禁断の科学裁判の再定義
~遺伝子組み換え稲屋外実験差し止め訴訟、一審裁判の概要~
法律家 柳原 敏夫
目 次
第1、はじめに――知財の時代とは知罪の時代のことか――
たった今、安田節子さんから、「種の支配」ということについて興味深いお話があったので、私も触発されて、これについて、あれこれ思いをめぐらしていました。
全然話はちがいますが、私は、これまでずうっと著作権だけを専門にやってきた専門バカの手本みたいな法律家です。それで、著作権だけでメシを食おうと思うと、少なくとも日本では、一般市民はむろんのこと、個人のクリエーター、アーティストをクライアント(依頼者)にしてもやっていけないので、企業をクライアントにするしか方法はありませんでした。そこで、ご多分に漏れず、私も当初、企業をクライアントにして著作権の仕事をしてメシを食おうと取り組んできたのですが、それが軌道に乗り出すと、今度は途端に著作権の仕事がつまらなくなりました。理由は簡単です、仕事の大半が、弱肉強食の論理で、弱い個人のクリエーター、アーティストを食い物にするような仕事でしかなかったからです。言ってみれば、モンサントの代理人みたいなものです。こんなもんが面白いはずがない。そこで、私に法律の仕事の面白さを開眼させてくれた映画監督の新藤兼人さんや仕事で知り合った脚本家の中島丈博さんたちに興味を持つようになり、彼らの仕事ぶりを知るにつけ、初めて、日本のインディペンデントといわれる人たちがいかに悲惨な状況に置かれているかを知らされ、そこでは、彼らこそ価値の創造者(=著作物の制作者)であるにも関わらず、自由な契約の名の下に、著作権が問題になる余地すらなく(なぜなら、著作権は企業に帰属するから)、こうした人たちが直面する法律問題とは倒産、自己破産、失踪宣告といったことを初めて知らされました。いわば「橋のない川」の人以前の隷属状態に置かれた彼らの惨状を知って、ここに著作権の真の課題があり、なおかつこの解決は容易ならざる問題であることを思い知らされました。
その解決の方向は、万国のクリエーター、アーティスト、団結せよ!にしかなかったのですが、しかし、それは、従来の労働運動の延長の、単なる経済的条件の改善ではもはや解決になりませんでした。というのは、今や、クリエーター、アーティストたちは、彼ら自身が生み出そうとする価値の中身自身を改めて吟味しなければならない地点にいたからです。この「価値の再吟味」は様々な論点があるでしょうが、そのうち最大の課題として、クリエーター、アーティストたちは、いったいどのような社会システムの中で作品を生み、提供する積りなのかが問われました――つまり、今の「大量生産、大量消費、大量廃棄」のシステムの中で引き続きやっていく積りなのか、それともこのシステムから脱出する積りなのか、という選択です。この選択によって、彼らのライフスタイルが180度変わってくるからです。
私もまた、様々な紆余曲折の中で、「大量生産、大量消費、大量廃棄」のシステムとおさらばしたいと考えるクリエーター、アーティストたちの願い――お金よりは、自分が真に作りたいと願う作品を作り続け、それを真に望むユーザの元にちゃんと送り届けられるシステム、いわばクリエーター本位のコンテンツの産地直送システムを選択したいという彼らの願いを(ささやかながらも)サポートする仕事を自分の著作権の仕事の中に見出すことができるようになりました(もちろん、その取り組みはまだ始まったばかりですが)。
同時に、こうした新しい仕事を発見するにつけて、そのような新しい立場から眺めてみると、改めて、自由競争という美名の下に置かれた著作権業界のあこぎな世界がますますクリアに見えてくるようになりました。
著作権で最も欠けている議論はパブリックという問題です。憲法ですら、29条2項で、「財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。」と、財産権の内容・支配がパブリックな領域に及ぶときには、公共の福祉に適合するようにおのずと制限されることが明確にうたわれています(もちろん、この「財産権」は不動産や動産といった伝統的な有体物の所有権等に限らず、著作権や特許権などの知的財産権、無体財産権も含みます)。にもかかわらず、知的財産権では、海賊版を撲滅せよ!といった権利の完璧な保障のことばかり声高に叫ばれ、知的財産権の公共性(パブリックな性格)のことは一言も話題にされません。
