リスク評価の課題とは何か
第1、なにが問題なのか
本稿では様々なリスク評価のうち、食の安全や生物災害に関するリスク評価を念頭に置いて議論する。
今、リスク評価の危急の課題とは何か――それは、個別のリスク評価事例に対する不満・課題は鬱積しているにもかかわらず、何がリスク評価の本質的な課題であるかが依然さっぱり分からない、それが問題である。
法律でメシを食っている者からみて信じ難いことだが、通常なら、或る制度(システム)を制定するにあたっては、どんな制度を作るかをめぐって激しい価値観の対立・衝突があり、その調整が不可欠となる。その価値観は当然、その制度の運用に影を落とし、個々の運用場面での対立の原因となる。これにより制度の基本的な問題点は明快となる。もともと制度とはそういうものである。ところが、リスク評価はこれと全くちがう。リスク評価の基本的なあり方をめぐって根本的な価値観の対立・衝突がちっとも明らかにされない。さながら、リスク評価にはそのような対立は存在しない完全調和の世界のようにさえ思えてくる。
そうだとしたら、それは欺瞞である。現実に無対立な制度・システムなど原理的にあり得ないものだから。
以下において、常々、取り沙汰されることのないリスク評価の本質的な課題を、裸の王様を嗤う少年の眼でもって、掴み出してみたい。
第2、そもそもリスク評価とはなにか
1、その1
リスク評価とはなにか。この単純な問いに正面から答え得た者はまだ誰もいないと思う。なぜなら、(少なくとも食品事故や生物災害について)リスク評価が取り沙汰されたのは狂牛病の出現などごく最近であり、個別事例への対応に追われる余り、自分たちが一体何をやっているのか、自省する余裕もその気もなかっただろうから。しかし、世の中には「解き方」を間違えたために、どうしても解けない問題というものがある。数学史の有名な出来事として5次方程式の解法。
x5+2x4+3x3+4x2+5x+6=0
このような5次以上の方程式は加減乗除の方法で解くことが(一般には)できないことは1824年、アーベルの手で初めて証明されたが、それまで数百年にわたって、これを加減乗除の方法で解けると信じた者たちにより空しい努力が積み重ねられてきた。この数学研究者の迷妄の歴史をここで想起しておくことは価値あることである。
2、その2
しかも、この迷妄は「科学」内部の問題にとどまらない。「芸術」と「法律」が交錯する裁判として有名な「悪徳の栄え」事件――1961年、フランスの作家マルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』を翻訳し、出版した翻訳者の澁澤龍彦と出版社が、同書に性描写が含まれており、わいせつ文書に該当するとして起訴された事件だが、澁澤らは、「芸術性と猥褻性とは別次元の概念である」を前提にして、同書の芸術性には理解を示さず、専ら善(法律)の次元で判断しようとした検察に反発する余り、「芸術性と猥褻性とは別次元の概念ではなく、芸術性が高い作品ではその芸術性により猥褻性が消失することがある」という論理でもって対抗しようとした。つまり、美的判断が法的判断に優先するという立場を取った。しかし、この「解き方」は裁判所に容易に理解されず、解き方をめぐって「永遠の水掛け論」に陥り、その中で澁澤は不貞腐れ、さじを投げ出してしまった。しかし、彼の提起した問題は少しも解決されておらず、時を経て同じ問題が反復される運命にある。その一例が1994年に提訴された「石に泳ぐ魚」事件である。ここでもまた、芸術性という美的判断がプライバシー保護という法的判断に優先するという主張が反復された。このような芸術裁判で、その「解き方」をめぐって美(芸術)と善(法律)の判断の関係が問われているが、その正しい「解き方」が分からないため迷妄が反復されている[1]。
3、その3
