられてきた。地球の自然現象には存在しないものを、化学物質として作り出してきた。
さらには、20世紀後半になると、生物の世界で、分子生物学の発達の中で、地球の自然現象には存在しないたんぱく質やら、酵素やら、しまいには生物まで作り出そうとしている。そして、そういう未知のものが、我々の住む世界にどんな影響を与えるものか、それはおそろしいというか、よう分からない。》(湯川秀樹と数理統計学者の北川敏男の対談「物理の世界 数理の世界」(中公新書))
その結果、科学では、ウィーナーのサイバネテックスなど、それらを制御(コントロール)するという新しい分野が発達してきた。しかし、これだけでは無論不十分である。なぜなら、それらは、所詮、科学内部による制御(コントロール)でしかないから。科学の絶大な威力を前にして、科学内部のみならず、科学の外部からもまた制御(コントロール)が不可欠である――それが、ここでいうシビリアンコントロールである。
科学にシビリアンコントロールの導入が必要とされる根拠は、湯川秀樹が前述した通り、科学が手にするに至った絶大なる威力にある。それはちょうど、かつて、相手を有無を言わせず屈服させ、絶大な威力を発揮すると同時に世界中に惨禍をもたらす危険性をはらんだ絶大なる軍事力に対し、これを制御(コントロール)する方法として人類の英知が編み出してきた解決策が、非軍人による統制=シビリアンコントロールだった(憲法66条2項参照)のと同様である。
つまり、今や、絶大な威力を発揮すると同時に世界中に惨禍をもたらす危険性をはらんだものが科学力であり、従って、その運用についても、いまや、軍事力と同様の制御(コントロール)が求められてしかるべきではないか。それが、科学に対する非科学者による統制=シビリアンコントロール導入である。そして、その最も重要な局面のひとつが、リスク評価の場面における非科学者による統制=シビリアンコントロールである。
具体的には、②善(道徳・法・実践)の次元において、①真(認識)の次元の検討が暴走・乱用することがないように、非科学者による統制=シビリアンコントロールを導入することが必要である。
ただし、ここでもっと重要なことは、「誰が一体、このシビリアンコントロールを行使するのか?」という点にある。
今まであれば、こうした場合、「代表民主制の下では、シティズン(市民)の理性・倫理を代表するに相応しいのは国家(文民である官僚)の理性・倫理である」といった考え方が簡単に通用してきた。しかし、今や、国家理性=市民の理性の代表という図式は通用しない。約90年前、夏目漱石が
「国家的道徳といふものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いものの様に見える事です。元来、国と国とは辞令はいくらやかましくっても、徳義心はそんなにありやしません。詐欺をやる、誤魔化しをやる、ペテンに賭ける、滅茶苦茶なものであります。だから、国家を標準とする以上、国家を一団と見る以上、余程低級な道徳に甘んじて平気でいなければならない‥‥」(私の個人主義)
と喝破したことが、今では完膚なきまでに明らかにされているからである。
そこで、我々は、改めて、シティズン(市民)の理性・倫理を適切に行使するやり方を発見しなければならない。これは、より一般的に言えば、「パブリックな問題に対する理性・倫理の行使」という課題に対し、20世紀までの解決方法(国家理性の手に委ねる)が破綻し、今、それに代わる新しい解決方法が求められている問題である。
これに関する解決の理念は明らかである。それは、国家といった誰かの手に統治を委ねるのではなく、市民自身による自己統治であり、理性を私的目的のために使用するのではなく、パブリックな目的のためにのみ使用することである。
この問題を最も突き詰めて考察したカントは、国家の立場で理性を行使することは「理性の私的使用」にすぎないと論破した(啓蒙とは何か)。これに対し、理性をパブリックな目的のために(=公的)使用することが大切なのであり、そのとき、その者は共同体の利害を超え、普遍的な理念に従う「世界市民」であると指摘した。
では、そのような「世界市民」はどこに見出せるのか。それは専門性とも肩書とも無縁である。それは我々の周りのどこにでも見出せる。例えば、鍋や釜の製造者で、ナチス体制という共同体の利害を超え、普遍的な理念に従って、多くのユダヤ人の命を救った無名の人オスカー・シンドラーがその典型である。
したがって、カントが200年前に指摘した、共同体の利害を超え、普遍的な理念に従う「世界市民」の理性・倫理こそ、リスク評価におけるシビリアンコントロールを行使するに相応しい。
そこで、我々は、今後、具体的な場で、この「世界市民」を発見、発明していかなくてはならない。
また、もし、21世紀の憲法改正に何か意味があるとしたら、それは、今や絶大なる軍事力と肩を並べるに至った絶大なる科学力に対する非科学者による科学の統制=世界市民によるシビリアンコントロールを明文化することしか思い当たらない。
