1、リスク評価の文献はちんぷんかんぷんである。
リスク評価論の勉強を始めた当初、文献を読み漁ったが、正直、 ちんぷんかんぷんだった。むしろ人を煙に巻くために存在するのがリスク評価やリスクコミュニケーションではないかとすら思った。
そこで、リスク評価の業界から一度、外に出て、このちんぷんかんぷんの世界を外から眺める必要があった。
そこで出くわしたのが、混迷する芸術裁判「
チャタレー夫人の恋人」事件、
「悪徳の栄え」事件をめぐるわいせつ論争であり、その混迷にピリオドを打った
柄谷行人の真善美に関する考察だった。
詳細は別で論ずるとして、この芸術裁判が混迷した原因は、リベラル裁判官たちが、表現の自由を最大限保障しようとする余り、《
この作品は素晴らしい芸術的価値がある。だから、これを「猥褻」として処罰するのはおかしい》と考えてしまったことにある。その結果、彼らは知らずして、芸術を法・倫理の上に置こうとする芸術至上主義者になってしまった。だが、目的(芸術)は手段(法・倫理)を正当化し得るだろうか。そんなことはない。むろん芸術は最大限尊重されなければならないが、だからといって、芸術だけが他と異なり、法・倫理から超越して存在する訳ではないからである。しかし、だからといって、全ては法・倫理的判断で決まるとする上記事件の検察官の考え方も、さっきとは反対に法・倫理を芸術の上に置こうとする法律至上主義であり、同様に過っている。芸術至上主義でもなく、法律至上主義でもない「解き方」を私たちは見つけ出す必要がある。
世の中には「解き方」を間違えたために、どうしても解けない問題がある。数学史の有名な出来事として5次方程式の解法。
x
5+2x
4+3x
3+4x
2+5x+6=0
このような5次以上の方程式は加減乗除の方法で解くことが(一般には)できないことは1824年、アーベルの手で初めて証明されたが、それまで数百年にわたって、これを加減乗除の方法で解けると信じた者たちにより空しい努力が積み重ねられてきた。数学者たちの迷妄の歴史をここで想起しておくことは価値あることである。
2、リスク評価という判断の構造について
ここでの問題は、リスク評価の問題にとどまらず、そもそも我々が世界や物事を判断するとき、一体どのような判断の構造をしているのか、である。
この点について、現在までのところ最も有益な知見を与えてくれたのが柄谷行人の「トランスクリティーク」「倫理21」だった。柄谷行人によれば、カントの考えでは、
(1)、 我々が世界や物事を判断するとき、①真(認識的)、②善(道徳的)、③美(美的、快か不快か)という異なる独自の3つの次元の判断を持っている。
(2)、この3つの次元の判断はおのおの他の次元の判断から独立して存在している。それゆえ、或る次元の判断を他の次元の判断をもって省略、代用、置き換えることはできない。
(3)、 しかし、科学認識、道徳性、芸術性という3つの領域はそれ自体で存在するものではなく、また主観的なものでもなく、それらは、他の次元の判断を括弧に入れること(超越論的還元)によって初めて成立するものである。
(4)、したがって, この3つの次元の判断は渾然と混じり合っていて、日常生活でもその区別は明確に自覚されているわけではない。
(5)、そのため、本来、或る次元の判断が求められるときに、誤って別の次元の判断でこと足れりとしてしまうことが往々にして起きる。
(6)、 これらの3つの次元の判断をきちんと区別し、それらを自覚的に行なうためには、それ相当の文化的訓練が必要である。
(7)、以上から、この文化的訓練が、科学裁判や科学裁判においてのみならず、リスク評価においても必要不可欠である。
以上の(1)~(7)について、順番に解説する。
(1)、 我々が世界や物事を判断するとき、①真(認識的)、②善(道徳的)、③美(美的、快か不快か)という異なる独自の3つの次元の判断を持っている。
私たちは、世界や物事を眺め、判断をするとき、一挙に全ての判断ができるわけではなく、特定の関心を抱いて、世界や物事を眺めたとき初めて、世界や物事を判断することができる。より正確に言えば、特定の関心を抱き、それ以外の関心を括弧に入れて、世界や物事を眺めたとき初めて、その関心について判断することができる。
その関心とは、主要なものが ①真(認識的)、②善(道徳的)、③美(美的、快か不快か)という3つの関心である。
