・・・私はこの本の著者の一人で、本来、コメントをここにアップするのは不自然なことかもしれません。
しかし、この本の出版直前に、3.11の未曾有の天災と人災が発生したため、その結果、この本を全面的に書き換えなければという心境に追い込まれました。
そこで、その一端だけでも、「3.11後のあとがき」として、以下に補足した次第です。
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3.11後のあとがき(イネ裁判と福島原発事故が私たちに突きつける課題)
柳原敏夫リスク評価については、万の議論より、1つの「生きた事例」がリスク評価とは何かを我々の頭に叩き込む。その観点から、生きた事例の分析検討の中か らリスク評価の生きた教訓を汲み取ろうとした。それが2005~6年、新潟県上越市で実施された遺伝子組換えイネの野外実験とその中止を求めた6年間の裁 判(→公式HP)の検討である。ところがこの検討が終わるやいなや、もっと巨大な「生きた事例」が我々の前に出現した。3.11の福島原発事故である。そして、遺伝子組 換えイネ裁判から引き出された教訓は、不本意にも、その巨大な「生きた事例」でも殆どそっくりそのまま当てはまることが明らかとなった。我々市民は、この 巨大な「生きた事例」の体験を通じ、科学技術とそれを運用・管理する人たちに対する決定的な不信が形成されるだろう。それは「科学技術とそれを運用・管理 する人たちのあり方」を根源から変革せずにおれないものである。
遺伝子組換えイネ裁判の分析検討の結果得られた(そして、福島原発事故にもほぼそのまま当てはまる)リスク評価の生きた教訓とは概ね次の通りである。
1、「可能性」のある事故は、いつか必ず「現実」のものとなること。それは素人ならいざ知らず、科学技術の専門家が「想定外の事故」などと軽々しく口にしてはならないこと。
2、しかし、たとえ事故は「現実」のものとなった時でも、そこでリスク評価は終わるのではなく、依然、進行する事故に「不確実な事態」がつきまとう。そのため、発生した事故にどのように対処したらよいかをめぐって、むしろリスク評価の最も重要な出番となる。
3、しかも、こうした事故は必ず2度発生する、1度目は「人間と自然との関係」の中で、2度目は「人間と人間との関係」の中で。
4、2度目の「人間と人間との関係」の中で発生する事故とは、1度目の「人間と自然との関係」の中で発生した事故がその後意図して操作(マインドコント ロール)されたものである。従って、その操作が発覚したとき、市民の科学技術とそれを運用・管理する人たちに対する疑心暗鬼・不信感は極大に達する。
5、但し、たとえ運良くその操作が発覚せず、市民の目を欺くことができたとしても、自然を欺くことはできない。どんなマインドコントロールも「人間と自然との関係」の前で無力である。自然は情け容赦なく人間を裁く。
6、その上、「人間と自然との関係」で、今日の専門化し、細分化し、分断化された科学技術では自然の全体像を正しく把握することができない。そのため、自 然を人工的に利用するにあたって生じる危険性についても正しく把握することができない。この意味でも、今日の科学技術は「人間と自然との関係」の前で無力 である。
7、その無力にもかかわらず、今日の科学技術を運用・管理する主要な担い手たちはこの点の無力さを十分自覚していない。そして、彼らの主要な関心は、特定 の目的(耐病性イネの開発や発電など)のために自然をいかに効率的に利用するかにしか向けられていない。そのため、ひとたび自然が事故を起こし、暴走し始 めたとき、今日の専門化・細分化・分断化した科学技術ではその病理現象の全体像を正しく把握し、正常化に向けて必要な対策を講じることは著しく困難とな る。
8、この「人間と自然との関係」の中で露呈する事故対策における科学技術の無力さが、一層、「人間と人間との関係」の中で己の無力さを取り繕うという操作(マインドコントロール)を招く。
9、その結果、マインドコントロールの中に置かれた市民は、「万が一の対応」「念のための措置」「直ちに影響ない」といった安全弁、というより詭弁の中に 置かれる。しかし、ひとたび事態が進行したとき、それまでとは手のひらを返したような危険な事態が宣言されることになる。それは異常なパニックという最悪 の事態をもたらす。
10、では、こうした事態を回避するために何が必要か。
