2007年2月19日月曜日

リスク評価論の謎 ―― リスク評価の判断構造の探求 ――(2007.2.19)

リスク評価論の謎 ―― リスク評価の判断構造の探求 ――」雑誌「日本の科学者」2007年5月号所収。


何のためにこんな議論をするのか――これがリスク評価の論文に対する私の率直な疑問・不満だった。本稿は、その不満の原因解明のささやかな試みである。つまり、リスク評価とは本来どのような構造を持った判断なのか。これをチャタレー事件等の芸術裁判における判断の構造と対比する中で明らかにしようとしたものである。
柳原 敏夫
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はじめに
少し前までリスク評価論を曲りなりに勉強してきたが、途中で投げ出した。ズカッと言って、私には時間の無駄としか思えなかった。そこで、この時眼の前に立ちはだかった「なぜ、我々のリスク評価論は深まらないのか?」という謎に向うことにした。しかし、そのためには、一度、リスク評価論の外に出る必要がある。
高校時代、D. H. ローレンスを愛読していて、最初に読んだ英語の小説が「チャタレー夫人の恋人」だった。後年、法律の勉強を始めたとき、最も有名な憲法判例としてこの小説が再登場した。しかし、この有名な最高裁判決は何度読んでも理解できなかった。これもまた私の長年の謎の1つとなった。
しかし、今回、初めて両者の謎がリンクした。

1
 リスク評価論の外―芸術裁判の躓き―

(1) 絵画(模写)をめぐる芸術裁判への不信
 一昨日、最高裁に絵画(模写)をめぐる芸術裁判の書面を提出した1。これは一市民の現在の裁判制度に対する徹底した不信を表明したものである。その真髄は次の通りだ――模写とは絵をそっくりに写し取ることである。だから、原画と似ているのは当然である。だが、本当にそれだけだろうか。似ているで、おしまいだろうか。果してそれに尽きるだろうか。なぜなら、光琳、大観、ゴッホ、彼らのどんな精密な模写といえども、そこには必ず原画との「ちがい」が認められるが、このちがいを当然のこととして「取るに足りない些細なちがい」とは評価できない筈で、いったい、いかなる場合なら「取るに足りない些細なちがい」として無視することができるのだろうか――この原告の根本的な疑問に対し、裁判所は何ひとつ答えることなく、何ら判断基準を示すことなく、単なる印象でもって原告の主張を斥けた。これでは「法(判断基準)による裁判」の放棄である。申立人が上告した根本理由は一審、二審裁判所の「逃げる司法」に対して、最高裁に「逃げない司法」判断を求めるためである。
だが、私自身、まだよく分らないことがある。それは――裁判所は一体どこからどこに逃げているのだろうか。イデオロギー裁判でもない芸術裁判で、あれだけボロクソ追及されたにもかかわらず、なぜ彼らは逃げ続けるのだろうか。ところで、こうした逃走は何も裁判所に限ったことではなく、食品安全委員会でも同様なのではないのか。