その結果、どういう事態になったかというと、例えば、たかだかOSというパソコンの心臓部分を作っただけの会社が世界一の企業になるという、それまでの産業の常識が通じないようなビックリ仰天の事態が出現したのです。ビル・ゲーツ氏率いるマイクロソフト社です。なぜ、CD-ROM1枚に収まるだけの情報を作っただけの会社が、世界一の企業になることができたのか?それは彼らの作ったウィンドウズというソフトが著作権で守られたからです。しかし、単に著作権で守られたからではありません。それだけでは世界一の企業になれるはずがない。そのためには、彼らの制作したウィンドウズというOSのソフトが、一方で、その果している役割が今や我々の日々の社会生活にとってなくてはならないツールというよりインフラになっており、その意味で、今日の情報化社会において、我々の社会生活の電気、ガス、水道、電話といった有体物のインフラと同じような役割を果していながら、他方で、その極めて高い公共性のことは一言も口にせず、ひたすら、ただの著作物一般と同様な扱い、つまり好きなように作り、好きな値段で、好きなだけこれを売ることができるという自由放任のやり方を貫徹することでした。もともと、コンピュータのソフトは著作物と言われるものですが、しかし、パソコンのOSのソフトはゲームのソフトや映画などとは根本的にちがうのです。人はゲームソフト「ファイナルファンタジー」や宮崎駿さんのアニメ「風の谷のナウシカ」を1日みなく(しなく)てもやっていけるでしょうが、今や、多くの人はOSのソフトを1日でも使わずにはやっていけません。
だから、このような状況を正しく理解した誰かが、もし、
「パソコンのOSって、今では社会生活の電気、ガス、水道、電話といったインフラと同じじゃん。だったら、そのパブリックな性格に相応しい扱い、規制があって当然じゃん」
と問題提起したら、それはきっと多くの人たちの賛同を得られ、その結果、
「パソコンのOSは、今や社会生活の電気、ガス、水道、電話といったインフラと同じ機能を果しており、その極めて高い公共性にかんがみ、パソコンのOSの価格、その売り方についても、制作者が自由に決めることはできない」
という方向に議論がいくと思います。マイクロソフト社はこうした議論を最も恐れた筈です。なぜならこれは真理だからです。しかし、私が知る限り、そうした議論は日本では起きなかった(その最大の原因は、狂牛病問題などで問題の本質をズケズケ指摘した専門家に匹敵するような現代法の専門家・法律家が我が国にはひとりもいなかったからです)。その結果、もっけの幸いで、マイクロソフト社はウィンドウズに好きな値段をつけて好きなだけ売りさばき、ボロ儲けすることができた。言ってみれば、水道水に好きな値段をつけて売りさばくようなものです。これは魔法です。これで世界一の企業になれなかったらそれこそおかしい。
こんな魔法のようなボロ儲けの方法ができる時代のことを巷では「知財の時代」と呼ぶのです。そうだとしたら、こうした手法を真似しない手はありません。つまり、その本質は、決して個人的な財産ではなく、むしろ社会生活の電気、ガス、水道、電話といったインフラと同じ機能を果しているにもかかわらず、その本質を消し去って、それをあたかも個人的な財産と同じようなものとして偽装して、好きな値段をつけ、自由に売りさばくことができるようにするという戦略です。規制緩和という時の政府のうたい文句も、この魔法を下支えしました(日本のビル・ゲーツをめざしたホリエモン君の魔法が失敗したのはその手口がさすがに余りにザルだったからですが)。
今、安田さんの話を聞いていて、この手法をバイオテクノロジーの分野で応用しようとした最たるものが「種の支配」、しかも、人々がそれなくては1日もやっていけない主食の「種の支配」のことではないかと思いました。つまり、主食の種はその本来の性格からして、極めて公共性の高いものであって、それに対する特定の者による独占的な支配は厳しく排斥されなければならない。しかし、バイオテクノロジーのマイクロソフトをめざす企業たちは、きっと、パソコンのOSの成功例にあやかって、我こそは、そのパブリックな性格を消し去って、主食の種に対する独占的な支配を確立し、なおかつ好きな値段をつけ、自由に売りさばくことができるようにしたいと目論んでいる筈です。幸い、今はまだ、規制緩和という下支えもあるし、知的財産権の公共性というヤバイ問題を指摘するような専門家はどこにもいないのだから、今のうちにどんどん推進して、とっととドリームを実現しようぜ、と(市民からみれば、これこそ「わが亡きあとに洪水は来れ」の連中だ)。
ところで、今回の上越の遺伝子組み換えイネの実験を推進する人たちも、知的財産権で守られたそうしたドリームを追い求めているのではないかという疑いは、例えば、彼らのHPにおける以下の実験の紹介文からも拭い去ることができません。
平成15年12月22日
「我が国独自の技術で安心な組換えイネを開発」
【独自に開発した新技術】
‥‥‥‥
3)野菜から取り出した病気に強い遺伝子の詳細北陸研究センターでは、複数のアブラナ科野菜からイネに複合病害抵抗性を付与できる抗菌蛋白質ディフェンシン遺伝子を独自に単離してきました。その中から、カラシナ由来のディフェンシン遺伝子が複合病害抵抗性付与に最も効果の高いことを確認し、本研究に用いています(特許出願公開中:特開2003-88379)。