このことをカントは芸術論でやった。彼は、芸術を芸術たらしめるものは何か?と問い、その答えを、人が美的関心を抱き、なおかつそれ以外の関心(認識的関心、道徳的関心)を括弧に入れて物事を眺めたとき、その物が芸術品として現われると言った。例えば、デュシャンが「泉」と題して便器を美術展に展示したとき、彼はカントの「芸術を芸術たらしめるものは何か?」を改めて問うたのだ(柄谷行人「
トランスクリティーク」172頁)。
25年前、「オウム真理教」がマスコミに登場した頃、彼らに対する評価は分裂したが、それは彼らを①「さっそうと出家してスタイルもカッコいい」といった美的に見るか、②その宗教的な教義や実践がいかなるものかという倫理的に見るか、③そのスタイルや宗教的教義にもかかわらず、実際にやっていることはインチキであり、犯罪ではないかという認識のレベルで見るかという違いに由来した。つまり、もともと我々の判断に美的、倫理的、認識的の3つの異なる次元の判断があることに由来するものだった。
(2)、この3つの次元の判断はおのおの他の次元の判断から独立して存在している。それゆえ、或る次元の判断を他の次元の判断をもって省略、代用、置き換えることはできない。
映画や小説ではよく美形の犯罪者やヤクザが主人公として登場するが、それらに夢中になる観客は、鑑賞の間、倫理的判断とは別に、美的判断で鑑賞しているからである。だからといって、その観客が普段、犯罪者やヤクザに好意を抱いている訳ではない。彼らは、無意識のうちに、映画館の中と日常とで次元のちがう判断を行使している。
それゆえ、映画館で美形の犯罪者やヤクザに夢中になったからといって、その観客を倫理がもとるとは誰も非難しない。美的判断と倫理的判断とは元来別の判断であり、両者を混同すべきでないのだから。
(3)、 しかし、科学認識、道徳性、芸術性という3つの領域はそれ自体で存在するものではなく、また主観的なものでもなく、それらは、他の次元の判断を括弧に入れること(超越論的還元)によって初めて成立するものである。
この点、柄谷行人は、カントの美学を取り上げて、次のように言った。
《カントは、認識を認識たらしめるものは何かと、その根拠を問うたように、芸術を芸術たらしめるものは何かと、その根拠を問うた。ある物が芸術作品であるかどうかは、その物に対して美的関心以外の関心を括弧に入れることによってのみ決まる。その物が自然物であろうと、機械的複製品であろうと、日常的使用物であろうと関係ない。その物に対して、美的関心以外の関心を括弧に入れて眺めるということ、そのような態度変更がその物を芸術作品たらしめるのだ。この意味で、カントの美学が主観的だというのは正しい。ただし、それは美的関心以外の関心を括弧に入れるという「意志」なのだ。例えば、デュシャンが「泉」と題して便器を美術展に展示したとき、彼はカントの「芸術を芸術たらしめるものは何か?」を改めて問うたのだ。》(柄谷行人「
トランスクリティーク」172頁)
そして、この「特定の関心を抱いて物事を眺め、それ以外の関心を格好に入れる」という構造は美的判断に限らない。科学認識でも、道徳的判断でも同様である。
(4)、したがって, この3つの次元の判断は渾然と混じり合っていて、日常生活でもその区別は明確に自覚されているわけではない。
例えば、19世紀のフランスで、W. シェークスピアの「オセロ」を上演した際、悪役イアーゴの女房殺しの場面に憤激した観客が俳優を射殺した事件が発生したが、この悲劇は美的判断と倫理的判断とを区別できなかったためである。しかし、簡単にこの観客を笑うことはできない。我々もまた、例えば人を愛するとき、その理由は相手に②善(道徳的)の次元で人間的魅力があるからか、それとも③美(美的)の次元で美的、性的魅力があるからか、さらには両方ともあるからか、愛する本人にもよく分かっていないことが多いように、その区別は必ずしも容易ではないからである。
(5)、そのため、本来、或る次元の判断が求められるときに、誤って別の次元の判断でこと足れりとしてしまうことが往々にして起きる。
