2018年1月6日土曜日

君は安全神話に関心がないかも知れないが、安全神話は君に関心がある(1~4)(2018.1.6)

福島原発事故から6年9ヶ月経過した2017年12月12日、人々が安全神話という言葉すらすっかり忘れてしまった頃になって、突然、日本政府は、復興推進のため、「風評払拭」を掲げる復興大臣の指示を出しました。「風評」とは主に「放射能による健康被害の危険性」を問題にする見解に向けられたものです。つまり、これらの見解は風評=「根拠のない噂」であり 、払拭する必要がある、と。しかし、そうだとしたら、これらの見解に科学的な根拠がないことを説明する必要があります。それならば、単刀直入にズカッと、「これこれの科学的な理由で、放射能による健康被害の危険性はない」と言えばよい。

 しかし、正面から堂々とそれをせずに、なぜ、「風評」などというもって回った言い方で、「放射能による健康被害の危険性」を問題にする見解を「排除」(払拭)しようとするのでしょうか。

 福島原発事故は日本史上最悪の人災であり、この経験で、それまで幅を利かせていた安全神話は崩壊しました。福島原発事故のあとでは、それまでの原発の安全性の考え方は通用しないのです。にもかかわらず、日本政府は、その悲惨な体験のあともなお、事故前と変わらず、「安全性」に対して、「放射能による健康被害の危険性」を問題にする見解を風評の名のもとにばっさり「排除」(払拭)しようとする根深い体質が依然根を張っているように思えてなりません。

 「放射能による健康被害の危険性」を問題にする見解を風評の名のもとにばっさり「排除」(払拭)するのは、科学的な証明によるものではなく、その見解は間違っているという信念・信仰によるものです。だから、これこそ安全神話の典型です。つまり、風評払拭に励む日本政府は、原発事故後もなお安全神話にしがみついているのです。

ところで、そもそも安全神話とは何か。それは決して神話の世界のお話ではなくて、私たちの日常生活の中で原発事故前から馴染みのある言葉として登場し、流通しているものです。それがリスク評価()です。今回の復興大臣の指示にも「風評払拭・リスクコミュニケーション強化戦略」とリスク評価の基本単語が登場します。 安全神話の正体を知りたかったら、リスク評価の正体を知る必要があります。

 そこで、以下は、
1、日本政府は、なぜ、福島原発事故という悲惨な体験のあともなお、それほどまでに安全神話にしがみつくのか。
2、 安全神話とは何か。言い換えれば、安全神話の別名であるリスク評価の正体とは何か。
について、検討したものです

) 
食品安全委員会の定義では、食品の健康に及ぼすリスク評価とは、人が食品中に含まれる添加物、農薬、微生物等のハザード(危害要因)を摂取することによって、どのくらいの確率でどの程度の健康への悪影響が起きるかを科学的に評価すること(食品安全基本法11条でいう食品健康影響評価のこと)。これによると、「放射能のリスク評価」とは、人が環境中の放射能を外部被ばくおよび内部被ばくすることにより、どのくらいの確率でどの程度の健康への悪影響が起きるかを科学的に評価することである。

  ***************


目 次
その1


その
4、風評どうかはリスク評価の問題である。

君は安全神話に関心がないかも知れないが、安全神話は君に関心がある(その4)

目次
8、科学の力が尽きたところで「不確実な事態」をどう評価したらいいかという判断で登場する最大の判断基準の1つが予防原則である。
9、予防原則世の識者から目の敵にされ、黙殺される。それはなぜか。彼らにとって不都合な事態を引き起こす。
10.(補足)予防原則はなぜ普遍性を備えていると言えるのか。


8、科学の力が尽きたところで「不確実な事態」をどう評価したらいいかという判断で登場する最大の判断基準の1つが予防原則である。

(1)、リスク評価は科学の限界の問題 

その3述べた通り、そもそもリスク評価が最も問題となるのは、測定値が科学的に正しいかどうかといったことではなく、むしろ、そうした科学の探求を尽くしてみたが、それでもなお或る現象の危険性について確実な判断が得られないときである。つまり、科学の力が尽きたところで、初めて、ではこの「不確実な事態」をどう評価するのだ?という判断が問われる時である。その意味で、リスク評価とは科学の問題ではなく、科学の限界の問題である。言い換えれば、リスク評価とは、科学的に「解くことができない」にもかかわらず「解かねばならない」、この2つの要求を同時に満たす解を見つけ出すというアンチノミー(二律背反)の問題である。
そうだとしたら、このアンチノミーをどうして科学的判断=真(認識)だけで解くことができるだろうか。科学の限界の問題を科学で解こうとすることほど非科学的なことはないからである。言い換えれば、科学者は科学の枠内の問題については専門家かもしれないが、しかし、科学の限界の問題について専門家である保証はどこにもない。そこで必要なのは、科学の限界線(科学的不確実性の内容と程度をできるかぎり明確に認識すること)に立って、そこからジャンプすることである。どこに? ②善(規範・法・倫理・道徳・政策・宗教)の判断に。そこで問題は、いかなる善が問題となるのかいかなる人たちがその判断に関与するが適切かである。

(2)、リスク評価で問われる②善(規範・法・倫理・道徳・政策・宗教)とは?

これを考えるにあたって、2つの善(規範・法・倫理‥)を区別する必要がある。1つは、共同体の中で通用する善(規範・法・倫理‥)。もう1つは、共同体を超えたところでも通用する普遍性を備えた善(規範・法・倫理‥)。いわゆる普遍法(自然法)、普遍宗教などである。

今ここで、私たちに必要なのは普遍性を備えた善(規範・法・倫理‥)である。そのような普遍性を備えた善の1つが予防原則である。なぜなら、予防原則が言われるようになったのは、
①.人類がいまだかつて経験したことのなかった新しい現実が登場したからで、この未知との遭遇に従来の救済方法では対応し切れず、「新しい酒は新しい皮袋に盛る」必要があったから。

②.では、何が「いまだかつて経験したことのなかった新しさ」なのか?それは、次の4つの要素である。

 (a) .リスクの不確実性=予見不可能性
 (b).不可逆性=回復不可能性
 (c) .晩発生(実際の被害が発生するまでに時間がかかること)
 (d) .越境性(リスク源が国境を超えて移動すること)


では、以上の「いまだかつて経験したことのなかった新しい事態」に対する対策である「新しい皮袋」とは何か?それは一言で言うと、「将来取り返しのつかない事態が発生する恐れがあるものについて、その発生が起きないように前もって予防的な措置を取ること」である。
ただし、予防原則は生成途上のものであるため、その具体的な中身については確定的に言うことはできない。しかし、そのエッセンスは「転ばぬ先の杖」「備えあれば憂いなし」であり、誰にも理解できる。だから、誰も反対しないと思われる。しかし、‥‥

