2006年3月10日金曜日

禁断の科学裁判の再定義(2006.3.10)

報 告
~遺伝子組み換え稲屋外実験差し止め訴訟、一審裁判の概要~
法律家 柳原 敏夫
目 次

第1、はじめに――知財の時代とは知罪の時代のことか――
たった今、安田節子さんから、「種の支配」ということについて興味深いお話があったので、私も触発されて、これについて、あれこれ思いをめぐらしていました。

全然話はちがいますが、私は、これまでずうっと著作権だけを専門にやってきた専門バカの手本みたいな法律家です。それで、著作権だけでメシを食おうと思うと、少なくとも日本では、一般市民はむろんのこと、個人のクリエーター、アーティストをクライアント(依頼者)にしてもやっていけないので、企業をクライアントにするしか方法はありませんでした。そこで、ご多分に漏れず、私も当初、企業をクライアントにして著作権の仕事をしてメシを食おうと取り組んできたのですが、それが軌道に乗り出すと、今度は途端に著作権の仕事がつまらなくなりました。理由は簡単です、仕事の大半が、弱肉強食の論理で、弱い個人のクリエーター、アーティストを食い物にするような仕事でしかなかったからです。言ってみれば、モンサントの代理人みたいなものです。こんなもんが面白いはずがない。そこで、私に法律の仕事の面白さを開眼させてくれた映画監督の新藤兼人さんや仕事で知り合った脚本家の中島丈博さんたちに興味を持つようになり、彼らの仕事ぶりを知るにつけ、初めて、日本のインディペンデントといわれる人たちがいかに悲惨な状況に置かれているかを知らされ、そこでは、彼らこそ価値の創造者(=著作物の制作者)であるにも関わらず、自由な契約の名の下に、著作権が問題になる余地すらなく(なぜなら、著作権は企業に帰属するから)、こうした人たちが直面する法律問題とは倒産、自己破産、失踪宣告といったことを初めて知らされました。いわば「橋のない川」の人以前の隷属状態に置かれた彼らの惨状を知って、ここに著作権の真の課題があり、なおかつこの解決は容易ならざる問題であることを思い知らされました。

その解決の方向は、万国のクリエーター、アーティスト、団結せよ!にしかなかったのですが、しかし、それは、従来の労働運動の延長の、単なる経済的条件の改善ではもはや解決になりませんでした。というのは、今や、クリエーター、アーティストたちは、彼ら自身が生み出そうとする価値の中身自身を改めて吟味しなければならない地点にいたからです。この「価値の再吟味」は様々な論点があるでしょうが、そのうち最大の課題として、クリエーター、アーティストたちは、いったいどのような社会システムの中で作品を生み、提供する積りなのかが問われました――つまり、今の「大量生産、大量消費、大量廃棄」のシステムの中で引き続きやっていく積りなのか、それともこのシステムから脱出する積りなのか、という選択です。この選択によって、彼らのライフスタイルが180度変わってくるからです。

私もまた、様々な紆余曲折の中で、「大量生産、大量消費、大量廃棄」のシステムとおさらばしたいと考えるクリエーター、アーティストたちの願い――お金よりは、自分が真に作りたいと願う作品を作り続け、それを真に望むユーザの元にちゃんと送り届けられるシステム、いわばクリエーター本位のコンテンツの産地直送システムを選択したいという彼らの願いを(ささやかながらも)サポートする仕事を自分の著作権の仕事の中に見出すことができるようになりました(もちろん、その取り組みはまだ始まったばかりですが)。

同時に、こうした新しい仕事を発見するにつけて、そのような新しい立場から眺めてみると、改めて、自由競争という美名の下に置かれた著作権業界のあこぎな世界がますますクリアに見えてくるようになりました。

著作権で最も欠けている議論はパブリックという問題です。憲法ですら、29条2項で、「財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。」と、財産権の内容・支配がパブリックな領域に及ぶときには、公共の福祉に適合するようにおのずと制限されることが明確にうたわれています(もちろん、この「財産権」は不動産や動産といった伝統的な有体物の所有権等に限らず、著作権や特許権などの知的財産権、無体財産権も含みます)。にもかかわらず、知的財産権では、海賊版を撲滅せよ!といった権利の完璧な保障のことばかり声高に叫ばれ、知的財産権の公共性(パブリックな性格)のことは一言も話題にされません。