(2) 裁判所の逃走経路
裁判所は、どこからどこへ逃亡したのか。この場合、美から善(倫理)へである。つまり、本来であれば、裁判所は、まずは作品の適切な美的判断に向かうべきであった。それを終えてのち初めて、作品の法的な判断に進むことができる。しかし、裁判所は厳密な美的判断を何ひとつしなかった。それをしないでいきなり法的判断に出たのである。それが印象による判断と見えたのは当然である。だから、私は次のように批判するしかなかった。
《通常の裁判と比較し、芸術裁判の大きな特色は、裁判の対象が通常の事実認識(認識的判断)だけでは済まず、芸術裁判の対象である芸術作品を正しく把握するためには適正な美的判断が不可欠だということである。それが、古来、著作権事件のみならず著作権以外の様々な芸術裁判(「チャタレー」事件、「悪徳の栄え」事件など)の審理を著しく困難なものにした2。しかし、裁判制度が芸術を法廷に持ち込むことを認める以上、「適正な美的判断」という課題は回避しようがない(それは、科学が法廷に持ち込まれる以上、「適正な認識的判断」という課題は回避しようがないのと同様である)。裁判所が適正な芸術裁判を実施し、文化の発展に寄与するためには、この厳格な適用が不可避である。
以上の芸術裁判における特色を標語的に言えば、次のようになる。
――美のことはまず美に聞け。それから、善の判断に進め、と。》
しかも、裁判所のこの迷走は今に始まったことではない。1875年、日本の裁判制度が始まって以来今日まで続いている。なぜなら、その迷走が自覚されたことは、ただの一度もなかったのだから。もっとも、それが顕在化したことはあった。「チャタレー事件」と「悪徳の栄え事件」である(1957313日と19691015日の最高裁判決)3, 4。しかし、このとき、芸術家の自由を守ろうとしたリベラル派裁判官は、「芸術性と猥褻性とは別異の次元に属する概念であり、両立し得ないものではない」の多数意見に反発する余り、「芸術性と猥褻性とは別次元の概念ではなく、芸術性が高い作品ではその芸術性により猥褻性が消失することがある」という論理でもって対抗しようとした(裁判官色川幸太郎など)。
芸術家の自由を最大限守ろうとしたリベラル派の動機は理解できる。だが、私には彼らの論理が気に入らない。彼らの論理だと――この作品は素晴らしい芸術的価値がある。だから、これを「猥褻」として処罰するのはおかしい、と。これは芸術を社会的倫理の上に置こうとする芸術至上主義である。だが、目的(芸術)は手段(倫理)を正当化し得るだろうか。そんなことはない。むろん芸術は最大限尊重されなければならない。だからといって、芸術だけが他と異なり、社会倫理から超越して存在する訳ではないからである。
そして、これと同じことが科学でも起きる。この論理を科学に当てはめると――この研究は素晴らしい科学的価値がある。だから、これを「危険」だからいって規制するのはおかしい、と。
リベラル派裁判官の弱点は多数意見の論理の粗雑さを見抜けなかったことにある。芸術性と猥褻性が次元が異なるのは多数意見の言う通りである。しかし、両者はそれだけで済むような単純な関係ではない。両者(美的判断と法的判断)の正しい関係はもっと複雑精妙であり、その正確な把握なしには最終的に適正な判断は導けない。
(3) 美的判断と法的判断の関係
さしあたり、私が考える両者の正しい関係のイメージは次のようなものである。
A.哲学者カントによれば、我々が世界を見、物事を判断するとき、①真(認識的)、②善(道徳的)、③美(美的、快か不快か)という異なる独自の3つの次元の判断を持っている。
 たとえば、「オウム真理教」がマスコミに登場した頃、彼らに対する評価は分裂したが、それは彼らを①「さっそうと出家してスタイルもカッコいい」といった美的に見るか、②その宗教的な教義や実践がいかなるものかという倫理的に見るか、③そのスタイルや宗教的教義にもかかわらず、実際にやっていることはインチキであり、犯罪ではないかという認識のレベルで見るかという違いに由来した。つまり、もともと我々の判断に美的、倫理的、認識的の3つの異なる次元の判断があることに由来するものだった。
B.この3つの次元の判断はおのおの他の次元の判断から独立して存在している。
 映画や小説ではよく美形の犯罪者やヤクザが主人公として登場するが、それらに夢中になる観客は、鑑賞の間、倫理的判断とは別に、美的判断で鑑賞しているからである。だからといって、その観客が普段、犯罪者やヤクザに好意を抱いている訳ではない。彼らは、無意識のうちに、映画館の中と日常とで次元のちがう判断を行使している。
C.それゆえ、或る次元の判断を他の次元の判断をもって省略、代用、置きかえることはできない。
 映画館で美形の犯罪者やヤクザに夢中になったからといって、その観客を倫理がもとるとは誰も非難しない。美的判断と倫理的判断とは元来別の判断であり、両者を混同すべきでないのだから。
D.にもかかわらず、この3つの判断の区別は、日常で必ずしも明確に自覚されているわけではなく、通常、この3つの次元は渾然と交じり合っている。
 例えば、19世紀のフランスで、W. シェークスピアの「オセロ」を上演した際、悪役イアーゴの女房殺しの場面に憤激した観客が俳優を射殺した事件が発生したが、この悲劇は美的判断と倫理的判断とを区別できなかったためである。しかし、簡単にこの観客を笑うことはできない。我々もまた、例えば人を愛するとき、その理由は相手に②善(道徳的)の次元で人間的魅力があるからか、それとも③美(美的)の次元で美的、性的魅力があるからか、さらには両方ともあるからか、愛する本人にもよく分かっていないことが多いように、その区別は容易ではないからである。
E.そのため、本来、或る次元の判断が求められるときに、誤って別の次元の判断でこと足れりとしてしまうことが往々にして起きる。