9、予防原則世の識者から目の敵にされ、黙殺される。それはなぜか。彼らにとって不都合な事態を引き起こす。

予防原則が世の識者から目の敵にされ、黙殺される最大の理由は、予防原則が普遍性を備えた善だからである。それは共同体の内部でだけ通用する善とは異質なものである。そのため、世の識者は普遍性を備えた善に対して正面から反論できない。かつてなら、治安維持法違反や国家転覆罪等で暴力的に抑圧できたのが、現代では不可能となった。そこで、無視、黙殺による排除がとられた。「ィ!!予防原則のよの字も世間で話題にしてはならない」--これが彼らの唯一の方針である。

では、予防原則の何を世の識者は目の敵にするのか。その最大の理由は、予防原則のエッセンス「疑わしきは(命・健康・環境等を)守る」は、その結果、命・健康・環境被害をもたら側の経済活動規制されるため、思うままに経済活動したいという新自由主義の信奉者たちのご機嫌を損なうからだ。
とはいえ、彼らも自らとその一族の命・健康については、もちろん予防原則の信奉者だ。賢い彼らは危険なところには一歩も近づかない。だから、彼らの予防原則は他の人に当てる物差しを自分にもあてることを拒否する」という二重の基準(ダブルスタンダード)によっている。だから、彼らの正体は聖書で定義され偽善者である。
 
かつて、普遍的な価値を持つ自由、平等、独立が人々の尊厳を示す貴い証として、人々はこれを手に入れるまで命を賭けても抵抗をやめなかったように、いま、普遍的な価値を帯びる予防原則は、現代を生きる我々の尊厳を示す貴い証として、人々これを手に入れるまで、命を賭けても抵抗し続けることにやめないだろう。これは歴史の法である。

 
10.(補足)予防原則はなぜ普遍性を備えていると言えるのか。

それは「不確実な事態」における普遍的な倫理を示したものである。つまり、被害が発生するかどうかが予見できず、なおかつもし被害が発生した場合には元に回復不可能な事態に至るという「不確実な事態」が発生した場合、人の命、健康はその危険から守られるべきであるという倫理は普遍性を備えている。

のみならず、予防原則は
生命の本来の営み対応していることが近年の分子生物学の遺伝子解析から明らかとなった。すなわち、
遺伝子はタンパク質を作るための情報であり、それは主に生命活動を促進、発展させるものに役立つものだと考えられてきたが、近年は細胞の無際限な増殖(発ガン)を抑制する作用といった抑制面が注目されるようになった。つまり、細胞は、元々ほうっておけば容易に暴走する仕組みを内臓しており、それに対して、この暴走を極力抑える予防原則的なシステムが備わって初めて正常な生命活動が保たれていることが認識されるに至った。

タンパク質の無際限の蓄積や発展は
生命の営みにとってむしろ破壊的なのだ。しかし、「人間と人間の関係」においては、ここ200年余りの間に、無際限の蓄積や発展があたかも進化・進歩のように思い込むようになってしまった。その結果、人間社会では破壊的や蓄積や発展を極力抑えるシステムが働かなくなってしまった。しかし、無際限の蓄積や発展を抑制するシステムこそ生命誕生以来何十億年の生命の進化を支えてきた原理である。

今、分子生物学の最新の成果から、タンパク質や細胞の破壊的な蓄積・発展を極力抑えバランスを保つという予防原則的なシステムによって支えられた生命の営みの歴史を学び、そこから人間社会の歴史を見つめ直す意味がある。それが予防原則の導入である。


2018年1月5日金曜日

五十にして天命を知る-リスク評価論への目覚め-(2004.6.6)

君はバイオテクノロジーに関心がないかも知れないが、バイオテクノロジーは君に関心がある。

2004年6月、「エントロピーの法則」などで知られるアメリカの文明批評家ジェレミー・リフキンが、バイオテクノロジー革命がもたらすものについて考察した書物「バイテク・センチュリー」(日本語版は1999年4月、集英社刊)に接し、驚愕し、これをノートに書き留めました。

それは、バイオテクノロジー革命が物理学の革命から始まった近代文明がその後辿ったもろもろの成果の一大集約点であること、いってみれば我々の文明の到達点であることが明らかにされ、それゆえ、同時にこれが文明の光と影の両方に渡って決定的な出来事に遭遇するであろうことを示唆するものだったからです。
私のようなズブの素人には、難しい専門的知識の説明より、たとえ仮説にせよ、こうしたパースペクティブ(大局観)をもって事態を説明しようとする書物が入門書としてありがたかった。

これを読んだ瞬間、私の後半生の方向が決まりました。そのことをその夏の書中見舞いで、こう書きました。


少し前ですが、ようやく私の後半生の方向が決まりました。

ジェレミー・リフキン「バイテク・センチュリー」(集英社)
という本と出会ったおかげです。

私は、医者になります(^_^)。
というか、
「遺伝子工学」
「リスク評価学」
「予測生態学」
をマスターしたい。

そのために、今、特許の専門家になる準備をしております(もっか、その方面の専門家について修行中です)。
少し前に、青色発光ダイオードの中村修二の弁護士事務所に勤務したいとラブレターを書きましたが、あんなゆうちょなことをしている場合ではない。

もっとダイレクトにやる必要がある(^_^)。

昔、有志と著作権の勉強会をやっていて、それが変節して、数学の勉強会になりましたが、あれが実は、挫折してしまいました。
しかし、今回、遺伝子工学を知る中で、その原因が目からウロコガ落ちるように分かり、今度は、ぜったい挫折しないでやる見通しが持てました。
今度こそ、マトリックスも量子力学もサイバネテックスも身を入れて取り組めます。

だから、もういっぺん、数学と物理の勉強を再開します(医者やリスク評価学のマスターのために必要なんです)。

一言で言うと、先日、カンヌ映画祭でパルムドールを取ったマイケル・ムーアみたいな気分です。

 1年後、それが実現する羽目になりました。それが新潟県上越市で始まった日本で最初の遺伝子組み換え作物野外実験の差止裁判=禁断の科学裁判です。
願ったからといって夢は実現するものではない、しかし、願わなければ夢は絶対実現することはない--今回もまた、この真理を確認した次第です。

このノートに興味を持った人は、是非、本書「バイテク・センチュリー」(日本語版英語版)を読んでみて下さい。


「バイテク・センチュリー」ノート全文 (ワード版)

「バイテクセンチュリー」ノード全文(ブログ版)
冒頭部分の抜粋

0、序――ノート作成の動機――

(1)、始源的なものはそれが成熟したときに視えてくる――科学のエッセンス、産業社会のエッセンスは今後のバイオテクノロジーの中で最もクリアに照らし出される筈である。