他方、この迷妄は別に専門的、特別なことではなく、日常の出来事、例えば教育現場などでも登場する。かつて、日本で最も自由な教育を行なうと宣言し、斬新な芸術教育で注目を集めた某私立学校で、その後、悪質ないじめや校内暴力が発生し、大量の学生を退学処分したとき、みずから設立理念を否定するような処分行為に出た学校関係者は途方に暮れたが、その学校を訪れた柄谷行人はこう言った――いくら自由と自立を尊重するという理想的な教育をしても、いじめや暴力は決してなくならない。もともとそれは人間の攻撃性に由来するものだからです。そこで必要なのは、芸術(音楽、美術、文学)ではなく、むしろ人間の攻撃性を科学的に解明しようとしたフロイトです。いじめや暴力に対してまず必要なのは、美的判断でも倫理的判断でもなくて、科学的判断(認識)だからです、と。つまり、いじめや校内暴力に対しては、正しくは、まず真(科学)で立ち向かうべきなのに、解き方を間違って、美(音楽、美術、文学といった芸術)や善(倫理)で解こうとしたために、迷妄に陥ったのだ、と。
4、その4
しかし、これらはリスク評価にとって対岸の火事ではない。これと同じ迷妄にリスク評価もまたさらされているからである。
食品安全委員会などの公式的見解によれば、リスク評価とはあくまでも科学的な判断であるという立場、つまり真(認識)だけで問題を解こうとするものである。しかし、果してそうだろうか。食品安全委員会の現実のリスク評価の混迷ぶりを見ていると、「解き方」を間違えていないだろうか。
そもそもリスク評価が最も問題となるのは、測定値が科学的に正しいかどうかといったことではなく、むしろ、そうした科学の探求を尽くしてみたが、それでもなお或る現象の危険性について確実な判断が得られないときである。つまり、科学の力が尽きたところで、初めて、ではこの「不確実な事態」をどう評価するのだ?という判断が問われる時である。その意味で、リスク評価とは科学の問題ではなく、科学の限界の問題である。言い換えれば、リスク評価とは、科学的に「解くことができない」にもかかわらず「解かねばならない」、この2つの要求を同時に満たす解を見つけ出すというアンチノミー(二律背反)の問題である。
そうだとしたら、このアンチノミーをどうして科学的判断=真(認識)だけで解くことができるだろうか。科学の限界の問題を科学で解こうとすることほど非科学的なことはないからである。
5、その5
しかし、そんなことは食品安全委員会などの頭のいい人たちはとっくに分かっている筈である。けれど、彼等の使命は科学的に「解くことができない」問題を同時に「解かねばならない」ことにある。となれば、さしあたり、科学の限界の問題にもかかわらず、さも科学の範囲内の問題であるかのように振舞って解くしか手はないだろう、たとえそれがどんなにいかがわしく、欺瞞的に思われようとも。
これが今日のリスク評価を覆っている迷妄の正体である。
第2、リスク評価の迷妄の打破のために
1、その1
では、リスク評価のこの迷妄を打破する道はどこにあるだろうか。それは別に難しいことではない――リスク評価の方法という問題に科学の光を照射するだけのことだから。つまり、科学としてのリスク評価方法を確立することである。その際のキーワードは、科学史として言い古されありふれたものだが、真実に対する正直と勇気の2つで十分だと思う。すなわち、
第1に、問われている現象のリスク評価に対して、自ら科学の限界にあることを率直に認める勇気を持つこと。
なぜなら、もともとリスク評価の本質とは科学の限界の問題なのだから。
第2に、真(認識)における「科学の限界」を踏まえて、善(倫理・法律)と美(快・不快)の判断を導入して、それらを総合して判断する勇気を持つこと。
なぜなら、哲学者カントによれば、我々が世界を見、物事を判断するとき、①真(認識)、②善(倫理・法律)、③美(快・不快)という異なる独自の3つの次元の判断を持つが、リスク評価が①において科学の限界に直面し、科学的に「解くことができない」以上、②と③の2つの次元の判断を導入して解くしかないからである。それが科学的に「解くことができない」と同時に実践的に「解かねばならない」アンチノミーの正しい「解き方」である。
2、その2:科学の限界の不承認について