かつて、日本で最も自由な教育を行なうと宣言し、斬新な芸術教育で注目を集めた自由の森学園で、その後、悪質ないじめや校内暴力が発生し、大量の学生の退学処分の発動を余儀なくされたとき、みずから設立理念を否定するような処置の発動に学校関係者はこぞって途方に暮れたが、その学校を訪れた柄谷行人はこう言った――いくら自由と自立を尊重するという理想的な教育をしても、いじめや暴力は決してなくならない。もともとそれは人間の攻撃性に由来するものだからです。そこで必要なのは、芸術(音楽、美術、文学)ではなく、むしろ人間の攻撃性を科学的に解明しようとしたS. フロイトです)。いじめや暴力に対してまず必要なのは、美的判断でも倫理的判断でもなくて、科学的判断(認識)だからです、と。
(6)、 これらの3つの次元の判断をきちんと区別し、それらを自覚的に行なうためには、それ相当の文化的訓練が必要である。
フランスの美術家デュシャンが「泉」と題して便器を美術展に提示したとき、多くの者たちは眉をひそめ、狼狽したという。
マルセル・デュシャン「泉」(1917年)
しかし、デュシャンは単に《
芸術を芸術たらしめるものが何であるかをあらためて問うた》(柄谷行人)だけである。つまり、便器という対象に対し、認識的(①真)と倫理的(②善)関心を括弧に入れて見るという芸術本来の判断を求めたにすぎない。しかし、このことを理解するには、それ相当の文化的訓練が要る。
その意味で、もともと科学者もまた、こうした文化的訓練を積んだ者のことである。近代科学は、ガリレオに見られるように、研究の対象を、②善(道徳的、宗教的)的と③美(美的、快か不快か)的関心を括弧に入れて認識することにおいて成立したものだからである。この点で、医者も同様である――産婦人科医は、妊婦を美的或いは性的に見ることを括弧に入れる訓練を積んでいる。しかし、この訓練がきちんとできていないと、ときとして悲劇が発生する。例えば、外科医は、手術のとき、患者をたんなる手術の対象物として突き離して見る訓練を積んでいるが、身内が患者のような場合には、時として「相手が手術で苦しむのではないか」といった人間的感情を拭い去ることができず、メスの操作が狂うことがあるという。他方、未熟な外科医は、手術が終わったあとでは患者を生きた人間として見るべきなのに、依然、相手を物のように突き放してしか見られない。
(7)、以上から、この判断の構造と文化的訓練が、芸術裁判や科学裁判においてのみならず、リスク評価においても必要不可欠である。
芸術裁判や科学裁判の判断も、以上の判断の構造を踏まえるべきである。
とはいっても、ここでは次の特質があることに注意する必要がある。
②善(法的判断)が問われる芸術裁判や科学裁判においては、①真(認識的判断)や③美(美的判断)を基礎とし、それに基づいて、善独自の判断を行なうという関係になっている。いわば、善(法的判断)の判断の全体は、第一次的に①真(認識的判断)や③美(美的判断)を行ない、これを受けて、その次に②善(法的判断)を行なうという二段(二階)構造になっている。
リスク評価も科学裁判と同様に考えるべきである。それは①真(認識的判断)を基礎とし、それに基づいて、②善独自の判断を行なうという関係、つまり善(政策的判断)の判断の全体は、第一次的に①真(認識的判断)を行ない、これを受けて、その次に②善(政策的判断)を行なうという二段(二階)構造になっている。なぜなら、リスク評価も「不確実な事態」に対して科学的な判断を下すことが不可欠ではあるものの、最終的には、その問題に対して政策的な判断を下さざるを得ないからである。
3、リスク評価を、一方で科学的判断を下すリスク評価と政策的判断を下すリスク評価に、他方で共同体の中で通用するリスク評価と共同体を超えて通用するリスク評価に区別して呼ぶ
以上の意味で、リスク評価という言葉は次の2つの意味で使われている。1つは、リスクについて科学的な判断を下す場合(①真〔認識的判断〕)と、もう1つは、その科学的判断を踏まえて政策的な判断を下す場合(②善〔政策的判断〕)である。
実はもう1つ、二種類のリスク評価が存在する。それは、共同体の中で通用しているリスク評価と、共同体を超えた場所でも通用する普遍性を備えたリスク評価である。
キルケゴールは、宗教を共同体の中の宗教と共同体を超えた普遍性を備えた宗教に区別するため、前者を宗教A、後者を宗教Bと呼んだのを参考にして、リスク評価も、この2通りの場合分けに基づいて4つのリスク評価があることを区別するため、以下のように呼ぶことにする。