 だとすれば、過去の工業社会の光と影、物理・化学の光と影の体験を、バイオテクノロジーの時代の中でもまた改めて、しかも最も徹底した形で反復することになるだろう。

 だとすれば、ちょうど今、工業社会が、その影の体験の末に、(表向きにせよ)「環境に優しい」「持続可能な社会」を掲げたように、バイオ社会も、いずれ、そうしたスローガンを掲げるようになるだろう。

 しかし、そのために、人類は、これまで、被爆、公害といった工業社会、物理・化学がもたらした悲惨極まりない体験をくぐり抜けてこなければならなかった。

 だとすれば、今後、バイオ社会における「環境に優しい」「持続可能な社会」というスローガンを獲得するために、またしても同じような悲惨な体験を反復しなければならないのか。
――人類は、そこまで愚かではない。
 だとすれば、その悲惨な体験の反復を食い止めるために何が必要だろうか? 何が可能だろうか?
      ↓
このノートは、それを探求するために思い立ったもの。

(2)、もうひとつ。
 社会に新しいテクノロジーを根づかせ、発展させていくとき、推進者たちは、そのためには、単にその技術が優秀であるのみならず、それ以外にも、政治、経済、マスコミ、文化、教育、哲学など様々な分野でそれを支持し、サポートする全般的な動き、というより運動が企てられる――或る意味で、それは殆どマインド・コントロールに近い――が、もっか売り出し中のバイオテクノロジーは、こうした運動の生成過程をつぶさに観察するに打ってつけの対象である。

 そして、その観察から、我々が既にどっぷり漬かってしまい、マインド・コントロールされていることすら自覚しなくなってしまった工業社会のテクノロジーを支えてきた様々なコモン・センスと称する世界観、思想、哲学の正体を吟味する道が開けてくる筈。

 それは、現代の環境問題、消費者問題、人権問題の本質を考え抜く上で不可欠の作業である。


最終部分の抜粋

11、ジェレミー・リフキンの個人的な見解――オルタナティブなバイテクの探求――

(1)、私は、新しいバイオテクノロジーの導入に全く反対しているのではない。
問題は、どんな種類の科学やテクノロジーに賛成するか反対するか、である。
       ↑
あたかも、近代の夜明けに、宗教の批判者がヴァチカンから糾弾されたことと似ている。
この時、教会の公式の教義に異議を申立てるものはすべて神を否定する者とみなされた。
       ↓
しかし、神をあがめる方法は沢山あるのだ。
これと同じように、科学をほめたたえる方法もほかにまだ沢山あるということだ。
世界を遺伝子還元主義の立場から眺めることしかできないわけではない。
生態環境学のように、自然に対しより統合的でシステム全体を考えたアプローチもある。
この学問が遺伝子還元主義と違うのは、
後者が分離を好み、超然とすることを好み、力を応用して侵入することを好むのに対し、
前者は、分離より統合を好み、超然より参加することを好み、力の応用より社会的な責務やいたわりを好む。
       ↓
こうしたアプローチの違いは、実行の段階で、非常に異なった正反対の方向に進むことになる。

(a)、農業
遺伝子還元主義は、広範囲の生物界に対して防備を固め、独立した安全な避難所を作ることに努める。
生態環境学者は、ゲノム・データを使って、環境の影響と突然変異の関係について理解を深め、生態環境に基づいた農業科学――総合的な害虫管理、輪作、有機肥料、さらには農作地を栽培地の生態系の変遷の型と両立させる計画的で持続性のある方法を推進させることに努める。

(b)、医学
遺伝子還元主義は、変更された遺伝子を患者に組み込み、異常を「訂正」して病気の進行を抑えようとしている。
全体論的な立場は、環境誘因と突然変異との関係を探求し、より複雑で科学的な根拠に基づいた予防治療の理解を深め、その方法を確立したいと考えている。
            ↑
米国ほか工業国の死者の70%は心臓発作、卒中、乳がん、結腸癌、前立腺癌、糖尿病などの「富裕病」であり、食事やライフスタイルも含めた環境要因が突然変異の誘発を助長する主な要素であることは分かっている。そこで、この「環境誘因と突然変異との相互作用」を探求する必要がある。
  
では、なぜ、2つのアプローチはお互いに手を携えて協力し合うことができないのか?
              ↓
ビジネス界がてっとり早く儲けにつながる前者のアプローチを支持しているため。

(2)、科学者の偏見について
 分子生物学者の中には、あいかわらず自分たちのアプローチには偏見はなく、客観的で、価値観に囚われていない唯一の真実の科学だと信念を抱いている人がいるようだ。
             ↑
しかし、もともと、どんな研究者であれ、探求という行為には、常に、その研究者の先入観・世界観が暗黙の前提となっている。
ex. 科学やテクノロジーの「進歩」は、あたかも自然の進化や自然淘汰と同様であり、そこには何の制約もない、と。
     ↑
   ちょうど、芸術の「表現」にはあたかも自然の表現と同様であり、そこには何の制約もないと考える作家。
     ↓
  だから、遺伝子操作といったテクノロジー導入に反対することは、無分別で無益であり、自然に背くのと同様な無意味なことである。
  なおかつ、新しいテクノロジーの導入に対して、テクノロジーはもともと中立的かつ必然的なものだという理由で、それがどのようなリスクをもたらすかについて真剣な検討をする責任(←これこそ人類の責任というべきである)を免れている。
     ↑
そこで、こうした科学者が陥っている無意識の先入観・世界観を一度、徹底的に吟味し、批判しておく必要がある。
  ex. テクノロジーはもともと中立的かつ必然的なものか?
       ↑
      ノー
∵ テクノロジーはもともと我々の生物的肉体を拡大し延長したもの。その行使にあたって、誰か、もしくは環境の何かを必ず傷つけ、弱め、利用しているから。その意味で、テクノロジーは本来的に中立的であり得ない。
       ↓
 そうだとすれば、テクノロジーの行使にあたって、その規模や範囲が適切か、或いは途方もないものかを見極めなくてはならない。その問題を最も突き付けたのが原子力である。
 原爆と核エネルギーは物理学の離れ業としてト20世紀最高の科学的業績として登場したが、そのリスク・脅威はいかなる潜在的な利益をもしのぐという結論に達し、政策の転換を余儀なくされつつある。それを余儀なくさせたのは一般大衆だった。
   ↓
だとしたら、20世紀の物理学の真骨頂ともいうべき核テクノロジーに代わって、いま視界に入ってきた21世紀の生物学の真骨頂ともいうべきバイオテクノロジーに対して、いかなる新しい技術革命に問うて然るべき、入り口における危険な問いをここでも発することは全く要を得たものと思われる。
――この新しい遺伝子操作に本来備わった力は、適正な力の行使であろうか?
――それは、地球上の生物学的多様性を不安定にし枯渇させないだろうか?_
――それは、未来の世代及び我々の旅の道連れである生き物の選択の自由を守るものか、それとも狭めるものか?
――それは、生命に対する尊厳を促すものか、それともおとしめるものか?
――それは、すべてを考慮した結果、害より益をなすものか?