 かつて、日本で最も自由な教育を行なうと宣言し、斬新な芸術教育で注目を集めた某私立学校で、その後、悪質ないじめや校内暴力が発生し、大量の学生の退学処分の発動を余儀なくされたとき、みずから設立理念を否定するような処置の発動に学校関係者はこぞって途方に暮れたが、その学校を訪れた柄谷行人はこう言った5――いくら自由と自立を尊重するという理想的な教育をしても、いじめや暴力は決してなくならない。もともとそれは人間の攻撃性に由来するものだからです。そこで必要なのは、芸術(音楽、美術、文学)ではなく、むしろ人間の攻撃性を科学的に解明しようとしたS. フロイトです6。いじめや暴力に対してまず必要なのは、美的判断でも倫理的判断でもなくて、科学的判断(認識)だからです、と。
F.しかし、これらの3つの次元の判断をきちんと区別し、それらを自覚的に行なうためには、それ相当の文化的訓練が必要である。
 フランスの美術家デュシャンが「泉」と題して便器を美術展に提示したとき、多くの者たちは眉をひそめ、狼狽したという。しかし、デュシャンは単に《芸術を芸術たらしめるものが何であるかをあらためて問うた》だけである5。つまり、便器という対象に対し、認識的(①真)と倫理的(②善)関心を括弧に入れて見るという芸術本来の判断を求めたにすぎない。しかし、このことを理解するには、それ相当の文化的訓練が要る。
その意味で、もともと科学者もまた、こうした文化的訓練を積んだ者のことである。近代科学は、ガリレオに見られるように、研究の対象を、②善(道徳的、宗教的)的と③美(美的、快か不快か)的関心を括弧に入れて認識することにおいて成立したものだからである。この点で、医者も同様である――産婦人科医は、妊婦を美的或いは性的に見ることを括弧に入れる訓練を積んでいる5。しかし、この訓練がきちんとできていないと、ときとして悲劇が発生する。例えば、外科医は、手術のとき、患者をたんなる手術の対象物として突き離して見る訓練を積んでいるが、身内が患者のような場合には、時として「相手が手術で苦しむのではないか」といった人間的感情を拭い去ることができず、メスの操作が狂うことがあるという。他方、未熟な外科医は、手術が終わったあとでは患者を生きた人間として見るべきなのに、依然、相手を物のように突き放してしか見られない。
G.その上で、②善(法的判断)においては、①真(認識的判断)や③美(美的判断)を基礎とし、それに基づいて、善独自の判断を行なうという関係に立つ。いわば、善(法的判断)の判断の全体は、第一次的に①真(認識的判断)や③美(美的判断)を行ない、これを受けて、その次に②善(法的判断)を行なうという二重構造になっている。
 その意味で、チャタレー事件と悪徳の栄え事件で適正な判断を下すためには、まずは美的判断(作品の芸術性など)を下し、その結果を踏まえて、次に法的判断(わいせつかどうか)に進むべきであった。「芸術性と猥褻性とは別次元の概念だから、芸術性の主張は猥褻性の判断に関係ない」で済むようなのんきな話ではない。それはちょうど、法律上の因果関係の判断において、事実的因果関係の判断(①真)を踏まえて、法的な判断(②善)を行うのと同様の困難さがある。例えば公害事件では、たとえ①真〔認識的判断〕につき、事実上の因果関係の立証が不十分であっても、②善〔法的判断〕においては、言われなき被害を蒙った被害者救済の観点から、ある程度以上の心証が得られた場合には、その得られた心証度の程度に応じて法的な因果関係を肯定するという独自の工夫をこらされることがある7
2 科学裁判の躓き
ところで、以上のことは、何も芸術裁判(美的判断と法的判断の関係)に限らない。科学裁判でも同様である。ここでは、認識しかも専門的分野の認識と法的判断との複雑精妙な関係が問われている。そのことを痛感したのは、200510月、新潟県にある北陸研究センターの遺伝子組換えイネ(GMO)野外実験の差止を求める仮処分事件の二審のときである。これは、ディフェンシンという殺菌作用を持つタンパク質を常時生産する遺伝子組換えイネにより、耐性菌が出現し、地球の生態系と人の健康に深刻な影響を及ぼす危険性があるのではないかということが争われた日本で最初のGMO裁判8だが、申立人の危惧は「未だ証明がない」という一審裁判所の慎重な事実認定に対し、一審より短い期間しか審理しなかった二審の裁判所は、相手方が科学的に公知の理由に基づき「ディフェンシンがイネの細胞から外部に出ないから耐性菌の出現の可能性は皆無である」と主張したのを全面的に採用し、市民や協力する研究者の危惧は「杞憂」にすぎないと断じた9。しかし、実は、相手方の「ディフェンシンがイネの細胞から外部に出ない」という主張の根拠こそ、逆に科学的に公知の事実に基づき成立しないものであることが明らかなものだった10
これほどまで科学的に根拠薄弱な事実認定をいとも自信満々にやってのける裁判所を目の当たりにして、私は自問自答せざるを得なかった――この恐るべき過信はどこからくるのか、と。
 思うに、1つは無知から来るのだろう。それは、前述した認識と法的判断の関係に関する無知である。恐らく、彼らには①真(認識的判断)と②善(法律的判断)の関係、両者の峻別とその関連性について明確な自覚はないだろう(そのことは、チャタレー事件最高裁判決の問題点が何であるか聞いてみれば一発で判明する)。①真(認識的判断)と②善(法律的判断)の峻別の必要性を自覚している者なら、どんなに困難に満ちたものであろうとも、専門的分野の徹底した認識に向かうことの重要性を自覚できる。なぜなら、この認識の次元でミスったら、どんな立派な法的判断を下したところで、取り返しのつかない結果になるからである。それは、事実として犯罪をやっていない者をやったと認定する冤罪を見れば一目瞭然である。