従来、イネへの病害抵抗性の付与効果が検証されている遺伝子は限られており、しかもそれには既存特許等の問題が残されていました。
つまり、今回の実験推進の根本的な動機がここに紹介した知財の時代の「魔法のようなボロ儲け」の夢にあるのではないかということです。なぜなら、今日、「知財の時代」で叫ばれているキャッチフレーズは、もっぱらコインの表である「インセンティヴ(励み・動機)を保護する」だけ、つまるところ、「額に汗した者が報われるように知的財産権をきっちり保障しろ!」という保護の貫徹でしかありません。もう一方のコインの裏に書かれている「財産権といえども、そのパブリックな性格に相応しい規制を免れない」という社会的な理念は完全に抜け落ちています。その結果、彼らの頭に「独自に開発した新技術」に相応しい報酬のことしかないとしても不自然でも何でもないからです。彼らに言わせれば、ビル・ゲーツだって、好きな発明をして、好きな値段をつけて、好きなだけ売って、ボロクソ報酬を得たんじゃない。なんで、俺たちがそれをやっていけないのか!と。
さらに、このことは、これまでの裁判の中で、自分たちの実験の安全性について、これを明らかにするデータをちっとも提出しようとしなかった彼らの態度と首尾一貫しています。かれらは、一方で、これは「国家的プロジェクトだ」と声高に叫びながらも、にもかかわらず、この実験のパブリックな性格については恐ろしいほど無自覚でした。それは、彼らが、自分たちの特許(知的財産権)のことを、単純に、これはオレたちのものだ!としか考えておらず、その知的財産権の公共性について何ひとつ思い至っていないという正体をはしなくも如実に明らかにしたものでした。
もっとも、この無自覚を彼らだけのせいにすることはできません。なぜなら、彼らもまた、単に「知財の時代の常識」に従っただけとも言えるからです。では、いったい誰がどんな風にして、普通の市民からみて非常識とも言える「知財の時代の常識」を作り上げてしまったのでしょうか。
憲法のイロハを学ぶ者は、誰でも、近代の人権の歴史として、形式的な人権の保護(自由権)を中心に構成された19世紀の自由国家的人権宣言から、実質的な人権の保護(社会権)を中心に構成された20世紀の社会国家的人権宣言に発展したことを教えられます。それは当然の真理として、あたかも普遍的な歴史の法則のように語られます。しかし、これを単なる歴史の自然法則のようなものと考えることは完全な誤りです。なぜなら、人権の歴史は決して自動的に実質的な人権の保護(社会権)に移行したわけではなく、そこには、それまでの形式的な人権の保護(自由権)の貫徹により生じた様々な矛盾、不幸、災害に対する人々の数知れない異議申立ての声の中で初めて取り上げられ、実現されるに至ったものだからです。実質的な人権の保護(社会権)は自然法則の産物ではなく、まさに市民の異議申立ての声が勝ち取ったものです。
そうだとすれば、情報化社会の幕開けと共に脚光を浴びた知的財産権について、今日までそれが形式的な人権の保護(自由権)の域を出ず、実質的な人権の保護(社会権的な)の面にちっとも光が当たらないとしても不思議でも何でもありません。なぜなら、これまで、市民はもちろんのこと、現代法の専門家でもそのような異議申立ての声をあげた者は誰一人いなかったからです。もともと、人権の歴史は自動的に実質的な人権の保護(=パブリックな性格)の側面に光があたるものでは全くないからです。黙っていたら、暗黒のアフガニスタンみたいに、ずっと形式的な人権の保護(=強者の権利保護)だけがのさばり続けます。
もともと紛争は人生のリトマス試験紙です。それは、そこに関わるすべての関係者の正体(裁判官すら例外ではない)を情け容赦なく暴き出すからです。その意味で、今回の裁判は、「知財の時代の常識」の上にあぐらをかいている被告のみならず、「知財の時代の常識」自体に対しても、そもそもお前は本当にコモン・センスなのか?が問い直される裁判でもあります。なぜなら、今回の裁判を通じ、これだけ地球という生態系と人類の子孫への脅威の可能性を帯びた実験であることが指摘されたにもかかわらず、もし研究の自由と知的財産権の名の下に、こうした実験が事実上野放しのまま容認されることになるとしたら、「知財」(知的財産)とはまさに「知罪」(=知的犯罪)のことであると言うほかなくなるからです。