 バイオテクノロジー革命の主な参加者にとって、
無限の潜在的可能性を有している遺伝子操作が、部分的にせよ、否定されることなぞあり得ない
と思われるかもしれない。
     ↑
 しかし、我々は、高々つい一世代前に、核エネルギーを部分的にせよ放棄することを想像することなぞ、誰も考えつかなかったことを思い出すべきである(なぜなら、何しろ、それはエネルギーへのあくなき欲求を抱えた社会にとって究極の救済であると熱烈に歓迎されたのだから)。

 バイオテクノロジー革命がこれほど騒がれるのは、それは企業がそこから莫大な潜在的な利潤獲得を目指すからである。
 ということは、反面、人々が望む商品・サービスを提供するためである。人々が望まない商品・サービスを提供してもしょうがない。
 だということは、バイオテクノロジー革命の未来は、この商品・サービスを購入する我々消費者自身の意思・動機にかかっている。
 つまり、我々消費者自身の期待、欲望、精神的態度、価値観がバイオテクノロジー革命の未来を規定する。
 それを正しく行使するためには、バイオテクノロジー革命を正しく認識しなければならない。

 その永続的な啓蒙と実践の中で、バイオテクノロジー革命の未来が決定される。

 未来は我々消費者の手にかかっている。

2018年1月4日木曜日

リスク評価を、世界や物事を判断するとき、①真(認識的)、②善(道徳的)、③美(美的、快か不快か)という異なる独自の3つの次元の判断を持つという構造の中に置くべきである(2018.1.4)

1、リスク評価の文献はちんぷんかんぷんである。

リスク評価論の勉強を始めた当初、文献を読み漁ったが、正直、 ちんぷんかんぷんだった。むしろ人を煙に巻くために存在するのがリスク評価やリスクコミュニケーションではないかとすら思った。
そこで、リスク評価の業界から一度、外に出て、このちんぷんかんぷんの世界を外から眺める必要があった。

そこで出くわしたのが、混迷する芸術裁判「チャタレー夫人の恋人」事件「悪徳の栄え」事件をめぐるわいせつ論争であり、その混迷にピリオドを打った柄谷行人の真善美に関する考察だった。

詳細は別で論ずるとして、この芸術裁判が混迷した原因は、リベラル裁判官たちが、表現の自由を最大限保障しようとする余り、《この作品は素晴らしい芸術的価値がある。だから、これを「猥褻」として処罰するのはおかしい》と考えてしまったことにある。その結果、彼らは知らずして、芸術を法・倫理の上に置こうとする芸術至上主義者になってしまった。だが、目的(芸術)は手段(法・倫理)を正当化し得るだろうか。そんなことはない。むろん芸術は最大限尊重されなければならないが、だからといって、芸術だけが他と異なり、法・倫理から超越して存在する訳ではないからである。しかし、だからといって、全ては法・倫理的判断で決まるとする上記事件の検察官の考え方も、さっきとは反対に法・倫理を芸術の上に置こうとする法律至上主義であり、同様に過っている。芸術至上主義でもなく、法律至上主義でもない「解き方」を私たちは見つけ出す必要がある。

世の中には「解き方」を間違えたために、どうしても解けない問題がある。数学史の有名な出来事として5次方程式の解法。 
+2x+3x+4x+5x+6=0
このような5次以上の方程式は加減乗除の方法で解くことが(一般には)できないことは1824年、アーベルの手で初めて証明されたが、それまで数百年にわたって、これを加減乗除の方法で解けると信じた者たちにより空しい努力が積み重ねられてきた。数学者たちの迷妄の歴史をここで想起しておくことは価値あることである。

2、リスク評価という判断の構造について

ここでの問題は、リスク評価の問題にとどまらず、そもそも我々が世界や物事を判断するとき、一体どのような判断の構造をしているのか、である。
この点について、現在までのところ最も有益な知見を与えてくれたのが柄谷行人の「トランスクリティーク」「倫理21」だった。柄谷行人によれば、カントの考えでは、

(1)、 我々が世界や物事を判断するとき、①真(認識的)、②善(道徳的)、③美(美的、快か不快か)という異なる独自の3つの次元の判断を持っている。
(2)、この3つの次元の判断はおのおの他の次元の判断から独立して存在している。それゆえ、或る次元の判断を他の次元の判断をもって省略、代用、置き換えることはできない。
(3)、 しかし、科学認識、道徳性、芸術性という3つの領域はそれ自体で存在するものではなく、また主観的なものでもなく、それらは、他の次元の判断を括弧に入れること(超越論的還元)によって初めて成立するものである。
(4)、したがって, この3つの次元の判断は渾然と混じり合っていて、日常生活でもその区別は明確に自覚されているわけではない。
(5)、そのため、本来、或る次元の判断が求められるときに、誤って別の次元の判断でこと足れりとしてしまうことが往々にして起きる。
(6)、 これらの3つの次元の判断をきちんと区別し、それらを自覚的に行なうためには、それ相当の文化的訓練が必要である。
(7)、以上から、この文化的訓練が、科学裁判や科学裁判においてのみならず、リスク評価においても必要不可欠である。

以上の(1)~(7)について、順番に解説する。

(1)、 我々が世界や物事を判断するとき、①真(認識的)、②善(道徳的)、③美(美的、快か不快か)という異なる独自の3つの次元の判断を持っている。

 私たちは、世界や物事を眺め、判断をするとき、一挙に全ての判断ができるわけではなく、特定の関心を抱いて、世界や物事を眺めたとき初めて、世界や物事を判断することができる。より正確に言えば、特定の関心を抱き、それ以外の関心を括弧に入れて、世界や物事を眺めたとき初めて、その関心について判断することができる。
その関心とは、主要なものが ①真(認識的)、②善(道徳的)、③美(美的、快か不快か)という3つの関心である。
このことをカントは芸術論でやった。彼は、芸術を芸術たらしめるものは何か?と問い、その答えを、人が美的関心を抱き、なおかつそれ以外の関心(認識的関心、道徳的関心)を括弧に入れて物事を眺めたとき、その物が芸術品として現われると言った。例えば、デュシャンが「泉」と題して便器を美術展に展示したとき、彼はカントの「芸術を芸術たらしめるものは何か?」を改めて問うたのだ(柄谷行人「トランスクリティーク」172頁)。

 25年前、「オウム真理教」がマスコミに登場した頃、彼らに対する評価は分裂したが、それは彼らを①「さっそうと出家してスタイルもカッコいい」といった美的に見るか、②その宗教的な教義や実践がいかなるものかという倫理的に見るか、③そのスタイルや宗教的教義にもかかわらず、実際にやっていることはインチキであり、犯罪ではないかという認識のレベルで見るかという違いに由来した。つまり、もともと我々の判断に美的、倫理的、認識的の3つの異なる次元の判断があることに由来するものだった。