リスク評価を語るときの研究者・専門家の特徴の1つは、自分たちが「科学の限界」に直面していることを決して正直に認めようとしないことである。その振るまい方は、かりそめにも「科学の限界」であることを認めようものなら、リスク評価のケリがそこで着いてしまうかのように思い込み、怖れている節すら感じられる(「科学としてのリスク評価」であれば、科学の限界はリスク評価のスタートであっても、決してゴールではないのに)。
そのため、彼等は自分たちは元々「科学の限界」には直面しておらず、科学の範囲内の問題として処理できるのだという(私からみて魔法の)ロジックをひねり出す。そのロジックの1つが
「今までのところ、危険性を示すデータが検出されていない。だから、これは安全と考えてよい」
である。例えば、
(1)、リスクの1つ、カラシナ・ディフェンシン耐性菌が出現する可能性について
「実際、耐性菌の出現についての報告もない」(被告)
「何か起きるのであれば、既にカラシナ畑で起こっている」(被告)
(2)、リスクの1つ、周辺の非組換えイネとの交雑防止のための隔離距離について
「これまでの知見では、交雑の生じた最長距離は25.5メートルである」(被告)
②.体細胞クローン牛技術のリスク評価書(2009年6月)
「体細胞クローン牛や豚、それらの後代(子供)の肉や乳について、栄養成分、小核試験、ラット及びマウスにおける亜急性・慢性毒性試験、アレルギー誘発性等について、従来の繁殖技術による食品と比較したところ、安全上、問題となる差異は認められていません」(食品安全委員会)。
すなわち、これらは危険性を示すデータが検出されないことを理由に安全性を導き出す根拠にしている。しかし、検出されないことが果して安全性を導き出す合理的根拠たり得るだろうか。
そもそも近代科学において「データ」とはどうやって検出されるものなのだろうか。実はデータは見つかるものではなく、我々が見出すものである、それもしばしば、ベーコンの指摘の通り、自然を拷問にかけて自白させるやり方によって。
例えば、もしアインシュタインの一般相対性理論がなかったら、皆既日食で、太陽の近傍を通る星の光の曲がり方を示すデータは決して検出されることはなかったろう。むしろ、このデータは一般相対性理論によって初めて存在するに至ったのである(その詳細はH.コリンズほか「七つの科学事件ファイル」104頁以下参照)。また、10-21~10-23秒しか寿命がない素粒子の存在を証明するデータが自然に見つかることは凡そあり得ない。つまり、一般相対性理論や素粒子の科学的な仮説が先行し、なおかつその検証のために必要な実験装置が考案されて初めて、これらのデータが存在するに至るのである。
そうだとすれば、リスク評価においても、科学の限界のために、いかなる具体的な危険な事態が出現するかを予見できず、その具体的な危険性を検証するための実験装置も考案できない状況下で、その危険性を示すデータが存在するに至ることなど(危険な事態が現実化した場合以外に)凡そあり得ない。
これに対し、危険性を示すデータが検出されないことを安全性を導き出す根拠としてよいと説明するためのロジックとして使われるのが、問題の新技術は「従来技術の延長=実質的に同等にすぎない」から、或いは体細胞クローン技術は「(安全性が取り沙汰されている)遺伝子組換え技術は全く別物」だから、といったものである。
しかし、そもそも「従来技術の延長にすぎない」かどうかはリスク評価をしてみて初めて判明する結果なのに、それをリスク評価のための材料にするのは本末転倒も甚だしい。また、「従来技術の延長=実質的に同等」かどうかは真(認識)の次元ではなく、価値判断の次元の事柄である。それを科学的検討を行なうと称する場で実施することは越権行為というほかない。
また、体細胞クローン技術について、DNAを組み込まれる立場(ここでは卵子)からすれば、一部のDNAを組み込まれるか(遺伝子組換え技術)、それとも核全部のDNAを組み込まれるか(体細胞クローン技術)という違いでしかない。丸ごとDNAを組み込むから、一部だけのDNAを組み込む遺伝子組換え技術とちがって安全だという科学的根拠はどこにもない。
