2011年2月25日金曜日

報告:4月の市民法廷第1回準備会と市民法廷に向けての抱負(2011.2.24)

               報告:4月の市民法廷第1回準備会と市民法廷に向けての抱負

皆さんへ

こんにちわ、柳原です。

昨日、上越で4月の市民法廷第1回準備会と記者会見をやりました。

準備会には、原告の山田さん、青木さん、佐藤さん、天明さん、プロデューサーの小山さんと私。
そこに、途中、朝日、日報、上越タイムスの記者が来て記者会見を実施。

最初、なぜ、市民法廷をやるのか、その抱負を私から述べ、それに対して皆さんから感想、意見を聞きました。皆さんとの間で、なかなか活発な意見の交流ができまして、私としては大変勇気づけられました。

ちなみに、新潟水俣病裁判では、一審のあと、控訴するかをめぐって原告の皆さんは疲弊して、これ以上もう無理だというので、控訴を断念しました。

それからすれば、イネ裁判でも、一審も負け、控訴も負け、さらに市民法廷をやるなんて、もういい加減にして欲しい、疲れたよという声が出てもおかしくないのに、皆さん、意気軒昂でした。これはなぜでしょう。

やっぱり、とりわけ二審の審理最終日で、裁判長の、カダフィー顔負けの強引な幕引きに、皆さんの怒りが収まらず、「正義の裁きを!」という声になったのだと思いました。

だから、市民法廷では、真相解明に蓋をした現実の裁判の報告と、同時に現実の裁判に代えて「正義の裁きを!」に取り組みたいと思いました。

その積りで、このあと、具体的な準備をしたいと思います。

準備会では、著作権裁判でシナリオの事件をやってきた私にシナリオを書くように要請がありまして、受けることになりました。

その際、1年半前の2009年夏の新潟集会()での失敗(シナリオ完成が集会前日と余りに遅い!)を踏まえて、今回は早めの完成(3月14日)をめざします。


遺伝子組み換えイネの裁判判決を前に 市民へ、世界へ、すべての人へ 新潟集会
――イネ裁判が何であったのか、市民自身の視点で自己吟味する集会――

そのあと、3回、リハーサルを開き完璧を期し、4月9日の本番に備える。

昨日の準備会に参加して、4月9日の市民法廷は私にとって、この6年間のイネ裁判の集大成になるばかりか、生涯の転換点になるだろうという予感に教われました。

昔、エイドリアン・ラインという監督の「ジェイコブス・ラダー」(旧約聖書創世記の「ヤコブの梯子」という意味)を観たとき、我々人間が経験したことの意味を理解するためには、少なくとも2回、同じことを経験する必要があるのではないか、それは人間にとっての真理ではないかと思いました。この映画では、ベトナム戦争で犬死した兵士が、自分がなぜ犬死したのか、その意味を理解するために、もう1度死ぬ目に遭わされる、という映画です。

人類は、世界大戦を2度やらかした、1度では済まず、2度までもやり、2回目でこんなことを続けたら人類は絶滅すると初めて悟って、世界大戦の回避のために国際連盟を強化し、世界人権宣言を決議し、日本国憲法に戦争放棄を刻ませた。
実際はすぐさま東西冷戦に入り、いつでも世界大戦になってもおかしくなかったのに(実際、キューバ危機で人類は絶滅の瀬戸際まで行った)、世界戦争にならなかったのは、ひとえに2回の経験で人類が世界戦争の意味を学んだからですね。

だから、今、中東で起きた民衆の抗議行動を見ていて思うことは、これは2回目の市民革命なのだ、目の前の広がる出来事を眺めていて、ようやく、過去の1回目の市民革命がどういうものだったのかを初めて理解することができるのだ、と。
つまり、最初の市民革命のフランス革命とは何であったのか、ロシア革命とは何であったのか、ということです。

それと同じ意味で、今度の市民法廷は、2度目の法廷です、1度目が国営法廷に対する。

この2度目の法廷を経験することを通じて、きっと、1度目が国営法廷の意味が初めて明らかになる筈だと。
その積りで、今度の市民法廷に立ち向かいたいと思います。

その際、私が、この市民法廷で証明したいと思っていることが少なくとも2つあります。

1つは、私たちはもし事前に「然るべき準備と備え」をしていれば、2005年6月の野外実験の田植えを中止に追い込むことは可能だった。その「然るべき準備と備え」とは何かを示すこと。