(2)、この3つの次元の判断はおのおの他の次元の判断から独立して存在している。それゆえ、或る次元の判断を他の次元の判断をもって省略、代用、置き換えることはできない。

 映画や小説ではよく美形の犯罪者やヤクザが主人公として登場するが、それらに夢中になる観客は、鑑賞の間、倫理的判断とは別に、美的判断で鑑賞しているからである。だからといって、その観客が普段、犯罪者やヤクザに好意を抱いている訳ではない。彼らは、無意識のうちに、映画館の中と日常とで次元のちがう判断を行使している。
 それゆえ、映画館で美形の犯罪者やヤクザに夢中になったからといって、その観客を倫理がもとるとは誰も非難しない。美的判断と倫理的判断とは元来別の判断であり、両者を混同すべきでないのだから。

(3)、 しかし、科学認識、道徳性、芸術性という3つの領域はそれ自体で存在するものではなく、また主観的なものでもなく、それらは、他の次元の判断を括弧に入れること(超越論的還元)によって初めて成立するものである。

この点、柄谷行人は、カントの美学を取り上げて、次のように言った。
《カントは、認識を認識たらしめるものは何かと、その根拠を問うたように、芸術を芸術たらしめるものは何かと、その根拠を問うた。ある物が芸術作品であるかどうかは、その物に対して美的関心以外の関心を括弧に入れることによってのみ決まる。その物が自然物であろうと、機械的複製品であろうと、日常的使用物であろうと関係ない。その物に対して、美的関心以外の関心を括弧に入れて眺めるということ、そのような態度変更がその物を芸術作品たらしめるのだ。この意味で、カントの美学が主観的だというのは正しい。ただし、それは美的関心以外の関心を括弧に入れるという「意志」なのだ。例えば、デュシャンが「泉」と題して便器を美術展に展示したとき、彼はカントの「芸術を芸術たらしめるものは何か?」を改めて問うたのだ。》(柄谷行人「トランスクリティーク」172頁)

そして、この「特定の関心を抱いて物事を眺め、それ以外の関心を格好に入れる」という構造は美的判断に限らない。科学認識でも、道徳的判断でも同様である。


(4)、したがって, この3つの次元の判断は渾然と混じり合っていて、日常生活でもその区別は明確に自覚されているわけではない。

 例えば、19世紀のフランスで、W. シェークスピアの「オセロ」を上演した際、悪役イアーゴの女房殺しの場面に憤激した観客が俳優を射殺した事件が発生したが、この悲劇は美的判断と倫理的判断とを区別できなかったためである。しかし、簡単にこの観客を笑うことはできない。我々もまた、例えば人を愛するとき、その理由は相手に②善(道徳的)の次元で人間的魅力があるからか、それとも③美(美的)の次元で美的、性的魅力があるからか、さらには両方ともあるからか、愛する本人にもよく分かっていないことが多いように、その区別は必ずしも容易ではないからである。

(5)、そのため、本来、或る次元の判断が求められるときに、誤って別の次元の判断でこと足れりとしてしまうことが往々にして起きる。

 かつて、日本で最も自由な教育を行なうと宣言し、斬新な芸術教育で注目を集めた自由の森学園で、その後、悪質ないじめや校内暴力が発生し、大量の学生の退学処分の発動を余儀なくされたとき、みずから設立理念を否定するような処置の発動に学校関係者はこぞって途方に暮れたが、その学校を訪れた柄谷行人はこう言った――いくら自由と自立を尊重するという理想的な教育をしても、いじめや暴力は決してなくならない。もともとそれは人間の攻撃性に由来するものだからです。そこで必要なのは、芸術(音楽、美術、文学)ではなく、むしろ人間の攻撃性を科学的に解明しようとしたS. フロイトです)。いじめや暴力に対してまず必要なのは、美的判断でも倫理的判断でもなくて、科学的判断(認識)だからです、と。

(6)、 これらの3つの次元の判断をきちんと区別し、それらを自覚的に行なうためには、それ相当の文化的訓練が必要である。

 フランスの美術家デュシャンが「泉」と題して便器を美術展に提示したとき、多くの者たちは眉をひそめ、狼狽したという。

 マルセル・デュシャン「泉」(1917年)

しかし、デュシャンは単に《芸術を芸術たらしめるものが何であるかをあらためて問うた》(柄谷行人)だけである。つまり、便器という対象に対し、認識的(①真)と倫理的(②善)関心を括弧に入れて見るという芸術本来の判断を求めたにすぎない。しかし、このことを理解するには、それ相当の文化的訓練が要る。
その意味で、もともと科学者もまた、こうした文化的訓練を積んだ者のことである。近代科学は、ガリレオに見られるように、研究の対象を、②善(道徳的、宗教的)的と③美(美的、快か不快か)的関心を括弧に入れて認識することにおいて成立したものだからである。この点で、医者も同様である――産婦人科医は、妊婦を美的或いは性的に見ることを括弧に入れる訓練を積んでいる。しかし、この訓練がきちんとできていないと、ときとして悲劇が発生する。例えば、外科医は、手術のとき、患者をたんなる手術の対象物として突き離して見る訓練を積んでいるが、身内が患者のような場合には、時として「相手が手術で苦しむのではないか」といった人間的感情を拭い去ることができず、メスの操作が狂うことがあるという。他方、未熟な外科医は、手術が終わったあとでは患者を生きた人間として見るべきなのに、依然、相手を物のように突き放してしか見られない。

(7)、以上から、この判断の構造と文化的訓練が、芸術裁判や科学裁判においてのみならず、リスク評価においても必要不可欠である。

芸術裁判や科学裁判の判断も、以上の判断の構造を踏まえるべきである。
とはいっても、ここでは次の特質があることに注意する必要がある。
②善(法的判断)が問われる芸術裁判や科学裁判においては、①真(認識的判断)や③美(美的判断)を基礎とし、それに基づいて、善独自の判断を行なうという関係になっている。いわば、善(法的判断)の判断の全体は、第一次的に①真(認識的判断)や③美(美的判断)を行ない、これを受けて、その次に②善(法的判断)を行なうという二段(二階)構造になっている。

リスク評価も科学裁判と同様に考えるべきである。それは①真(認識的判断)を基礎とし、それに基づいて、②善独自の判断を行なうという関係、つまり善(政策的判断)の判断の全体は、第一次的に①真(認識的判断)を行ない、これを受けて、その次に②善(政策的判断)を行なうという二段(二階)構造になっている。なぜなら、リスク評価も「不確実な事態」に対して科学的な判断を下すことが不可欠ではあるものの、最終的には、その問題に対して政策的な判断を下さざるを得ないからである。