世の中には、これまで、形式的な人権の保護(自由権)の横暴に対抗してそれはおかしいと声をあげる法律の専門家(法律研究者、労働弁護士、市民弁護士)が少なからずいました。しかし、少なくとも知的財産権に関していえば、その横暴に異議申立ての声をあげる法律研究者、市民弁護士は日本ではゼロです(今や知的財産権を専門と称する弁護士はごまんといる筈なのに)。これは現代法の暗黒時代というほかありません。2年前、たまたまジェレミー・リフキンの「バイテク・センチュリー」を読み、バイオテクノロジーをこのまま自由放任にしていけば、早晩、必ず、第2のチェルノブイリのような惨憺たる事故が起きるだろう、そのとき、人類は痛切な反省をして、生態系や未来の子孫への配慮という実質的な人権の保護(社会権)に向かうことになるだろう、しかし、果してそのような悲劇を反復しなければダメなのか、それでは遅すぎるのではないか、と感じ、バイオテクノロジーの知的財産権の市民弁護士が誰もいないのなら自分がなるしかないと思いました。そしたら、その翌年、今回の裁判が勃発したのです。私は新藤兼人と同様、神も仏も信じませんが、今回だけは、何か神や光のようなものを眼の前に感じました。だから、新藤兼人を見習って、無謀、無頓着、無思慮の「三無主義者」として行動したのです。
その意味で、今回の裁判は、21世紀の日本のみならず世界の方向を決定づけるような、また、私にとっても自分の後半生を決定するような意味を持つものだと感じています。
昨年年4月、独立行政法人 農業・生物系特定産業技術研究機構の北陸センター(上越市)は、突然、そのHPで、同センターの実験農場で、カラシナから取り出したディフェンシン遺伝子[1]をイネに導入して、いもち病や白葉枯病に強い遺伝子組替え(以下、GMと略称)イネの実用化に向けた試験栽培をすることを発表しました。
この事実を知ったGM作物の危険性を危惧する多くのコメ生産者や消費者,流通団体は、この野外実験に反対の意思を表明し,その中止を求め続けてきましたが、同センターは、6月29日にGMイネの2回目の田植えを強行しようとしました。
これまで、GMイネの野外実験は、これに反対する生産者や消費者の意見を受け入れ、中止されてきました。GM作物の予見不可能性[2]から生じる未検証の危険を重視する市民の声を尊重し、反映させたいわばリスクコミュニケーションが図られてきたのです。
ところが、今回は、カラシナ由来のGM技術が彼らの自前の特許ということもあってか、これを不安視する地元農民や消費者の声に全く耳を傾けず、危険な野外実験を強行しようとしたのです。このような,安全を軽視した科学技術万能思考に対して,科学者と市民との本来的なリスクコミュニケーションのあり方を問うべく,やむなく,GMイネの試験栽培の中止の裁判(緊急のため、仮処分申立て)を,実験農場地を管轄する新潟地裁高田支部に起こしました。これがことの発端です。
(1)、当事者
申立人:生産者(上越市の農民)と消費者(現地の米を購入している新潟の生協の組合員)12名
相手方:独立行政法人 農業・生物系特定産業技術研究機構
(2)、舞台:同センターの実験農場(「高田圃場」)一画約0.5アールの田
(3)、申立人の要求
第一次的=GMイネの試験栽培を中止すること。
第二次的=試験栽培したGMイネの病原菌への耐性試験(いもち病や白葉枯病の菌の噴霧)を中止すること。
試験栽培したGMイネをただちに刈り取ること。
(4) その理由
今回のGMイネ野外実験は、GM技術そのものの危険性に加え,野外実験が正当化されるために必要な条件を充たしていない。
ア 実験目的に正当性を見出しがたいこと
① 従来の品種改良により同一の目的を達成したイネの存在。
② いもち病被害の現状(1・8%)から危険なGM技術を駆使した品種改良の必要性に乏しい。
③ ディフェンシン遺伝子挿入イネの病害耐性そのものが検証されていない。
④ 本試験栽培では,周辺イネとの交雑の可能性が検証できない。
イ 試験にともなう危険発生の防止が不十分なこと
① 耐性試験のために実施されるいもち病や白葉枯病の菌の噴霧による周辺作物等への影響
② 利用されるディフェンシン遺伝子もしくはモディファイド・ディフェンシン遺伝子の有用性,安全性の検証がなされていない。
③ 本GMイネそのものの安全性審査が未了ないこと(ディフェンシンのヒト細胞への影響は不明であるし,ディフェンシンを非食部分にとどめておくことは困難であるにもかかわらず,この点の検証が全くなされていない)
④ ディフェンシンに対する耐性菌の出現の可能性があり、その危険性が大問題。
(5) 実験を差止める必要性
本GMイネは開発の必要性に乏しいばかりか,野外実験をするに足る前提条件を充たしておらず,そのリスクは,すべて周辺農民や消費者が負っている。健全な食品の生産と消費は,個人の生命・健康を維持し,地球環境を保全するという意味において持続可能な社会の基礎をなしており,食品の安全・安心をめぐっての専門家と市民とのリスクコミュニケーションのあり方については,BSE問題をはじめてとして,さまざまな分野で活発な議論がかわされている。
このようななかで、あまりに技術開発に偏重した本試験栽培は,1992年のリオ宣言の第15原則(予防的取り組み)を無視した違法なものであり,過去の食品被害事件と同様な過ちを犯す危険・不安をぬぐうことができない。この危険,損害を回避するには事前の差し止めが必要である。
