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6、リスク評価が最も問題になるのは、科学の探求を尽くしてもなお、その危険性について確実な認識が得られなかったとき、つまり科学の力が尽きたところで「不確実な事態」をどう評価したらいいかという判断が問われる時である。だから、それは科学の問題というより、科学の限界の問題にほかならない。
7、安全神話とは「危険性を示すデータが検出されていない限り安全である」とする誤謬のことである。
7、安全神話とは「危険性を示すデータが検出されていない限り安全である」とする誤謬のことである。
6、リスク評価が最も問題になるのは、科学の探求を尽くしてもなお、その危険性について確実な認識が得られなかったとき、つまり科学の力が尽きたところで「不確実な事態」をどう評価したらいいかという判断が問われる時である。だから、それは科学の問題というより、科学の限界の問題にほかならない。
そもそもリスク評価が最も問題となるのは、測定値が科学的に正しいかどうかといったことではなく、むしろ、そうした科学の探求を尽くしてみたが、それでもなお或る現象の危険性について確実な判断が得られないときである。つまり、科学の力が尽きたところで、初めて、ではこの「不確実な事態」をどう評価するのだ?という判断が問われる時である。この意味で、リスク評価とは科学の問題ではなく、科学の限界の問題である。言い換えれば、リスク評価とは、科学的に「解くことができない」にもかかわらず「解かねばならない」、この2つの要求を同時に満たす解を見つけ出すというアンチノミー(二律背反)の問題である。
そうだとしたら、このアンチノミーをどうして科学的判断=真(認識)だけで解くことができるだろうか。科学の限界の問題を科学で解こうとすることほど非科学的なことはない。
7、安全神話とは「危険性を示すデータが検出されていない限り安全である」とする誤謬のことである。
リスク評価で、安全性を主張する人たちが好んで持ち出すお馴染みの論法がある。それが次の論法である。
「今までのところ危険性を示すデータは検出されていない。だから安全と考えてよい」
この論法を、私は、2005年、日本で最初の遺伝子組み換えイネ野外実験をめぐる実験差止裁判の中で論争となったリスク評価の問題で 散々聞かされてきた、例えば次のように。
(1)、遺伝子組み換えイネ野外実験によるリスクの1つ、カラシナ・ディフェンシン耐性菌が出現する可能性について
「実際、耐性菌の出現についての報告もない」(被告)
「何か起きるのであれば、既にカラシナ畑で起こっている」(被告)
(2)、リスクの1つ、周辺の非組換えイネとの交雑防止のための隔離距離について
「これまでの知見では、交雑の生じた最長距離は25.5メートルである」(被告)
「体細胞クローン牛や豚、それらの後代(子供)の肉や乳について、栄養成分、小核試験、ラット及びマウスにおける亜急性・慢性毒性試験、アレルギー誘発性等について、従来の繁殖技術による食品と比較したところ、安全上、問題となる差異は認められていません」(食品安全委員会Q&AのQ5)。
以上はすべて、危険性を示すデータが検出されないことを理由に安全性を導き出す根拠にしている。しかし、検出されないことが果して安全性を導き出す合理的根拠になり得るだろうか。結論として、それは合理的根拠になり得ない。なぜなら、この場合、論理的には「危険性を示すデータが検出されない」→「危険性があると結論づけることはできない」であって、それ以上でもそれ以下でもない。従って、危険性がないと結論づけることもできない。つまり、白とも黒とも結論付けられない、灰色の状態だからである。
さらに、翻って思うに、
そもそも近代科学において「データ」とはどうやって検出されるものなのだろうか。実はデータは見つかるものではなく、我々が見出すものである、それもしばしば、ベーコンの指摘の通り、自然を拷問にかけて自白させるやり方によって見つけ出すものだ。
例えば、もしアインシュタインの一般相対性理論がなかったら、皆既日食で、太陽の近傍を通る星の光の曲がり方を示すデータは決して検出されることはなかったろう。むしろ、このデータは一般相対性理論によって初めて存在するに至ったのである(その詳細はH.コリンズほか「七つの科学事件ファイル」104頁以下参照)。また、10-21~10-23秒しか寿命がない素粒子の存在を証明するデータが自然に見つかることは凡そあり得ない。つまり、一般相対性理論や素粒子の科学的な仮説が先行し、なおかつその検証のために必要な実験装置が考案されて初めて、これらのデータが存在するに至るのである。
これが科学の問題である。そうだとすれば、科学の問題ではなく、科学の限界の問題であるリスク評価において、科学の限界のために、いかなる具体的な危険な事態が出現するかを予見できず、その具体的な危険性を検証するための実験装置も考案できない状況下で、その危険性を示すデータが存在するに至ることなど(危険な事態が現実化した場合以外に)凡そあり得ない。
これに対し、危険性を示すデータが検出されないことを安全性を導き出す根拠としてよいと説明するために使われるロジックが、
問題の新技術は「従来技術の延長=実質的に同等にすぎない」から、或いは体細胞クローン技術は「(安全性が取り沙汰されている)遺伝子組換え技術は全く別物」だから、
といったものである。
しかし、そもそも「従来技術の延長にすぎない」かどうかはリスク評価をしてみて初めて判明する結果である。それをリスク評価のための材料にするのは本末転倒である。また、従来技術の「延長=実質的に同等」かどうかは真(認識)の次元ではなく、価値判断の次元の事柄である。それを科学的検討を行なうと称する場で実施することは次元を踏み越えた越権行為というほかない。
また、体細胞クローン技術について、DNAを組み込まれる立場(ここでは卵子)からすれば、一部のDNAを組み込まれるか(遺伝子組換え技術)、それとも核全部のDNAを組み込まれるか(体細胞クローン技術)という違いでしかない。丸ごとDNAを組み込むから、一部だけのDNAを組み込む遺伝子組換え技術とちがって安全だという科学的根拠はどこにもない。
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