(7)、リスク評価の全体構造をめぐる対立・葛藤――倫理・価値を含んだ新しい科学の提唱――
ここで、今世紀の最大の課題のひとつである「絶大なる科学力に対する制御(コントロール)として、どんなやり方があり得るのか」について、興味ある例を紹介しておく。
(5)で述べた、非科学者による統制=シビリアンコントロールの導入という方法以外にも、別なやり方を提唱する者がいる。「モモ」「はてしない物語」の作者であるミヒャエル・エンデである。
彼は、人間の自由、責任、創造力、ユーモア、人間の尊厳が存在する余地のない、これまでの「客観的」な自然科学に対し異議を申し立て、これに代わるオルタナティブな科学の創造を提唱する。
《パウル・ファイアアーベントがその著「方法の強制に反対して」で書いているように、皆さん方親は、自分の子供にカソリックを学ばせるかプロテスタントにするか、あるいは宗教の授業を全然受けさせないかを選ぶことはできますが、自然科学の科目に関しては、選ぶことができません。科学教会の正当主張は普遍性を持ち、情け容赦なく、独占的であります。》(「児童文学をこえて――ポエジーの復権――」1980年)
そして、研究自身の中に、人間の自由、責任などの倫理が含まれている「新しい科学」を創造することの必要性、重要性を説く。これまで、「中立」「客観的」という美しい名の下に、実は、もっぱら経済的関心または軍事的関心から、資金が提供され、研究が進められてきた従来の科学に代えて、人間の倫理、価値観を最初から含んだ、それゆえ経済的利用や軍事利用といった命令では動かない、本当の意味での自由に基づき進められる研究が可能になる新しい科学の創造を提唱する(「アインシュタイン・ロマン6エンデの文明砂漠」138~140頁)。
これは、研究対象を、②善(道徳的)的と③美(美的、快か不快か)的関心を括弧に入れてもっぱら①真(認識)の次元で認識することにおいて成立した近代科学に対して、①真(認識)の次元と②善(道徳・法・実践)の次元を統合することを目指す新しい科学の提唱である。その目指すところはよく分かるが、問題は果してこの方法が可能なのかである。かつて普遍性を誇った伝統的宗教=カソリックから、新たな抵抗宗教=プロテスタントが出現したように、伝統的な科学に対して、新たな抵抗科学が出現できるのかどうか。
21世紀はバイオテクノロジーという舞台で人類文明史の総決算が演じられる世紀であり、その正念場の中で、倫理・価値を含んだ新しい科学の出現をめぐって壮大な実験場となろう。
(8)、リスク論の新米学生にとっての最大の躓き――科学の限界を評価する基準の不在――
最後に、リスク論を学び始めた新米学生にとって最大の躓きについて述べる。
リスク論を勉強しようと思ったとき、てっきり、私は、リスク評価というのは、或る化学物質なりバイオハザート(生物災害)について、それが人に及ぼす危険性を科学的に測定すること、つまり科学がその威力を思う存分に発揮する、科学にとってまさに最高の出番の場だとばかり思っていた。しかし、驚いたことに、実際はそうではなく、むしろ正反対であることを知るに至った。リスク評価が最も問題となる場面というのは、実際に測定した値が科学的にみて正しいのかどうかなどではなく、むしろ、そもそもそうした科学の探求を尽くしてみたが、それでもなお、その危険性について確実な判断が得られなかったときであったからである。つまり、科学の力が尽きたところで、初めて、ではこの「不確実な事態」をどう評価するのだ?という判断が問われている問題であることを知った。或る意味で、それは、裁判の世界で、意を尽くして、事実関係の存否を証明しようとしたが、力及ばず事実関係が確定されなかったとき、その「不確実な事態」をどう評価するのだ?という判断が問われるときに登場する問題=証明責任と似ていた。
その意味で、リスク評価とは科学の問題というよりは、科学の限界の問題である。それゆえ、科学の問題に通暁している専門家=科学者であっても、必ずしも科学の限界の問題に通暁しているとは限らない。そうだとすると、私は、これまで、この小論の中では、リスク評価における①真(科学的認識)の次元の判断は、さしあたりその方面の専門家=科学者の手に委ねることを前提にしてきたが、それが必ずしも妥当しないのではないかと疑うようになった。なぜなら、ここで必要な専門家というのは、科学というシステムの内部で優秀であるような科学者ではなくて、むしろ科学の限界といういわば「科学のメタレベルの問題」或いは数学基礎論に対応するようないわば「科学基礎論の問題」に通暁している者だからである。
これを具体的に見てみよう。例えば、GM技術の危険性について、現代の科学ではこれを解明できないという基本的な問題がある。では、どうして現代の科学がこれを解明できないのか。この点は次のように言われている。