その結果、どういう事態になったかというと、例えば、たかだかOSというパソコンの心臓部分を作っただけの会社が世界一の企業になるという、それまでの産業の常識が通じないようなビックリ仰天の事態が出現したのです。ビル・ゲーツ氏率いるマイクロソフト社です。なぜ、CD-ROM1枚に収まるだけの情報を作っただけの会社が、世界一の企業になることができたのか?それは彼らの作ったウィンドウズというソフトが著作権で守られたからです。しかし、単に著作権で守られたからではありません。それだけでは世界一の企業になれるはずがない。そのためには、彼らの制作したウィンドウズというOSのソフトが、一方で、その果している役割が今や我々の日々の社会生活にとってなくてはならないツールというよりインフラになっており、その意味で、今日の情報化社会において、我々の社会生活の電気、ガス、水道、電話といった有体物のインフラと同じような役割を果していながら、他方で、その極めて高い公共性のことは一言も口にせず、ひたすら、ただの著作物一般と同様な扱い、つまり好きなように作り、好きな値段で、好きなだけこれを売ることができるという自由放任のやり方を貫徹することでした。もともと、コンピュータのソフトは著作物と言われるものですが、しかし、パソコンのOSのソフトはゲームのソフトや映画などとは根本的にちがうのです。人はゲームソフト「ファイナルファンタジー」や宮崎駿さんのアニメ「風の谷のナウシカ」を1日みなく(しなく)てもやっていけるでしょうが、今や、多くの人はOSのソフトを1日でも使わずにはやっていけません。

だから、このような状況を正しく理解した誰かが、もし、
「パソコンのOSって、今では社会生活の電気、ガス、水道、電話といったインフラと同じじゃん。だったら、そのパブリックな性格に相応しい扱い、規制があって当然じゃん」
と問題提起したら、それはきっと多くの人たちの賛同を得られ、その結果、
「パソコンのOSは、今や社会生活の電気、ガス、水道、電話といったインフラと同じ機能を果しており、その極めて高い公共性にかんがみ、パソコンのOSの価格、その売り方についても、制作者が自由に決めることはできない」
という方向に議論がいくと思います。マイクロソフト社はこうした議論を最も恐れた筈です。なぜならこれは真理だからです。しかし、私が知る限り、そうした議論は日本では起きなかった(その最大の原因は、狂牛病問題などで問題の本質をズケズケ指摘した専門家に匹敵するような現代法の専門家・法律家が我が国にはひとりもいなかったからです)。その結果、もっけの幸いで、マイクロソフト社はウィンドウズに好きな値段をつけて好きなだけ売りさばき、ボロ儲けすることができた。言ってみれば、水道水に好きな値段をつけて売りさばくようなものです。これは魔法です。これで世界一の企業になれなかったらそれこそおかしい。

こんな魔法のようなボロ儲けの方法ができる時代のことを巷では「知財の時代」と呼ぶのです。そうだとしたら、こうした手法を真似しない手はありません。つまり、その本質は、決して個人的な財産ではなく、むしろ社会生活の電気、ガス、水道、電話といったインフラと同じ機能を果しているにもかかわらず、その本質を消し去って、それをあたかも個人的な財産と同じようなものとして偽装して、好きな値段をつけ、自由に売りさばくことができるようにするという戦略です。規制緩和という時の政府のうたい文句も、この魔法を下支えしました(日本のビル・ゲーツをめざしたホリエモン君の魔法が失敗したのはその手口がさすがに余りにザルだったからですが)。

今、安田さんの話を聞いていて、この手法をバイオテクノロジーの分野で応用しようとした最たるものが「種の支配」、しかも、人々がそれなくては1日もやっていけない主食の「種の支配」のことではないかと思いました。つまり、主食の種はその本来の性格からして、極めて公共性の高いものであって、それに対する特定の者による独占的な支配は厳しく排斥されなければならない。しかし、バイオテクノロジーのマイクロソフトをめざす企業たちは、きっと、パソコンのOSの成功例にあやかって、我こそは、そのパブリックな性格を消し去って、主食の種に対する独占的な支配を確立し、なおかつ好きな値段をつけ、自由に売りさばくことができるようにしたいと目論んでいる筈です。幸い、今はまだ、規制緩和という下支えもあるし、知的財産権の公共性というヤバイ問題を指摘するような専門家はどこにもいないのだから、今のうちにどんどん推進して、とっととドリームを実現しようぜ、と(市民からみれば、これこそ「わが亡きあとに洪水は来れ」の連中だ)。

ところで、今回の上越の遺伝子組み換えイネの実験を推進する人たちも、知的財産権で守られたそうしたドリームを追い求めているのではないかという疑いは、例えば、彼らのHPにおける以下の実験の紹介文からも拭い去ることができません。
平成15年12月22日
「我が国独自の技術で安心な組換えイネを開発」
【独自に開発した新技術】
‥‥‥‥
3)野菜から取り出した病気に強い遺伝子の詳細北陸研究センターでは、複数のアブラナ科野菜からイネに複合病害抵抗性を付与できる抗菌蛋白質ディフェンシン遺伝子を独自に単離してきました。その中から、カラシナ由来のディフェンシン遺伝子が複合病害抵抗性付与に最も効果の高いことを確認し、本研究に用いています(特許出願公開中:特開2003-88379)。
 従来、イネへの病害抵抗性の付与効果が検証されている遺伝子は限られており、しかもそれには既存特許等の問題が残されていました。