(1)、答弁書で明らかにされた相手方の態度
最近まで農水省の研究機関であり、今回の実験のことを自ら「国家プロジェクト」と豪語して憚らない相手方の北陸研究センターは、今回のGMイネの実験の危険性の問題について、本来なら、市民の納得がいくようにきちんと説明を果す責任があります(説明責任)。裁判はむしろ、同センターにとって、その責任を果す格好の場でもあったのです。
しかし、始まった裁判において、同センターの態度は、
《耐性菌の出現の余地は科学的になく、また実際耐性菌の出現についての報告もない》(答弁書12頁)
と「偽装」の主張を行ない(のちに、耐性菌の出現を報告した論文が判明したから)、その上、
《万が一ディフェンシン耐性の菌が出現したとしても、現行農薬に対する耐性菌ではないため、現行農薬で十分対処できる》
と、世界中の研究者たちが「人を含む自然界と生態系に大変な脅威をもたらす恐れがある」と指摘している問題を、単にイネの問題としか捉えず(しかも、農薬をまけば問題ないとは、一体「環境に優しい」という彼らのうたい文句はどこに行ったのか!)、挙句の果てには、
《本申立は、本実験を批判し、批判を喧伝する手段の一つとして行われたとしか考えられず、手続を維持するだけの法律上の根拠は全く認めることができない。いずれにせよ、本申立においては、そもそも一般的な高等教育機関で教授ないし研究されている遺伝子科学の理論に基づいた主張を展開しているものではなく、遺伝子科学に関し聞きかじりをした程度の知識を前提に特定の指向をもった偏頗な主張を抽象的に述べているに過ぎず、また法的に考察しても非法律的な主観的不安を書きつらねただけのものとしか評価しようがなく、債務者としてはかような仮処分が申し立てられたこと自体に困惑するばかりである》(答弁書19頁)
と、素人の聞きかじりの知識による裁判のために、崇高な国家的プロジェクトが妨害されるのは心外極まると言わんばかりの高圧的な態度を表明しました。
同センターは、HPなどでは「適切な情報公開・提供に努めます」と美しいコトバを表明していて、そのくせ、各論でいざ市民から実験の危険性を具体的に指摘されると、手の平を返したように「特定の指向をもった偏頗な主張を抽象的に述べているに過ぎず‥‥かような仮処分が申し立てられたこと自体に困惑するばかりである」と開き直って見せる欺瞞の典型例というべき態度を取ったのです。
(2)、本裁判の審理の最大の特徴―科学裁判の本質―とそれに対する相手方の態度
本裁判の争点は本野外実験の安全性の有無であり、その判断に必要な証拠はすべて相手方が握っていました(証拠の偏在)。これが本裁判も含めた科学裁判の最大の特徴です。だから、本来であれば、証拠を一手に握っている相手方は、原則としてそれをすべて公開し、市民の不安を払拭する重大な責任があるのです。にもかかわらず、相手方は、最後の最後まで、本野外実験の安全性の有無の判断に必要な証拠を開示しようとしませんでした。これが本裁判の審理の最大の特徴です。
これは、農水省が、GM作物の野外栽培実験指針として明らかにした、
「計画書について意見が寄せられた場合には、計画書に記載した内容について、科学的根拠や関連する情報をわかりやすく説明するなど、情報提供と意見交換に努めること。」
に真っ向から反するものです。
これはまた、相手方が自ら、センターニュース本年6月号でも表明している、
「適切な情報開示・提供
GM作物及びこれらを利用した食品について、国民の皆様のご理解が十分に得られているとは言い難い面もあり、例え研究段階の実験であっても、農林水産省の栽培実験指針では、より積極的で透明性をもった情報提供に努めることがうたわれています。
そこで、‥‥本実験は一般に公開しながら進めていくことを原則としており、今後も見学会を開き、実験の経過の公開など、適切な情報公開・提供に努めます」
にも反するものです。
加えて、相手方は、今回の実験は、国家的プロジェクトであることを冒頭から強調し、その公共的性格と重要性をアピールしてやまなかったのですが、そうであるならばなおのこと、最も公共的な問題である「本野外実験の安全性の有無」について、速やかに最大限の情報公開を行なうべきでした。
にもかかわらず、(本当にこんなことができるのかと未だ信じられないくらいだが)相手方は、本裁判において、そうした情報公開を一切しなかったのです。これでは、情報公開の「偽装」だと言われても仕方ないのではないでしょうか。
民主主義の根幹をなす最重要な原則である情報公開において、一般論としての美しい言葉と、実際上における完璧なまでに裏腹の態度、これが本裁判の審理における最大の特徴であり、こうしたサポタージュは今後、二度とあってはならないことです。