3、リスク評価を、一方で科学的判断を下すリスク評価と政策的判断を下すリスク評価に、他方で共同体の中で通用するリスク評価と共同体を超えて通用するリスク評価に区別して呼ぶ

以上の意味で、リスク評価という言葉は次の2つの意味で使われている。1つは、リスクについて科学的な判断を下す場合(①真〔認識的判断〕)と、もう1つは、その科学的判断を踏まえて政策的な判断を下す場合(②善〔政策的判断〕)である。
実はもう1つ、二種類のリスク評価が存在する。それは、共同体の中で通用しているリスク評価と、共同体を超えた場所でも通用する普遍性を備えたリスク評価である。
キルケゴールは、宗教を共同体の中の宗教と共同体を超えた普遍性を備えた宗教に区別するため、前者を宗教A、後者を宗教Bと呼んだのを参考にして、リスク評価も、この2通りの場合分けに基づいて4つのリスク評価があることを区別するため、以下のように呼ぶことにする。



君は安全神話に関心がないかも知れないが、安全神話は君に関心がある(その3)

目次
6、リスク評価が最も問題になるのは、科学の探求を尽くしてもなお、その危険性について確実な認識が得られなかったとき、つまり科学の力が尽きたところで「不確実な事態」をどう評価したらいいかという判断が問われる時である。だから、それは科学の問題というより、科学の限界の問題にほかならない。
、安全神話とは「危険性を示すデータが検出されていない限り安全である」とする誤謬のことである。

6、リスク評価が最も問題になるのは、科学の探求を尽くしてもなお、その危険性について確実な認識が得られなかったとき、つまり科学の力が尽きたところで「不確実な事態」をどう評価したらいいかという判断が問われる時である。だから、それは科学の問題というより、科学の限界の問題にほかならない。

そもそもリスク評価が最も問題となるのは、測定値が科学的に正しいかどうかといったことではなく、むしろ、そうした科学の探求を尽くしてみたが、それでもなお或る現象の危険性について確実な判断が得られないときである。つまり、科学の力が尽きたところで、初めて、ではこの「不確実な事態」をどう評価するのだ?という判断が問われる時である。この意味で、リスク評価とは科学の問題ではなく、科学の限界の問題である。言い換えれば、リスク評価とは、科学的に「解くことができない」にもかかわらず「解かねばならない」、この2つの要求を同時に満たす解を見つけ出すというアンチノミー(二律背反)の問題である。
そうだとしたら、このアンチノミーをどうして科学的判断=真(認識)だけで解くことができるだろうか。科学の限界の問題を科学で解こうとすることほど非科学的なことはない。

、安全神話とは「危険性を示すデータが検出されていない限り安全である」とする誤謬のことである。

リスク評価で、安全性を主張する人たちが好んで持ち出すお馴染みの論法がある。それが次の論法である。
今までのところ危険性を示すデータは検出されていない。だから安全と考えてよい

この論法を、私は、2005年、日本で最初の遺伝子組み換えイネ野外実験をめぐる実験差止裁判の中で論争となったリスク評価の問題 散々聞かされてきた、例えば次のように。

(1)、遺伝子組み換えイネ野外実験によるリスクの1つ、カラシナ・ディフェンシン耐性菌が出現する可能性について
 「実際、耐性菌の出現についての報告もない」(被告)
 「何か起きるのであれば、既にカラシナ畑で起こっている」(被告)

(2)、リスクの1つ、周辺の非組換えイネとの交雑防止のための隔離距離について
 「これまでの知見では、交雑の生じた最長距離は25.5メートルである」(被告)

 同様に、食品安全委員会もこの論法を愛用してきた。
 ②.体細胞クローン牛技術のリスク評価書(2009年6月)
体細胞クローン牛や豚、それらの後代(子供)の肉や乳について、栄養成分、小核試験、ラット及びマウスにおける亜急性・慢性毒性試験、アレルギー誘発性等について、従来の繁殖技術による食品と比較したところ、安全上、問題となる差異は認められていません」(食品安全委員会Q&AのQ)。

以上はすべて、危険性を示すデータが検出されないことを理由に安全性を導き出す根拠にしている。しかし、検出されないことが果して安全性を導き出す合理的根拠になり得るだろうか。
結論として、それは合理的根拠になり得ない。なぜなら、この場合、論理的には「危険性を示すデータが検出されない」→「危険性があると結論づけることはできない」であって、それ以上でもそれ以下でもない。従って危険性がない結論づけることできない。つまり、白も黒とも結論付けられない、灰色の状態だからである。

さらに、翻って思うに、
そもそも近代科学において「データ」とはどうやって検出されるものなのだろうか。実はデータは見つかるものではなく、我々が見出すものである、それもしばしば、ベーコンの指摘の通り、自然を拷問にかけて自白させるやり方によって見つけ出すものだ。
例えば、もしアインシュタインの一般相対性理論がなかったら、皆既日食で、太陽の近傍を通る星の光の曲がり方を示すデータは決して検出されることはなかったろう。むしろ、このデータは一般相対性理論によって初めて存在するに至ったのである(その詳細はH.コリンズほか「七つの科学事件ファイル」104頁以下参照)。また、10-21~10-23秒しか寿命がない素粒子の存在を証明するデータが自然に見つかることは凡そあり得ない。つまり、一般相対性理論や素粒子の科学的な仮説が先行し、なおかつその検証のために必要な実験装置が考案されて初めて、これらのデータが存在するに至るのである。
 これが科学の問題である。そうだとすれば、科学の問題ではなく、
科学の限界の問題であるリスク評価において、科学の限界のために、いかなる具体的な危険な事態が出現するかを予見できず、その具体的な危険性を検証するための実験装置も考案できない状況下で、その危険性を示すデータが存在するに至ることなど(危険な事態が現実化した場合以外に)凡そあり得ない。
 
 これに対し、危険性を示すデータが検出されないことを安全性を導き出す根拠としてよいと説明するため使われるロジックが、

問題の新技術は「従来技術の延長=実質的に同等にすぎない」から、或いは体細胞クローン技術は「(安全性が取り沙汰されている)遺伝子組換え技術は全く別物」だから、
といったものである。
しかし、そもそも「従来技術の延長にすぎない」かどうかはリスク評価をしてみて初めて判明する結果である。それをリスク評価のための材料にするのは本末転倒である。また、従来技術の「延長=実質的に同等」かどうかは真(認識)の次元ではなく、価値判断の次元の事柄である。それを科学的検討を行なうと称する場で実施することは次元を踏み越えた越権行為というほかない。
また、体細胞クローン技術について、DNAを組み込まれる立場(ここでは卵子)からすれば、一部のDNAを組み込まれるか(遺伝子組換え技術)、それとも核全部のDNAを組み込まれるか(体細胞クローン技術)という違いでしかない。丸ごとDNAを組み込むから、一部だけのDNAを組み込む遺伝子組換え技術とちがって安全だという科学的根拠はどこにもない。