《ある特定の遺伝子を組み換えて、本来のゲノムから切り離し、別のゲノムに導入することは、機械的なパーツを取り替えることとは本質的に異なる。なぜなら、遺伝子はそのほとんどが発現(遺伝子コードが転写・翻訳されてタンパク質となること)したあと、ゲノム中の他の遺伝子産物(タンパク質のこと。遺伝子暗号は翻訳されてタンパク質を生み出す。)と相互作用することによって、その機能を発揮するから、局所的な遺伝子の組み換えによって引き起こされるすべての相互作用をあらかじめ予見することはほとんど不可能だからである。
そして、たとえ組み換え遺伝子自体に明白な害作用が予想されなくとも、その遺伝子産物と他の遺伝子産物との相互作用が新たな問題をもたらすことは十分にあり得る。》(遺伝子組換えイネ裁判。2005年6月24日申立書9頁。原文は末尾のURLを参照)
つまり、現代の科学では「すべての相互作用をあらかじめ予見することはほとんど不可能」であり、これが「不確実性」をもたらす。逆に言えば、危険性の測定のために、「すべての相互作用をあらかじめ予見すること」が必要な局面では、そうした測定は不可能である。したがって、危険性の測定のためにこうした予見が必要なGM技術では、危険性の測定は原則として不可能である。
そこで、ここでの問題は、科学の限界により危険性の測定が不可能な場合において、その危険性をどのように評価したらよいかについて、我々がまだ客観的な基準を何も持ち合わせていないことである。たとえて言えば、法律の世界では、裁判で証明を尽くしても事実関係の存否が確定できなかった場合、その不確定な事実については、「証明責任分配の法則」という客観的な基準によって結論を導くことができるが、リスク評価においては、そうして客観的な基準の必要性がろくに議論もされていなければ、むろん確立もしていない。しかし、この客観的な基準がないために、例えばBSE(狂牛病)の全頭検査緩和のリスク評価において、客観的な基準も明らかにされないまま意味不明な結論が、分かりやすく言えば、政治的な圧力だけで結論が導かれたとしか思えない結果となってしまう。「証明責任分配の法則」という客観的な基準が存在する裁判ではそのようなことはまず考えられない。
しかし、その結果、回復不可能な被害を蒙るのは無数の市民である。こうした中世教会さながらの茶番劇にピリオドを打ち、悲惨な事態を防止するために、リスク評価論を一刻も早く近代科学並みの水準にまで引き上げる必要がある。
くり返すが、これは科学本来の仕事ではなく、科学の限界に関する仕事である。しかし、同時に、これは科学的認識が尽きたところで直面するリスク評価において、「不確実な事態」に対していかなる客観的な規準でもってリスクを評価するか、という課題が要求する「最も説得力ある客観的な基準を明らかにする仕事」であり、その意味でこれもまた科学の仕事である。そして、この仕事が②善(道徳・法・実践)の次元における客観的な基準の探求という特質を持つことから、これはかつてのように、科学者だけの単独事業ではあり得ず、前述した「科学としての法律学」の理念の重要性を自覚した他の分野の人たちとの緊密な協同作業によって初めて可能となるものである。
そして、科学は今や「地球上のあらゆる生き物を、1回どころか40回も殺戮することができるまでの力」を持ちながら、「この途方もないことに対抗できる力が、肯定的な面で何かあるかといえば、われわれの科学の潜在的力量の全てをもってしても、化学工業の大成功が根絶やしにしてしまった蝶のたくさんの種類のうちのたった1種類を蘇らせることすらできない」(ミヒャエル・エンデ「児童文学をこえて――ポエジーの復権――」)ものであり、こうした科学に対する市民の不信が頂点に達していると思える今日、この科学的探求こそ、世界の無数の市民がひそかに科学に最も期待している数少ない課題のひとつであり得ると確信している。
以 上
※注釈
注1:農水省 第1種使用規程承認組換え作物栽培実験指針2頁
http://narc.naro.affrc.go.jp/inada/def-rice6/jikken-shishin.pdf
注2:平成17年度における第1種使用規程の承認を受けた組換え作物に係る. 栽培実験の留意点について
http://www.s.affrc.go.jp/docs/press/2005/0412/press_050412.pdf
注3:注1の指針同頁
※参考文献
*柄谷行人「倫理21」(2000年。平凡社刊)
*ミヒャエル・エンデ「アインシュタイン・ロマン6エンデの文明砂漠」(1991年。NHK出版刊)
*川島武宜「『科学としての法律学』とその発展」(1987年。岩波書店刊)
*河田昌東「遺伝子組換え作物を考える市民のための勉強会」講義&発言(2005年7月20日上越市)
※遺伝子組換えイネの野外実験差止めを求める裁判の公式サイトは次の通り。
http://gmine.seesaa.net/