もう1つは、私たちはもし国営法廷で、(事実論はそのままで)、別の法律論を立てていれば、裁判所は我々を負かすことはできなかった。その法律論が存在したのではないか。だとしたら、その「法律論」とは何か。

私は、別に痛恨の思いでこれを書いているわけではありません。
しかし、歴史は、将来、必ず、2回目の遺伝子組換え技術の裁判を登場させるでしょう。そのとき、これらを行使して、ムバラクを退陣に追い込んだように、チュニジアの大統領を亡命させたように、成果を上げなかったら、その時には痛恨の極みです。なんで、2度、(市民)法廷をやったんだ、と。それは将来、二度と同じ過ち、失敗を繰り返さないためだろう、からです。

その積りで、皆さんと歴史を刻んでいきたいと思っています。

よろしく。

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                   法律家 柳原敏夫(Toshio Yanagihara)
          E-mail  noam@m6.dion.ne.jp
           GMイネ野外実験の差止訴訟「禁断の科学裁判」
          公式サイト→http://ine-saiban.com/
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6年間のイネ裁判の2つの痛恨(2011.2.25)

             私感:6年間のイネ裁判の2つの痛恨

皆さんへ
柳原です。

この間、4月の市民法廷の準備をしていて、改めて気がついたこと、概要ですが書いておきたいと思います。

私は、もともと著作権を専門にやって来たヤクザの知財(知罪)弁護士で、イネ裁判は初めての環境(公害)裁判でした。だから、新米として、すべてが新しく、新鮮でした。

だから、新米が故に、無知と無恥だらけで、むしろ開き直りで無知の強味で怖いもの知らずでやってきたところがあります。

しかし、その新米が故の痛恨事が2つあります。それはもしその無知を克服していれば、イネ裁判で一度は勝訴判決を導けただろうと思えるからです。

1つは、事実に関する無知でした。
ご存知の通り、6年前の仮処分申立で、一審の高田支部の板垣裁判官は最も我々の立場に理解を示してくれ、住民へ情報公開することを条件に被告の野外実験を認めました。

のみならず、彼は、ディフェンシン耐性菌の出現の可能性を明確に認めた裁判官でした。
しかし、同時に、その可能性が「飛躍的に増大した」ことまで必要であるが、その点の証明が不十分だとして、申立を却下しました。

板垣裁判官は古典的な公害裁判と同一のレベルで考えてしまい、一定量の有害化学物質が発生・放出されたことと同様に、「かなりの量のディフェンシン耐性菌の出現」が必要だと考えたのです。

このとき、私は生物災害に特有な性質=自己増殖という決定的な真理を裁判官の頭に叩き込むことを忘れてしまったため、裁判官に、仮に1個のディフェンシン耐性菌が出現する場合でも、それは自己増殖して危険をもらたす可能性があるということに気がつかせることができませんでした。

二審で、この真実を指摘しましたが、時既に遅しで、二審の忠犬裁判官はそんな指摘なぞ「住民の杞憂」にすぎないと一蹴されました。

同じ環境公害事件でも、有害化学物質と生物との重要なちがいをわきまえることができなかったことによる痛恨事です。

もう1つは、法律論に関する無知です。
昨年から大分の中村さんの誘いで、科学と法について考えるプロジェクトに参加し、そこで科学者の人から、科学裁判のすごい法律家がいると松波淳一弁護士を紹介されました。
松波さんというのは、富山県の人で、高校卒業後10年余り郵便局員を務め、のち大学の夜間で法律を学び、司法試験に受かり、イタイイタイ病裁判の最初から30年関わってきた人です。

彼の「イタイイタイ病の記憶」という本を手にとり、そこからイタイイタイ病裁判がいろいろな点でイネ裁判と共通することを初めて知りました。

とくに、因果関係論の論点がイネ裁判とそっくりそのままだったということです。

この種の住民の裁判による追及に対して、被告に立たされた加害企業が取るやり方は、原因となった事実から、被害が発生するまでのメカニズムをひとつひとつ具体的、個別的に明らかにされたい、という「メカニズム論」であり、これが彼らの常套手段だということです。