3、その3:善(倫理・法律)の判断とはどういうことか
善の判断とは一言で言って、価値観をめぐる判断である。現代社会は多様な価値観が共存する場だから、善の判断もまた、多様な価値観の衝突の調整ということになる。
ここで取り上げたいことは、「多様な価値観」の変容という問題である。今、それを時間と空間の2つの軸に沿って取り上げる。
(1)、時間軸をめぐる「多様な価値観」の変容
これまで法律・倫理が問題にして来た価値は、いまここで生きている人を対象にしてきた。
しかし、それでは不十分ではないかという問題提起がなされている。それが一方で、死者の問題(臓器移植をめぐる死の定義)、他方で、胎児の問題、さらには未だ生まれざる未来の人々の問題である。
なぜこれが取り上げられることになったかというと、科学とりわけ生命科学の進歩のおかげで、人間、胎児、未来の人の価値が損なわれる恐れという新たな事態が出現したためである。
(2)、空間軸をめぐる「多様な価値観」の変容
これまで法律・倫理が問題にして来た価値は、基本的に人及び人の集合(団体)を対象にしてきた。
しかし、今ではそれでは不十分ではないか、動物も人間と同等の価値を享受すべき存在であり、種が異なることを根拠に差別するのはおかしいという動物の権利が取り上げられるようになった。
そこで、体細胞クローン動物技術のリスク評価にあたっては、この動物への倫理という観点からも検討すべきである。
尤も、動物倫理の考え方として、動物が受ける「苦痛」に着目し、その苦痛を感じる能力に応じて人間と同等の価値を享受すべきであるという立場があるが、もしこれを倫理の根拠とするならば、倫理の対象は動物にとどまらない。植物でも微生物でも、彼らは悲鳴はあげないが、生命体である以上「苦痛」の可能性は否定できないからである。
例えば、DNAを大量コピーするためにDNAクローニングで、大腸菌に組換えプラスミドを進入させるためにリン酸カルシウムを加え、大腸菌の細胞壁を溶かし、あいた穴からプラスミドが浸入するようにするとき、それは大腸菌に「苦痛」を与えているのではないだろうか。
また、植物で遺伝子組換えをするために、DNAクローニングと同様、植物細胞に組換えプラスミドを進入させるために、植物の細胞壁をセルラーゼという酵素で破壊し取り除いてしまい、プラスミドがたやすく細胞内に浸入できるようにするとき、それは植物細胞に「苦痛」を与えているのではないだろうか[2]。或いは、植物で遺伝子組換えをするために、パーティクルガン法で、目的の遺伝子を結合させた微粒子を弾丸としてガンで植物細胞に撃ち込むとき、それは植物細胞に「苦痛」を与えているのではないだろうか。
これに対し、何を寝ぼけたことをと思うかもしれない。しかし、人類は少し前まで、肌の色がちがうというだけで相手を同等の人間と見ることができず、或いは非ヨーロッパ人というだけで、召使の彼らの前で平気で裸になるなど、相手を同等の人間と見ることができなかったのである。今抱いている私たちの価値観がどれだけ普遍性が持ち得るのか、実は何も検証していないのである。
4、その4:美(快・不快)の判断とはどういうことか
リスク評価の中に美的な判断などという非科学的な評価を持ち込むのは論外であるというのがリスク評価関係者の大方の考えだと思う。
確かに、芸術至上主義的に、美的判断がリスク評価の最終判断となることは問題だろう。しかし、美的判断というものをバカにはできない。なぜなら、美的判断には、(常とは言わないが)原初的、直感的に本質を捉える場合があるからである。
例えば、多くの市民たちが、なぜ、あれほどまでに強く、遺伝子組換え食品に反発するのか--ひとつには、遺伝子組換え食品に対し、彼らはごく素朴に、何かおぞましい、得体の知れない「不快」な感情を抱かずにはおれないからである。これは厳密なバイオ技術の理解に立脚したものではないとしても、遺伝子組換え技術が、従来の品種改良技術とは断絶した、種の壁を強引に突破する力業であることを知ったとき、生命現象に対するその強引な介入行為に対し、同じ生命体として、思わず、おぞましく、許し難い「不快」な感情がわき上がってくるとしたら、それは十分理に適ったことであり、リスク評価の最初の一歩として極めて貴重なものではないかと思う。これがリスク評価の美(快・不快)的判断である。