(3)、本裁判の具体的な争点――本野外実験の安全性について――
(1)、本野外実験の安全性の有無について、申立人は、当初、次の3つの観点から、主張・立証しました。
①.第1に、室内実験において本GMイネの安全性・問題点を十分に詰め、解決していない現段階で、野外実験に移行するのは時期尚早であり、その危険性の点から許されないこと。
②.第2に、その本野外実験の交雑防止(GMイネの花粉が一般イネと受粉するのを防止)やディフェンシン耐性菌(ディフェンシンの殺菌作用に対し、これに抵抗するような性質を獲得した菌)の出現・流出・伝播などの安全対策の点において見過ごすことのできない不備があり、その危険性の点から許されないこと。
③.第3に、他方で、こうした問題の多い本野外実験を敢えて推進する積極的な必要性・有用性が認められず、またそれを実証するデータもないこと。
(2)、審理の結果、最終的に、次の2つが重要な争点となりました。
ア、本野外実験の交雑防止策が安全性の見地から十分かどうか。
イ、ディフェンシン耐性菌の出現・流出・伝播の危険性とその安全対策が十分かどうか。
(4)、主要争点1(交雑防止策)に対する双方の主張
(1)、相手方の主張
当初、本来1つの措置で十分安全性は確保されているが、万全を期すために重畳的に次の3つの対策を講じるとしたが、
(a)、距離的な隔離(一般農家のイネと間に十分な距離を置く)
(b)、時期的な隔離(一般農家のイネとの出穂期間との間に十分な期間を置く)
(c)、物理的な隔離(花粉が飛散しないように、袋がけ等の物理的措置をする)
(a)と(b)について、その不備が明らかになるや(例えば、(b)については、最終的に、一般農家のイネとの出穂期間のズレがわずか1日しかないことを認めた)、最終的には、
(c)、物理的な隔離の完璧さ
を全面に出し、当初の「袋掛けするかまたは組換え個体栽培区を不織布等で覆う」を「袋掛けし、なおかつ、組換え個体栽培区を不織布等で覆う」という二重の防止策に変更し、最後の防止策にすべてを賭ける態度を表明しました。
(2)、申立人の反論
しかし、この二重の防止策は、
(ア)、もともと花粉の交雑防止策は万全でなければ意味がないが、イネの花粉は、文献上、最長50時間生存することを考えると、相手方の二重の防止策でも、実験の観察のため人がネット内に出入りする以上、なお完全に交雑が防止されるとは到底言えない。
(イ)、かといって、完全な交雑防止のためにネット内に一切出入りしないとなると、今度は、イネの開花予想時期の20日間、全く観察ができず、白葉枯病の観察という彼らの実験目的が全く達成されない。
(ウ)、このジレンマは、野外実験をやる以上解決不可能な問題であり、それを解決しようとしたら、野外実験上に室内実験場を建設するしかない。しかし、これはもはや、野外実験の放棄である(相手方の今回の二重の防止措置も殆ど【野外実験上に出現した室内実験場】に近い)。
二重の防止策を施した野外実験場を外から撮影。
同じく内部から撮影。【相手方のHPより】
(5)、主要争点2(ディフェンシン耐性菌の出現・流出・伝播)に対する双方の主張
(1)、申立人の主張
①.既に、実験室でディフェンシン耐性菌が出現した複数の報告があること。
②.したがって、本野外実験でも、ディフェンシン耐性菌が出現する可能性が高いこと。
③.出現したディフェンシン耐性菌が大変危険なものである可能性があること。
④.ディフェンシン耐性菌が本野外実験上から外部に流出・伝播する危険性があること。
(2)、相手方の反論
「本野外実験で、ディフェンシン耐性菌の出現の危険はない、つまり出現の可能性はゼロである」
なぜなら、
(a)、これまで、自然界(カラシナ)でディフェンシンという蛋白質が存在してきたが、そのことにより、ディフェンシン耐性菌が出現し、大問題になったという報告は過去一度もなかった、だから、今回の野外実験もまた、そうした心配は無用である。
(b)、上記①の報告は他の生物相等の環境影響の存在しない、およそ自然界とはかけ離れた、特殊な、人工的環境の下で実験を行ったもので、本野外実験のような自然界における耐性菌の出現の根拠にならない。
(3)、申立人の再反論
(a)について
今回の野外実験におけるディフェンシンの生産は、カラシナのようにこれまでの自然界におけるディフェンシン生産とは条件が全く異なる。カラシナの場合には、ディフェンシンが必要に応じて生産されるのに対し、本GMイネは、イネの緑葉組織特異的発現プロモーターにより、ディフェンシンを常時大量に作り続けるように加工してある。つまり、自然界ではあり得ない組み合わせを人工的行うことで、ディフェンシン遺伝子の本来の発現調節を無効にして、常時大量にディフェンシン遺伝子を発現するようにしてある。だから、過去、自然界で問題がなかったからといって、これをそのまま参考にすることはできない。