今回のイネ裁判の被告の作戦も全くこの「メカニズム論」だったのです。彼らは加害者側として過去の最良の遺産を引き継いできた訳です。

松波淳一弁護士らイタイイタイ病弁護団は、この「メカニズム論」は結局、真相は不明であるという「不可知論」に逃げ込むための悪辣な論法であり、断固拒否をすべきであり、事実、それを実行し、そして勝利したと述べられていました。

そして、この「メカニズム論」拒否の作戦が成功したのは、最高裁がそれまでにそれを支持していた判例を出していたからだと解説してありました。

それが、
元来訴訟上の証明は,自然科学者の用いるような実験に基づくいわゆる論理的証明ではなくして,いわゆる歴史的証明である。論理的証明は『真実』そのものを目標とするに反し,歴史的証明は『真実の高度な蓋然性』をもって満足する。言い換えれば,通常人なら誰でも疑いを差し挟まない程度に真実らしいとの確信を得ることで証明ができたとするものである。だから論理的証明に対
しては当時の科学の水準においては反証というものを容れる余地は存在し得ないが,歴史的証明である訴訟上の証明に対しては通常反証の余地が残されている。
」最高裁昭和23年8月5日判決)。

そして、昭和39年7月28日の最高裁第三小法廷判決は、注射の際のブドウ状球菌汚染による化膿について、医師側が汚染の経路を明らかにされたいと上告したのに対し、最高裁は、注射に際し消毒が不完全とさえ言えば、器具の不消毒か、それとも術者の手指の不消毒か、それとも患者の注射部位の不消毒かを確定しなくてもよいと判断。

しかしながら、これらの消毒の不完全は、いづれも、診療行為である麻酔注射にさいしての過失とするに足るものであり、かつ、医師診療行為としての特殊性にかみれば、具体的にそのいづれの消毒が不完全であったかを確定しなくても、過失の認定事実として不完全とはいえないと解すべきである(最高裁第二小法廷昭和三〇年(オ)一五五号同三二年五月一〇日判決、民集一一巻五号
七一五頁参照)。」

http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/js_20100319121825617768.pdf

もしこの最高裁の判断に従えば、イネ裁判の被告の論法も同様にして否定されます。つまり、
ディフェンシンを常時産生していて、抗菌タンパク質として菌に殺菌作用を及ぼしていることが認められる以上、ディフェンシンの産生から、どのような経路を辿って耐性菌が出現したのか、イネ体内か、イネ対外か、それともイネの表面上か、それを確定する必要はない、と。

だから、イタイイタイ病裁判では、被告の三井金属が、カドミウムの摂取から発病までのメカニズムを解明したいと主張し、そのために鑑定を申請したとき、この鑑定を認めるかそれとも却下するかが、裁判のクライマックスとなった。そして、ケンケンガクガクの論争の末、鑑定は却下され、それ以上の事案解明は必要なしとして、不法行為の因果関係は認められ、住民の勝利となった。
昭和39年7月28日の最高裁第三小法廷判決をきちんと学んでおれば、イタイイタイ病裁判の教訓をきちんと学んでおれば、最高裁のロジックを使って被告を負かすことができたのではないかと、本日、知りました。

そのことを書いた松波淳一弁護士の「イタイイタイ病の記憶」の該当部分をアップします。

http://1am.sakura.ne.jp/GMrice/MemoryofItaiitai.pdf


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                   法律家 柳原敏夫(Toshio Yanagihara)
          E-mail  noam@m6.dion.ne.jp
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          公式サイト→http://ine-saiban.com/
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2011年2月4日金曜日

動的平衡から眺めた世界史:百万人の預言者の出現(2011.2.4)



動的平衡から眺めた世界史:百万人の預言者の出現

言語学者ノーム・チョムスキーは、昨年12月チュニジアの一人の若者の抗議の焼身自殺に端を発して発生した中東の民衆の抗議行動について、2月2日次のようにコメントしている。‥‥what’s happening is absolutely spectacular. The courage and determination and commitment of the demonstrators is remarkable. And whatever happens, these are moments that won’t be forgotten and are sure to have long-term consequences.   