11、一方で、科学技術を運用・管理する人たちは、「人間と自然との関係」の中で認識した事実をありのままに、「人間と人間との関係」で明らかにすること が不可欠である。しかし、これこそ現実には至難の技である。ガリレオの受難は今もなお、というより、今日かつてないほど強まっているからである。だから、 単に「正しい情報公開」という掛け声ではナンセンスで、「科学技術とそれを運用・管理する人たちのあり方」を根源から変革するしか解決策はない。そのヒン トは、偉大な映画作家スピルバーグの映画作りと次の言葉に見出すことができる―――「シンドラーのリスト」を製作した彼は、ある時、「最高の映画製作者 は?」と聞かれて、こう答えた。「最高の映画製作者とは最も勇気ある映画製作者のことである」。もちろん、「勇気」とは、真実の映画を作る「勇気」である のみならず、そのために国家・企業の干渉・束縛から自立した映画製作のあり方を作り出す「勇気」のことである。
12、他方で、市民自身は自ら「人間と自然との関係」で進行する事故に関する事態を可能な限り正しく認識できることが不可欠である。また、いかなる状況の 展開により「万が一」の事態が出現するのか、今すぐ直ちに影響ないとしても「将来、影響がある」のはいかなる条件のときにどのような影響を及ぼすのか等に ついても、市民には知る権利がある。
13、そのためには、国家・企業から自立した場所で、専門化・細分化・分断化した科学技術の各分野の研究者・技術者たちが連携・協力しあって、総合化、統 合化された科学技術の視点から、進行する事故に関する事態の全体像を分析し、事態を可能な限り正しく認識して、その情報を市民に公開することが必要とな る。
14、さらに、市民は、専門家から事故に関する情報の提供を受けたとき、それを一方的に鵜呑みにするのではなく、自らその情報の正しさを検証できる機会と場が与えられることが不可欠である。
15、そのためには、国家・企業から自立した場所で、情報を受け取った市民が、市民同士で意見交換が行えること、情報を提供する専門家に対し自ら質疑応答 する場が与えられ、その一部始終が公開されること、情報の正しさを検証するための適切なデータをアクセスし、データと照らし合わせて情報の正しさが検証で きることが保障されなければならない。
16、今回の福島原発事故が端的に示すように、事故の発生源は1箇所であっても、事故発生による事態の危険性(リスク評価)は場所と時間に応じて様々に異 なる。そこで、各の場所に置かれた様々な市民自身が自ら判断できるのでなくてはならない。そのためにはリスクの一般論に個別具体的なデータを当てはめて判 断するしかない。そこで、市民自身がいつでもどこでも、必要な一般論とデータの両方にアクセスできるように保障する必要がある。
まとめ
科学技術に携わる人たちはもともと最善の自然認識を目指すことを職務とする。しかし、同時に彼らは最善の倫理家であることが求められる。前者は「人間と自 然との関係」のことであり、後者は「人間と人間との関係」のことであり、両者は切り離すことができない、つまり科学者たちは「人間と自然との関係」の世界 に逃げ込むことはできない。
今日ほど科学者・技術者の倫理性が痛感される時代はない。現在、科学技術のせいで人類と地球環境は絶滅の危機に追いやられていると多くの市民が感じている からである。にもかかわらず、科学技術に携わる人たちに対して、多くの市民が「人間と人間との関係」で彼らが誠実ではない、倫理的ではないとかつてない不 信を抱いているからである。
倫理的であることの究極は「ウソをつくな」であり、そして「真実を語る勇気を持て」である。
しかし、この倫理性は単に科学者・技術者の個人の心がけの問題ではすまない。社会システムとして実現される必要がある。それが、かつて国家と宗教の癒着に よる堕落・弊害の反省から導入された「政教分離」に対応する、国家と科学技術の癒着を禁ずる「政科分離」の原則の導入であり、かつて軍の暴走への反省から 導入された主権者である市民が軍をコントロールする文民統制(シビリアン・コントロール)に対応する、主権者である市民が科学技術の暴走をコントロールす る科学技術の文民統制(シビリアン・コントロール)の原則の導入である。
これらの社会システムを構築すること、それがリスク評価の巨大な「生きた事例」が人類に突きつけている課題である。
(2011.5.6)