(b)について
菌とエサとディフェンシンを混ぜて放置するだけで、微生物がディフェンシンと頻繁に接触することにより耐性菌が出たというこの報告から、自然界でもこの三者が混じり合い、かつ微生物がディフェンシンと頻繁に接触すれば、耐性菌が出るだろうと予想するのが合理的であり、この三者が混じり合い、ディフェンシンを常時大量に作り続ける結果、微生物がディフェンシンと頻繁に接触する条件下にある本野外実験もまた同様に考えるのが合理的であること(疎甲91。研究者の陳述書(3))
(4)、二審における相手方の再反論とその評価
申立人の上記主張には黙して反論せず、一転して次の全く新たな主張を、「科学的な公知」な事実として主張するに至る。
「ディフェンシン耐性菌がイネの細胞から外部に出る可能性は存在しない」
しかし、これは誰の目から見て、植物生理学の初歩的知識のレベルで誤った撤回するしかないもの。
(6)、内外の反響――予想外の事態――
主食のコメに対する遺伝子組換え実験について、科学者の池内了氏は、次のように言います。
「第二世代の遺伝子組換え作物として、イネやコムギがターゲットになっていることに注意する必要がある。これらは主食であるから、ほんの少しの不純物であっても大きな厄災を引き起こすし、いったん出回ってしまうと引き返すのが困難となってしまうという問題点がある。壮大な人体実験になりかねないのだ。
より重大な問題が、生態系に及ぼす影響である。‥‥組換えされた遺伝子は、まず近縁の植物や捕食動物に移動し、時間が経つうちに生態系全体に広がってしまうのが必然である。長い時間をかけた生命進化の過程で遺伝子は変化してきたのだが、遺伝子組換えによってそれとは無関係の遺伝子が短期間の間に生態系に持ち込まれることになる。これによって、どのように生態系が撹乱されるか、誰も知らないのだ」(「禁断の科学――軍事・遺伝子・コンピュータ――」156頁。NHK知るを楽しむ)
ましてや、本野外実験は、「ディフェンシン耐性菌が出現した」という上記報告からほぼ確実性をもって、ディフェンシン耐性菌という生態系の撹乱をもたらす生物の出現が予想されており、こうした生物災害の恐ろしさは、既に鳥インフルエンザの経験からも明らかである。
したがって、当然のことながら、地元では、本野外実験と裁判は天地を揺るがす大事件として報道された。しかるに、他方で、弁護団の度重なる記者発表にもかかわらず、全国向けのニュースは完全な黙殺に終始した。
ところが、こうしたマスコミの黙殺と好対照だったのが、意外なことに科学者たちだった。「GM技術に従事する科学者の95%は開発側に立っている」(NHK-BS海外ドキュメンタリー番組【問われる遺伝子組換え食品】のラスト)現状で、新潟県の無名の市民の申立人らと何の縁もなく、名前すら知らなかった科学者・研究者たちから、しかも日本全国のみならず世界中から、本野外実験のディフェンシン耐性菌出現の危険性について、警鐘を鳴らす声が次から次へと届けられたのです(疎甲86~92。94。同118~121)。
なぜ、彼らは、国境を超えて、見も知らない市民の裁判のために、一文の得にもならないどころか我が身の研究に不利益・障害が及ぶであろうことを承知で危険を顧みず、さながら、「シンドラのリスト」のオスカー・シンドラのように振る舞い、今回の国家的プロジェクトに異議の声をあげたのでしょうか――思うに、科学的な認識として、ディフェンシン耐性菌出現の可能性が市民の人体の安全のみならず地球上の生態系に及ぼす影響の重大性を考えたとき、研究者として自らの理性と良心に照らし、とうてい黙っていることができなかったからとしか思えません。
ここに、本野外実験の危険性の本質を垣間見ることが、と同時に困難な状況に置かれた研究者たち「シンドラのリスト」の理性と良心の可能性を垣間見ることができました。
申立人は、これまでの室内実験と異なり、予見不可能性とその回復不可能性を特質とするGM事故にもろに直面することになる今回の野外実験について、どのような場合に実験が許容され或いは中止されるのかについて、日本で初めてのGM作物裁判として、今後のGM作物野外実験の安全性を考える上で手本となるような、できる限り透明で納得の行く判断が出されることを願っていましたが、
一審裁判所の新潟地裁高田支部では、約1ヶ月半の審理の末、GMイネが開花寸前の8月17日に判断を下した――ディフェンシン耐性菌の問題について、短時間のうちに細胞分裂をくり返して爆発的に自己増殖する生物特有の性質を見落とし、耐性菌を従来の有害化学物質などと同一レベルで考えるという誤りに陥って、なおかつGM事故におかる「疑わしきは罰する」という予防原則の適用の必要性を正しく理解せず、伝統的な事故の枠組みの中で、本野外実験の危険性の有無を判断して、危険性の疎明がないとして申立を却下しました。
もっとも、裁判所は、同時に相手方に対しても、