強権的な独裁者に支配されるエジプトで、これといった指導者もいない中で、瞬く間に百万人規模の抗議デモが出現したというのは、absolutely spectacularであり、殆ど奇跡のように思える。だから、チョムスキーは、たとえ抗議行動の未来は紆余曲折は避けられず予測困難だとしても、それは永遠に記憶されるべき出来事だと断言する。

では、どのような意味で、それが「永遠に記憶されるべき出来事」なのだろうか。私には、ここに「世界史の構造」の最も重要な瞬間が開示されているように思える。
テレビに登場する抗議行動の民衆の表情は確信にあふれていた。しかし、指導者なき民衆は、強権的な独裁者の抑圧をものともしない確信を一体どこからどうやって手に入れたのだろうか?人間以外の霊長類の群れなら、もし強権的なボスの抑圧があったとしても、このような抗議行動には出ないだろう。このような確信に満ちた反抗をしないだろう。「確信に支えられた抗議行動」が人類に特有なものだとして、人類は、別に誰かに教えてもらわないにもかかわらずそれをどうやって手に入れたのだろうか?

この謎を解き明かしてくれたのが、昨年出版された柄谷行人著『世界史の構造』に登場するキーワード「抑圧されたものの回帰」だった。「抑圧されたものの回帰」とは、人類の世界史に登場した3つの交換様式(さしあたりA・B・Cとよぶ)の次に来る、未来の交換様式D、これをもたらす力として捉えられていた。すなわち、世界史の最初の交換様式A「互酬性(贈与と返礼)」を支配原理とする氏族社会(ここでは贈与の力に支配されている)、そのあと登場した交換様式B「略取と再分配」を支配原理とする国家社会(ここでは暴力の力に支配されている)、さらにそのあと登場した交換様式C「商品交換」を支配原理とする資本制社会(ここでは貨幣の力に支配されている)に対し、それらを超えるものとして、交換様式Dを支配原理とする未来社会が構想されており、この来るべき交換様式Dとは交換様式Aの「互酬性」を高次元で回復するものとして捉えられていた。それはかつての氏族社会の支配原理であったにもかかわらず、その後、交換様式B・Cによって抑圧されてきた交換様式Aの「互酬性」を取り戻すという意味で、抑圧された交換様式Aの回帰だった。その端的な例が古代国家に普遍宗教として出現したユダヤ教である。エジプトで生まれた羊飼いモーセのところに、ある日神が現われ、エジプトの国家社会のもとで虐げられ、苦しんでいる民を救うように命じ、モーセは逡巡の末これを受け入れた。しかも揺るぎない「確信」として受け入れた。なぜなら、それは、人類がかつてお互いを等しくかつ独立して存在する者として認めてきた、砂漠で過ごした遊牧民的な生き方や武装自弁の農民の生き方を取り戻すことであったから。そこでは富や権力の偏在や格差を認めなかった。こうして、平凡な民衆の一人モーセは富や権力の偏在は「不正」として退場すべきであり、独立性と平等性の倫理を回復せよという「正義」を語る預言者に劇的に変貌を遂げたのである。

この意味で、モーセの変貌はひとりモーセにだけ特有なものではなかった。かつて、富や権力の偏在や格差を認めず、独立性と平等性の倫理が貫かれていた氏族社会の時代を経験してきた人類はその後も記憶の中をこれを深く刻み込んできたからである。だから、その後、抑圧や貧困や差別に苦しめられてきた多くの人々が、モーセの教えを聞いたとき、モーセと同様の体験=抑圧されたものの回帰を経験し、「人間生来の生き方」として独立性と平等性の倫理を回復せよという「正義」を受け入れたのである。

この「抑圧されたものの回帰」という経験がモーセから3000年経過した紀元後18世紀に至っても続いたことは、当時のアメリカ市民革命(独立戦争)と人類で最初に出現した人権宣言の記録からも明らかである。
すべて人は、生来ひとしく自由かつ独立しており、一定の生来の権利を有するものである。これらの権利は、人民が社会を組織するにあたり、いかなる契約によっても、その子孫からこれを奪うことのできないものである。」(1776年のヴァージニア権利章典1条)
国家は、人民、国家もしくは社会の利益、保護および安全のために樹立される。‥‥いかなる政府も、これらの目的に反するか、または不十分であると認められた場合には、社会の多数の者はその政府を改良し、改変し、または廃止する権利を有する。この権利は疑う余地のない、人に譲ることのできない、また棄てることのできないものである」(同3条)