君は安全神話に関心がないかも知れないが、安全神話は君に関心がある(その2)

 目次
4、風評どうかはリスク評価の問題である。
5、リスク評価の現実は、政治の問題であり、広告の問題である。


4、風評どうかはリスク評価の問題である。

 風評とは「根拠のない噂」であるから、風評か否かとは、科学的な根拠があるか否かという問題である。ここでは、放射能が原因となって健康にどのような悪影響を及ぼすか、が問題となっている。だから、これはリスク評価場面つjまり「放射能のリスク評価」の問題である。
すなわち、放射能による健康被害について、何が「根拠のない噂」=風評なのかを明らかにするとは、「放射能のリスク評価」を検討するということにほかならない。

 食品安全委員会の定義では、食品の健康に及ぼすリスク評価とは、人が食品中に含まれる添加物、農薬、微生物等のハザード(危害要因)を摂取することによって、どのくらいの確率でどの程度の健康への悪影響が起きるかを科学的に評価すること(食品安全基本法11条でいう食品健康影響評価のこと)。これによると、「放射能のリスク評価」とは、人が環境中の放射能を外部被ばくおよび内部被ばくすることにより、どのくらいの確率でどの程度の健康への悪影響が起きるかを科学的に評価することである。

そして、(その1)の前書きで述べた通り、安全神話とはリスク評価の別名であるから、従って、風評も安全神話もリスク評価の別名のことである。


5、リスク評価の現実は、政治の問題であり、広告の問題である。
  
とはいえ、「放射能のリスク評価」のためには、リスク評価の総論(基本原理)と各論(放射能)の両方の検討が必要である。ここでは、さしあたり総論だけを取り上げる。
リスク評価の総論についても、リスク評価の本来のあるべき姿と現実の姿という2つの問題がある。
リスク評価の本来の姿とは、一言で言って、食品の場合なら、食品中に含まれる添加物、農薬、微生物等のハザード(危害要因)によってどのような健康被害をもたらすかを科学的に評価することである。それは真理の世界の問題であり、倫理・規範・政策の世界の問題ではない。つまり、真理の世界の問題に、倫理や規範や政治が口をはさむことはできない。 たとえオウム真理教の信者がいくらけしからんといっても、裁判所 信者がやっていない犯罪(真か偽かという問題)とやったと認定して処罰できないのと同じことである。

 しかし、リスク評価の現実はこの本来の姿=科学的認識とはちがっている。それは政治の問題である。500年前、マキヴェベリ君主論で、君主は聖人である必要はないが、そう見える必要があると言っている。これと同じく、「リスク評価」もまた科学に基づく必要がないが、そう見える必要がある。この意味で、リスク評価の現実は科学をまとった政治の問題である。
もっと言えば、マキヴェベリの君主論が、いかにして大衆の指示を獲得するかという「広告」の問題であるのと同様、「リスク評価」もまた、いかにして大衆の指示を獲得するかという「広告」の問題である。リスク評価やリスクコミュニケーションの舞台裏が広告代理店の活躍の場であることは今や子どもでも知っている。

リスク評価の現実が政治の問題であることを赤裸々に明かしたのが、2005年12月、狂牛病に端を発して2年前から輸入停止中の米国牛の輸入再開をめぐる食品安全委員会の答申、正確には食品安全委員会中に設置されたプリオン専門調査会がおこなった、米国牛の狂牛病に関するリスク評価だった。このリスク評価をめぐり、同調査会の座長代理(東京医大教授)が「国内対策の見直しを利用された責任を痛感している」と述べ専門委員の辞意表明の事態をはじめとして、奇奇怪怪な事態が続発したからである()(そのレポート->「BSE審議の座長代理が辞意表明 食安委に疑問」 「政府姿勢に異論のプリオン専門委員に厚労省が圧力、食安委本会議委員が指図」という記事)。


)プリオン調査会、半数の委員が辞任/揺らぐ食の番人の信頼性
米国産牛肉の輸入再開をめぐる安全性評価を担ってきた内閣府の食品安全委員会プリオン専門調査会で、十二人の委員のうち半数が四月の改選で一気に辞める異例の事態が起きた。消費者団体などから慎重派とみられていた六人の辞任で、食の番人である同委員会が掲げる「公正中立」の立場が大きく揺らいでいる。」東奥日報 (2006年4月12日)

 
このとき、一連のドタバタ劇場を目の当たりにした一般市民は、一方で、事実の科学的認識を職務とする科学者が政治的決定を行う役回りを演じ、他方で、政治的決定を行うことを職務とする政治家・官僚が(自身の政治的決定に有利な)事実の科学的認識を行う役回りを演じ、至るところで越権行為がまかり通っている現実を痛感した。

しかし、この時の食品安全委員会の反省とは、二度と、こうした内部告発を伴う委員の辞意表明を出さないこと(臭いものに徹底してふたをすること)であり、「科学的認識と政治的決定の間の越権行為」にまみれたリスク評価を、本来のあるべき姿に戻すということ(臭いものを元からただすこと)ではなかった。

この食品安全委員会の反省を忖度し、立派に踏襲しているのが今日の原子力規制委員会をはじめとする、原子力、遺伝子組み換え技術等に関する政府の専門委員会である

当然ながら、今回の復興大臣の指示も、この食品安全委員会の反省を忖度し、踏襲しており、彼らにとって、風評の定義=リスク評価は政治問題、広告問題である。しかし、リスク評価の本来の姿である科学的認識から言わせると、リスク評価を(正確に言うと、科学的認識を経ないで)政治の問題、広告の問題にすることこそ、最も根拠のない議論であり、これこそ風評にほかならない。この意味で、復興庁こそ根拠のない議論=風評を流している。は、リスク評価の本来の姿に立ち返って、科学的認識に基づかない今回の復興大臣の指示を「風評払拭」の第1号として公表し、自ら襟をただすべきである。

君は安全神話に関心がないかも知れないが、安全神話は君に関心がある(その1)

目次
1、はじめに--人々の目をふさぐ張本人が「人々を無知から救う」という--
2、君は安全神話に関心がないかも知れないが、安全神話は君に関心がある。――原発事故の時にそれが分かる。
3、二重の基準でくり返される「風評払拭」キャンペーン