 したがって、二審の裁判所は、事実関係は専門的でどうもよく分らないから適当なところで判断して、あとの法的判断もセンスでまあいいかと下したとしか思えない。というのは、裁判所は、すぐそのあとで、市民が指摘した「相手方は、野外実験の承認を得るにあたって、申請書に本来なら『コマツナのディフェンシン』と書くべきところを、偽って『カラシナのディフェンシン』と書いた。これは重大な違反である」という点について、市民の指摘した事実をあっさり認め「遺憾である」とまで言っておきながら、それに続けて、しかしその違法性の評価については「実験承認手続に重大な瑕疵があるとは評価できない」(13頁)と、なぜこれが重大な瑕疵にならないのか一言も理由を明らかにすることもなく法的判断を下したからである。しかし、これは遺伝・育種学や分子生物学のイロハを知る者にとって驚異=脅威である。たとえ同じアブラナ科の植物とはいえ、コマツナとカラシナではその遺伝子の配列は異なり、それゆえ、コマツナとカラシナのディフェンシンでは、いもち病菌等に対する作用も異なり、それゆえ、遺伝子組換え実験の安全性の確認についても、それぞれ別個独立に検証しなければならないもので、同じアブラナ科の植物だからどちらでもたいした違いはないと評価することなど思いも及ばないからである。これでは、コマツナをカラシナのディフェンシンと偽って記載した事実はないと必死に弁明した相手方もきっと浮かばれないだろう。徹底した事実認識に向かうことの重要性を自覚しない人たちの手にかかると、こうした関係者全員に不幸な事態をもたらす。
3 リスク評価論の躓き
 リスク評価論はこれらの喜悲劇を対岸の火事として済ますことはできない。その出火源は裁判(科学裁判・芸術裁判)もリスク評価も同一である。
つまり、リスク評価論でも、
(a) ①真(認識)と②善(道徳・法・実践)の両方の次元が存在し、(b) 一方をもって他方を省略したり、代用することはできず、必ず両方の判断を行なう必要があり、(c) おのおの判断においては、それ以外の次元(①真〔認識〕であれば、②善と③美。②善〔道徳・法・実践〕の次元であれば①真と③美)を括弧に入れて判断する必要があり、(d)、両者の関係については、①真〔認識〕の判断を基礎として、それに基づいて、次に②善〔道徳・法・実践〕独自の判断に進むという手順を取る必要がある。つまり、リスク評価とはこうした二重構造を持った善の判断の一つである。
ところで、①真(認識)の判断なら、その適正な判断のための文化的訓練を積んだ者=科学者がおり、③美の判断なら、その適正な判断のための文化的訓練を積んだ者=芸術家がいる。しかし、本質は②善(倫理・法・実践)の領域の判断である「リスク評価」について、上述の科学者や芸術家に匹敵するような、その適正な判断のために必要な文化的訓練を積んだ者はいるだろうか。
現在、リスク評価に関わる大部分の人たちは、リスク評価の対象となる分野の科学者、研究者たちである。しかし、彼らは①真(認識)の判断ならその適正な判断のための文化的訓練を積んだかもしれないが、②善(道徳的)の次元の判断については別に特別な訓練を受けてきた訳ではなく、素人同然の筈である。
ましてや、二重構造を持った善の判断において、最初の①真(認識的)の次元の検討で、その方面の専門家として判断を下しておきながら、引き続き、これとは独自の判断である②善(道徳的)の次元の検討で、善に関する文化的訓練も受けていない彼らに、①真(認識的)の関心を括弧に入れて、自ら下した認識的判断を引いた目で適正に判断することを期待できるだろか。実際は、最初の①真(認識的)の次元の検討で出した結論を、そのままズルズルと②善(道徳的)の次元の検討でも肯定してしまう可能性がかなり高い。なぜなら、最初に自分たち自身で検討して確信をもって導き出した認識的判断を、次の②善(道徳的)の検討において、これを否定することも含めて突き放して判断することは、そうした文化的訓練を受けたことがない人には、人性の本質上まず不可能であると言うほかないからである。その結果、このとき、彼らは、いわば善(倫理・法・実践)から真(認識)へ逃亡する恐れが高い。
さらに、リスク評価が実際に問題となる場面とは、そもそも科学の探求を尽くしてみたが、それでもなお危険性について確実な判断が得られなかったときである。つまり、科学の力が尽きたところで、初めてこの「不確実な事態」をどう評価するのかという判断が問われる時である。だから、リスク評価の場面とは厳密には科学の問題ではなく、科学の限界の問題である。その意味でも、科学者がリスク評価の判断者として相応しいとは限らない。科学の問題に通暁している専門家=科学者が必ずしも科学の限界の問題にも通暁しているとは限らないからである。
その意味で、リスク評価の判断者として相応しい人とは、科学というシステムの内部で優秀である科学者ではなくて、むしろ科学の限界といういわば「科学のメタレベルの問題」或いは数学基礎論に対応するようないわば「科学基礎論の問題」に通暁している者である。
では、②善(道徳的)の領域の専門家である法律家はどうだろうか。
確かに、法律家は善(法的)の適正な判断のための文化的訓練を積んだ者である。しかし、すでに見た通り、20世紀までの法律家は、一般的、日常的な事実を前提にした②善(法的)の適正な判断の文化的訓練を積んでいるかもしれないが、いったん科学的、あるいは芸術的に専門的な事実になるや、その文化的訓練は発揮されないにひとしい。それは彼らが前述の文化的訓練の何たるかを殆ど自覚していないからである。だから、従来の法律家では科学的な専門的知見が前提となるリスク評価では使い物にならない。このとき、彼らは、前述の研究者たちとは反対に、真(認識)から善(倫理・法・実践)に逃亡するだろう。
おわりに
もう一度くり返すが、リスク評価の本質は善(倫理・法・実践)の問題である。
しかし、それを適正に実行するためには、その前提として、「不確実な事態」という原因の徹底した認識に向うことが不可欠である。それには科学というより科学の限界に通暁し、かつ真(科学)の文化的訓練を受けた専門家が不可欠である。
しかも、次の善(道徳・法・実践)の検討では、改めて、その方面の文化的訓練を受けた別個の専門家により行なう必要がある。さらに、真(科学的認識)の判断を基礎にして初めて善の適正な判断が可能となるのであって、そのためには、彼らも予め真(科学的認識)の判断を十分正確に理解しておく必要がある。
したがって、これを一人二役でこなすことは実際上不可能である。そこで、リスク評価には少なくとも上述の2種類の専門家同士の緊密な協働作業(=ネットワーク)が必要不可欠である。