 この人権宣言の起草者たちは、「すべて人は、生来ひとしく自由かつ独立して」いると確信したとき、意識せずして、独立性と平等性の倫理を回復せよという「モーセの教え」に回帰していたのである。

それから2世紀近く経って我が国に出現した憲法9条も同様である。「モーセの教え」を徹底化し、独立性と平等性を真に実現しようとしたら戦争放棄抜きには考えられないからである。憲法9条が奇跡に見えるとしたら、それはちょうど古代国家において「モーセの教え」が奇跡に見えたのと同様である。その「モーセの教え」がのちに人権宣言として実現されていったように、憲法9条も将来実現される運命にある。

それから半世紀以上経って、中東に世界史上初めて民衆による市民革命の機会が訪れたとき、民衆の胸の中に、富や権力の偏在や格差は認めない、独立性と平等性の倫理を実現せよという「正義」が響き渡っていたのは偶然ではない。それはちょうどヴァージニア権利章典や日本国憲法の起草者たちが意識せずに「モーセの教え」に回帰していたように、中東の民衆もまた知らずして「モーセの教え」に回帰していたのである。だから、先日の百万人規模の民衆の抗議行動は、平凡な民衆の一人だったモーセが「正義」を語る預言者に劇的に変貌したように、百万人の預言者が出現した劇的な出来事であった。その意味で、これは「抑圧されたものの回帰」の巨大な出現として「永遠に記憶されるべき出来事」なのだ。

実は、これは分子生物学のひとつの貴重な成果、「動的平衡」を思い出させる。元来、生命現象は動的平衡つまり絶え間なく動きながら、できるだけ或る一定の状態=平衡を維持しようとする。生命現象に対する内外からの様々な影響・介入に対しても、動的平衡の「揺り戻し」は必然である。それらの影響・介入によって、いっとき別の状態に変化することがあっても、生命現象はそこにとどまることはなく、押せば押し返してくる、沈めようとすれば浮かび上がろうとして「揺り戻し」を起こす。その「揺り戻し」は偶然ではなく必然である。そして、このような「揺り戻し」は生命現象に限られず、人間社会にも当てはまる。それが「抑圧されたものの回帰」であり、今回の中東の民衆の抗議行動である。但し、どのような条件が備わったときに、どんな「揺り戻し」「回帰」になるか、そのメカニズムがある筈である。このメカニズムの探究の中から、今後これらの条件を整えることに努めることによって、未来における民衆の「抑圧されたものの回帰」の巨大な出現をサポートすることが可能となるだろう。

世界史のもう1つの課題として、「抑圧されたものの回帰」の継続と発展のメカニズムを解明することがある。「抑圧されたものの回帰」は出現さえすれば、あとは自動的に順調に成長・発展するものではないからである。むしろ、必ず、別の「揺り戻し」がやってきて、その成長・発展を阻害しようとする。これは普遍宗教の限界の克服でもある。普遍宗教は出現したのちに普及すると共に国家の宗教、共同体の宗教に変質・堕落したからである。それは独立性と平等性を主に倫理の次元でもたらしたものであっても、政治的、経済的システム(客体)の次元やそのシステムを担う市民(主体)の次元でもたらすものではなかったからである。だとすれば、世界史の今後の課題は、政治・経済のシステムとその担い手の次元において、どのような条件が揃えば、独立性と平等性が回復されるのかを探究し、そして実行に移すことである。新聞は中東の民衆の抗議行動は持久戦に入ったと報じた。が、それはもはや独裁者が引き続き居座るといった次元の問題ではなく、「持久戦」の真の意味とは「抑圧されたものの回帰」の継続と発展に向けて中東の民衆が世界市民と手を携えて、終わりなき取り組みに踏み出したということである。                                                                               (2011.2.4柳原敏夫)

 以下は、青山学院大学 総合研究所のHP掲載の文(縮刷版)