「開発計画を遂行する過程で得られた情報や実験結果等(特に、本件で問題とされた本件GMイネの原告山田ら周辺農家のイネに対する交雑の可能性、本件の隔離圃場内におけるディフェンシン耐性菌の発生状況と伝播の有無等)に関しては、今後とも生産者や消費者に的確に情報提供したり説明をすることにより、本件GMイネに対する不安感や不信感等を払拭するよう努めていく責任があり、仮にも、上記の情報公開等が円滑に行われず、いたずらに生産者や消費者の不安感等を助長するような事態を招き、その結果、農業等行う上で具体的な損害ないし支障が生ずるような状況に立ち至ったときには、本件野外実験の差止めを求められてもやむを得ない」と異例の厳しく注文をつけたのです。
これに対し、即日、申立人から異議申立(抗告という)が出され、東京高等裁判所で審理されましたが、申立人が審理の迅速化を再三にわたり要望してきたにもかかわらず、「説明責任を尽くす」と表明した相手方は、抗告審開始後1ヶ月以上沈黙を守り、まともな反論を一切しませんでした。ようやく9月末に、実質的な主張を行なったものの、その直後に、GMイネの刈り取りを行なうや否やその翌日、刈り取り終了を理由とする抗告却下の申立書を電光石火のごとく提出したのです。
他方、9月末の相手方書面に対する申立人の反論(申立人のこれまでの主張に対する積極的な反論がひとつもないこと、相手方が起死回生の一打として持ち出した「ディフェンシン耐性菌がイネの細胞から外部に出る可能性は存在しない」という主張が初歩的な科学的知識のレベルですら誤った杜撰なものであること)が出され、いよいよ事実の徹底解明についてケリをつけるべき天王山にさしかかったと思えた瞬間、二審の裁判所は、10月12日、いきなり、5枚足らずの三行半の決定を出しました。
そこには、最重要論点であるディフェンシン耐性菌出現の可能性の問題について、全く何一つ具体的な言及をすることもなく、にもかかわらず、申立人及び微生物の専門家たちの意見書を評して「杞憂」にすぎないと断じた。「疎明(証明の一種)がない」としか言わなかった一審裁判所の決定と異なり、「杞憂であり」とまで表明した以上、普通なら、よほどの科学上の確信に支えられたものですが、しかし、当の裁判所は、科学以前の初歩的な知識のレベルですら間違いに陥っている相手方の杜撰な主張の間違いすら指摘できなかったのです。
これを読んだ或る研究者の人はこう感想を述べました、「それにしても、東京高裁の裁判官は、馬鹿な判決をしたものですね。」その通りですが、しかし、馬鹿な判決のために本当に馬鹿な目に遭うのはほかならぬ私たち市民です。のみならず、GM事故の特質である「晩発生」[3]に思いを致したとき、今後、起こり得る地球の生態系の破壊という深刻な被害の結果、最もひどい目に遭うのは私たちの子供たち、未だ生まれざる私たちの子孫たちです。これは単なる私たち市民の私権と国家的プロジェクトと称する本野外実験の間の問題ではなく、その本質は、私たちの子供たち、未だ生まれざる私たちの子孫たちの人権と国家的プロジェクトの間の問題にほかなりません。その意味で、我が国初のGM作物をめぐる本裁判こそ21世紀の倫理が最も鋭く問われる最もパブリックな裁判だと思います。
(2006.2.16文責 原告代理人 柳原敏夫)
【参考】
[1] タンパク質の一種で、動植物が生産する。病原菌の活動を抑える作用があり、感染防御に重要な役割を持っている。生体は外敵に対する防御システムを数多く発達させているが、ディフェンシンはその防衛ラインの最前線で戦っている防御物質である。
[2] 「回復不可能性」と並んで、遺伝子組換え事故に固有の特質のこと。
遺伝子組換えは、他の生物から切り出した特定の遺伝子(タンパク質設計図)を細胞に挿入して、その遺伝子に基づくタンパク質を作らせることが目的である。つまり、新しい遺伝子の導入で、細胞に1つ余分の新しい仕事を命じることになる。このために、何かの仕事が犠牲になっているかもしれないが、それが、生物体にどう影響しているのかが、わからない。
また、遺伝子の調節機構はほとんどが未解明のため、新しい遺伝子の導入で遺伝子の調節機構がどういう影響を受けるか予想ができない。通常の生育には問題がなくても、何かがきっかけで、毒成分を作るかも知れない。また、生物体の中で、遺伝子が組み変わったりしたときに、予想外の事態が起こるかもしれない。
この点(遺伝子組み替えの結果に対して我々が予見できない)で、これまでの科学的、技術的な行為と大いに異なる。その結果、こうした遺伝子組み替えによる事故に対しても、我々は予見できないという条件の下にある。
[3] 病原体やアスベスト等を体内に取り込んでから実際の被害が発生するまでに時間がかかること。
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