注)   

1http://naha.cool.ne.jp/llw/Art/070207appeal.pdf

2)悪徳の栄え事件の弁護人大野正男は「フィクションとしての裁判」の中で、被告人の澁澤龍彦も検察官も猥褻の有無をめぐって、途中から「永遠の水掛論」をやっている無力感、徒労感に襲われてしまったと、芸術裁判の困難さを率直に表明している。それをどう克服すべきか、それが私にとって関心事だった。しかし、それは遂に示されぬまま、氏は2006年暮れ永眠された。

3http://www.kyoto-su.ac.jp/~suga/hanrei/29-3.html

4http://www.kyoto-su.ac.jp/~suga/hanrei/30-3.html

5)柄谷行人は批評家。カントとフロイトを論じた「死とナショナリズム」(2003)、「倫理21」(2001)など多数の著作がある。.

6S. フロイトは精神医学者。「精神分析入門」(1917)、「快楽原則の彼岸」 (1920)など多くの和訳書がある。

7)もし実損害が百万円で、心証度が80%なら80万円の損害を認め、心証度が40%なら40万円の損害を認めることになる。    
8)その公式HPは、http://ine-saiban.com/  
9 http://inesaiban.com/saiban/siryo/Y/051012seconddecision.pdf 3頁                  
10)  http://inesaiban.com/saiban/siryo/X/051104speKokoku-reason.doc 1112