また、狂牛病でのたうち回り狂死に至った牛の映像を見た市民たちが、これは「これまでの病気のイメージ」とは隔絶した、生命体が罹るべき病気の限界を越えたとしか思えないような、何か、悪魔に呪われているのではないかと思わずにおれないような、思わず、おぞましく、許し難い「不快」な感情がわき上がってくるのを押えられないとしたら、それもまた十分理に適ったことであり、その判断が検査方法として様々な検出限界を指摘され、検査費用もかさむと散々ケチがつけられたにもかかわらず、利害打算を超えて、全頭検査が多くの市民に支持された根拠になっていたと思われる。これもまたリスク評価の美(快・不快)的判断というものである。
むろん、これまでも、リスク評価の場で、こうした市民の声は暗黙のうちに反映されていた。しかし、それはあくまでも「科学的評価」というリスク評価の正式な判断手続の外野席で、こっそりと取り上げられ(尤も、大抵は無視され)てきた。しかし、リスク評価の「解き方」によれば、こうした市民の声はリスク評価の手続の真っ只中で正面から取り上げられるべき事柄であり、それこそが正しい「解き方」である。
5、その5:リスク評価の判断者とは誰か
以上から、リスク評価の正しい「解き方」によれば、誰が判断者として相応しいかも自ずと明らかだろう。
これまでリスク評価は専門家=科学者がやるものと相場が決まっていた。しかし、リスク評価の本質は科学の問題ではなく、その限界の問題である。ところで、科学の問題に通暁している専門家=科学者であっても、その人は必ずしも科学の限界の問題に通暁しているとは限らない。そうだとすると、ここで必要な専門家とは、第一に、科学というシステムの内部で優秀であるような科学者ではなくて、むしろ科学の限界といういわば「科学のメタレベルの問題」或いは数学基礎論に対応するようないわば「科学基礎論の問題」に通暁している者が相応しい。
他方で、リスク評価とは科学の限界を踏まえて、善(倫理・法律)と美(快・不快)の判断を導入して、それらを総合して判断することである。従って、ここで必要な専門家とは、科学者というより、善や美の方面の文化的訓練を受けた別個の専門家が相応しい。そして、ここで美的判断者として相応しいのは別に美学者でも芸術家でもなく、食の安全と安心についてごく普通の良識とセンスを備えた一般市民である。
ただし、善や美の適正な判断は、真(認識)の適正な判断を基礎にして初めて可能となる。そのために、善的判断者や美的判断者は、予め真(認識)の判断を十分正確に理解しておく必要がある。そこで、彼らと前記の科学の限界に通暁した専門家との緊密な連携作業が不可欠となる。であれば、科学の限界に通暁した専門家の側でも、科学の限界について、一般市民に理解可能な言葉でもって語れる能力(しかし、昨今の専門家でこれを備える者を見つけ出すのは至難の技である!)を備えることが必須となる。
6、おわりに
以上から、リスク評価の急務とは、①.リスク評価の正しい「解き方」に基いてシステムと評価方法を再構築することであり、②.科学の限界に通じ、一般市民に理解可能な言葉でもって語れる専門家=科学者を育成することである。後者の実現のためには、従来の、異業種交流といっても所詮同業者(科学者)内部の交流でしかないシステムでは全く使い物にならない。改めて、近代科学の祖デカルトが実行した原点に戻り、食の安全と安心についてごく普通の良識とセンスを備えた一般市民=「世間」という大きな書物と交流し、そこから学び直す新たなシステムが作り上げられなければならない。
(09.09.27 柳原敏夫)
-> 青山学院大学 総合研究所掲載の文「リスク評価の課題とは何か」
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