食の安全と職の安全――法律家にとってリスク評価は対岸の火事か――
昨夏、日弁連の夏季消費者セミナーに初参加し、初めて食品安全委員会の人に話を聞いて、リスク評価を行う食品安全委員会には法律家の委員が皆無だと知った。言うまでもなくリスク評価は純然たる科学的評価などではなく、あくまでそれを踏まえた政策的価値判断である。だとすれば、ここは真理探求を本業とする科学者より、事実認定を踏まえた法的価値判断のプロである法律家が本領を発揮すべき場である。にもかかわらず、法律家が皆無なのはなぜなのか。食品安全委員会が法律家を敬遠するのは理解できるとしても、「それはおかしい」という声が法律家の側で上がらないのはなぜか。
ひょっとして、法律家はリスク評価の取組みを敬して遠ざけているのではないか。昨今の狂牛病に端を発した米国牛肉輸入問題ひとつ取っても、「真理と政策」のはざまで揺れ動く食品安全委員会の科学者の委員たちの狼狽ぶり、混迷ぶりが明らかであり、こんなぶざまな真似を反復したくないと密かに思っているのではないか。確かにこれらの科学者たちは、食の安全のリスク評価に直面して、翻弄されているように見える。しかし、なぜ彼らが翻弄されるのか。もちろん彼らに対して自分たちの科学研究の財布の紐を握っている国・産業界からの有形無形のプレッシャーがあるからだろう。しかし原因はそれだけではない。狂牛病のようなリスク評価は、科学の力が尽きたところで、この「不確実な事態」をどう評価するのかという判断が問われているからである。それは科学の限界に関する問題であり、科学者が翻弄されるのは当然である。しかし科学者の翻弄を法律家は対岸の火事として済ますことはできない。なぜなら、純然たる科学的認識ではなく、社会の対立する様々な諸価値の調整を最終任務とするリスク評価は本来、価値の調整を任務とする法律家のような者たちの職責だからである。法律家が伝統的な職の安全に立てこもることはもはや許されない。
とはいえ、リスク評価は法律家にとっても鬼門である。なぜなら、リスク評価もまた科学者以上に法律家の正体を情け容赦なく暴くからである。2005年10月、日本初の遺伝子組換えイネの野外実験の差止の仮処分事件(*1)の抗告審で、東京高裁は、組換えイネが作り出すタンパク質(ディフェンシン)が「仮に外部に大量に流出しても耐性菌が出現する可能性は低い」と耐性菌出現の可能性を認め、にもかかわらず住民側の耐性菌の危険性の主張は「杞憂」であると断じた。また、実験の承認申請書に導入する遺伝子をコマツナ由来と書くべきところ、別の植物(カラシナ)由来と記載した事実を認め、にもかかわらず、その事実は承認手続の重大な瑕疵とは言えないと判断した(*2)。それはこれを読んだ科学者たちを唖然とさせた(*3)。裁判所が自ら認定した科学的事実が何を意味するのか自分で全く理解しないまま法的判断に向ったことが歴然としていたからである。裁判官は、科学の限界に関する耐性菌出現も遺伝子組換えの危険性の問題についてもよく理解できなまま、今のところ「危険性を示すデータが検出されていない」だから、「判らないけど、ま、いいか」と実験を許容した可能性がある。それが科学者の厳しい批判にさらされたのは当然である。
法律家は対立する価値を調整し、一見尤もな法解釈技術を駆使するプロかもしれない。しかし、その前提として目の前に起きている科学的事実を正しく認識できないのならその価値はゼロにひとしい。ましてや、この時「危険性を示すデータが検出されていない限り安全である」といった俗論に逃げ込むのは最悪である。認識なき価値判断は空虚である。法律家にとっても試練の時はすぐそこである。
(2008.3.5.柳原敏夫)
(*1)公式HP「禁断の科学裁判」http://ine-saiban.com/index.htm
(*2)http://ine-saiban.com/saiban/siryo/Y/051012seconddecision.pdf
(*3)http://ine-saiban.com/saiban/voice-pro.htm