1、はじめに-人々の目をふさぐ張本人が「人々を無知から救う」という-


ドキュメンタリ-「チョムスキーとメディア」は、イギリスの詩人ジョン・ミルトンの約400年前の次の言葉で始まる。



 「放射能による健康被害の危険性」を論じるここでは、少し言い換えて、次の言葉から始める。

人々の目をふさぐ張本人が「人々を無知から救う」という。
ここでの問いは、私たちの置かれている状況はミルトンの約400年前の言葉と変わらないのではないか、です。


2、君は安全神話に関心がないかも知れないが、安全神話は君に関心がある。――原発事故の時にそれが分かる。


福島原発事故がそうだった。
福島原発事故で安全神話が崩壊したと言われるが、正確には福島原発事故で崩壊したのはコインの表、原発自体の安全性に関する神話が崩壊しただけだった。 もう一方のコインの裏は崩壊しなかった。それが放射能による健康被害に関する神話だった。

しかし、実はこちらの安全神話も崩壊の危機にあった。この時、危機を救ったのが山下俊一長崎大学教授である。彼は、東電の社長が事故直後に本社に戻るため自衛隊のヘリコプターに搭乗しようとして拒否された時でも、自衛隊のヘリコプターに堂々と乗って長崎から福島まで行った人物、安全神話を死守するために使わされた特使だった。そのあと、期待通り、

「放射線の影響は、実はニコニコ笑ってる人には来ません。クヨクヨしてる人に来ます。」
「皆さん、マスク止めましょう。」
「『いま、いわき市で外で遊んでいいですか』『どんどん遊んでいい』と答えました。」
                         (子ども脱被ばく裁判 原告準備書面(7)33頁以下より)

にはじまる、聞いたこともないような奇想天外な安全神話創設に向けた有名な発言、「根拠のない噂」=風評が連日、連発された。しかし、不安の中にいた福島の人たちは専門家と称するこの人物の安全・安心の言葉にすがり、放射能に対する警戒心を解いてしまった。

原発事故が発生すると、頼みもしないのに安全神話のほうからヘリに乗って君たちのところにやって来て、安全だ、安心だと耳元でささやき続ける。安全神話は君たちが勝手な真似をしないようにそれくらい君たちに関心がある。


3、二重の基準でくり返される「風評払拭」キャンペーン

 漫画「美味しんぼ」では風評払拭にあれほど情熱を注いだ日本政府は、事故直後の山下俊一氏の「根拠のない噂」=風評に対し、自衛隊機に彼を乗せてやっても、注意を喚起するようなコメントは一言も発せず、貝のように固く押し黙り、これを追認した。

 それどころか、 勇猛果敢にして荒唐無稽な山下発言による安全神話死守の成果に自信を得た日本政府が次にやったことは、一連の山下発言をモノサシにして、放射能(とりわけ内部被ばく)が健康被害にもたらす悪影響を懸念する見解を評価し、これを「根拠のない噂」=風評として抑圧・排除することだった。その著名なケースが、2014年5月、日本政府の閣僚と福島の自治体が一丸となって、目を見張るばかりの同時多発連携プレーをやってのけた漫画「美味しんぼ」の言論抑圧事件である。


「美味しんぼ」言論抑圧事件に対する私の見解は「自らは説明責任を果さず、少数意見の表現者には「断固容認でき」ないと抗議声明を出す福島県の言論抑圧に抗議する(2014.5.13) 」

 このとき、日本政府が取り組むべき最大の問題は次のことであった--放射能(とりわけ内部被ばく)が健康被害にもたらす影響はどのようなものであるか、もし影響の有無が科学的に解明されないとしたらつまり灰色の場合、いかなる対策を採るべきであるか、という論点を徹底的に解明することだった。その問題が解明されて、初めて何が「根拠のない噂」=風評なのかも明らかにされる。

 しかし、この時、日本政府はこの肝心の問題を何一つ解明せず、その結果、何が風評なのかもひとつも定義しないまま、うやむやのうちに、言論抑圧にそれなりの成果をあげた閣僚たちや福島の自治体はその後一丸となって、ズルズルベッタリと貝のように押し黙ってしまった。

  ところが、先頃、何も定義されないこの風評が再び登場した。2017年12月12日、日本政府は、復興の名のもとに、「風評払拭」を掲げる復興大臣の指示を出した。しかし、3年前「美味しんぼ」で日本政府は、何が「根拠のない噂」=風評なのか、それを定義するのを逃げた。逃亡して、何が「根拠のない噂」=風評なのか、科学的な説明ができないような日本政府に、「風評払拭」を口にする資格はない。「美味しんぼ」のときのように、閣僚たちが「風評払拭」を口にして放射能(とりわけ内部被ばく)が健康被害にもたらす影響を論じた表現の自由、学問の自由に介入することこそ、権力者による「根拠のない噂」=風評であり、やってはいけない人権侵害のお手本である。

本来の「風評払拭」は、何よりもまず「風評払拭」を口にする日本政府に向けられるべきである。

  にもかかわらず、日本政府は、どうしても「風評払拭」を口にしたいのであれば、 まず、何が「根拠のない噂」=風評なのか、科学的な説明に基づいて定義してから口にすべきである。なぜそんな単純なことを実行できないのか。

 その理由は、もし風評について科学的に明確な定義を下したら、山下発言に象徴される、日本政府がこれまで黙認してきたもろもろの「根拠のない噂」=風評にも手を下さざるを得なくなるからである。日本政府は、自分たちにとって不都合な見解・表現は「根拠のない噂」=風評として抑圧したいが、都合のいい見解・表現は黙認し、支援するという二重の基準(ダブルスタンダード)()を採用しているからである。


)二重の基準(ダブルスタンダード)をくり返し取り上げるのは米国の外交政策を一貫して批判するノーム・チョムスキーである。二重の基準が米国の外交政策の基本原理だからである。
アメリカの犯罪行為はどんなにひどかろうが、米国にとって存在しない。しかし、他国の犯罪行為は言語同断だ、と。

これは福音書が定義した偽善者のことである。なぜなら、偽善者とは「他の人に当てる物差しを自分にもあてることを拒否する者」と定義しているから、と。

 そこで、以下、風評について、科学的に明確な定義の解明を実行しようとせず、風評について二重の基準を採用している日本政府に代わって、 何が「根拠のない噂」=風評なのか、科学的な説明にチャレンジしてみる。
 これから論じるのは、例えば次のことである。


安全神話とは「危険性を示すデータが検出されていない限り安全である」とする誤謬のことである。

風評かどうかはリスク評価の問題である。


リスク評価の現実は、政治の問題であり、広告の問題である。


リスク評価が最も問題になるのは、科学の探求を尽くしてもなお、その危険性について確実な認識が得られなかったとき、つまり科学の力が尽きたところで「不確実な事態」をどう評価したらいいかという判断が問われる時である。だから、それは科学の問題というより、科学の限界の問題にほかならない。


科学の力が尽きたところで「不確実な事態」をどう評価したらいいかという判断で登場する最大の判断基準の1つが予防原則である。


なぜ、予防原則は世の識者から目の敵にされ、黙殺されるのか。それは彼らにとって不都合な事態を引き起こすから。