つまり、今回の実験推進の根本的な動機がここに紹介した知財の時代の「魔法のようなボロ儲け」の夢にあるのではないかということです。なぜなら、今日、「知財の時代」で叫ばれているキャッチフレーズは、もっぱらコインの表である「インセンティヴ(励み・動機)を保護する」だけ、つまるところ、「額に汗した者が報われるように知的財産権をきっちり保障しろ!」という保護の貫徹でしかありません。もう一方のコインの裏に書かれている「財産権といえども、そのパブリックな性格に相応しい規制を免れない」という社会的な理念は完全に抜け落ちています。その結果、彼らの頭に「独自に開発した新技術」に相応しい報酬のことしかないとしても不自然でも何でもないからです。彼らに言わせれば、ビル・ゲーツだって、好きな発明をして、好きな値段をつけて、好きなだけ売って、ボロクソ報酬を得たんじゃない。なんで、俺たちがそれをやっていけないのか!と。

さらに、このことは、これまでの裁判の中で、自分たちの実験の安全性について、これを明らかにするデータをちっとも提出しようとしなかった彼らの態度と首尾一貫しています。かれらは、一方で、これは「国家的プロジェクトだ」と声高に叫びながらも、にもかかわらず、この実験のパブリックな性格については恐ろしいほど無自覚でした。それは、彼らが、自分たちの特許(知的財産権)のことを、単純に、これはオレたちのものだ!としか考えておらず、その知的財産権の公共性について何ひとつ思い至っていないという正体をはしなくも如実に明らかにしたものでした。

もっとも、この無自覚を彼らだけのせいにすることはできません。なぜなら、彼らもまた、単に「知財の時代の常識」に従っただけとも言えるからです。では、いったい誰がどんな風にして、普通の市民からみて非常識とも言える「知財の時代の常識」を作り上げてしまったのでしょうか。

憲法のイロハを学ぶ者は、誰でも、近代の人権の歴史として、形式的な人権の保護(自由権)を中心に構成された19世紀の自由国家的人権宣言から、実質的な人権の保護(社会権)を中心に構成された20世紀の社会国家的人権宣言に発展したことを教えられます。それは当然の真理として、あたかも普遍的な歴史の法則のように語られます。しかし、これを単なる歴史の自然法則のようなものと考えることは完全な誤りです。なぜなら、人権の歴史は決して自動的に実質的な人権の保護(社会権)に移行したわけではなく、そこには、それまでの形式的な人権の保護(自由権)の貫徹により生じた様々な矛盾、不幸、災害に対する人々の数知れない異議申立ての声の中で初めて取り上げられ、実現されるに至ったものだからです。実質的な人権の保護(社会権)は自然法則の産物ではなく、まさに市民の異議申立ての声が勝ち取ったものです。

そうだとすれば、情報化社会の幕開けと共に脚光を浴びた知的財産権について、今日までそれが形式的な人権の保護(自由権)の域を出ず、実質的な人権の保護(社会権的な)の面にちっとも光が当たらないとしても不思議でも何でもありません。なぜなら、これまで、市民はもちろんのこと、現代法の専門家でもそのような異議申立ての声をあげた者は誰一人いなかったからです。もともと、人権の歴史は自動的に実質的な人権の保護(=パブリックな性格)の側面に光があたるものでは全くないからです。黙っていたら、暗黒のアフガニスタンみたいに、ずっと形式的な人権の保護(=強者の権利保護)だけがのさばり続けます。

 もともと紛争は人生のリトマス試験紙です。それは、そこに関わるすべての関係者の正体(裁判官すら例外ではない)を情け容赦なく暴き出すからです。その意味で、今回の裁判は、「知財の時代の常識」の上にあぐらをかいている被告のみならず、「知財の時代の常識」自体に対しても、そもそもお前は本当にコモン・センスなのか?が問い直される裁判でもあります。なぜなら、今回の裁判を通じ、これだけ地球という生態系と人類の子孫への脅威の可能性を帯びた実験であることが指摘されたにもかかわらず、もし研究の自由と知的財産権の名の下に、こうした実験が事実上野放しのまま容認されることになるとしたら、「知財」(知的財産)とはまさに「知罪」(=知的犯罪)のことであると言うほかなくなるからです。
 
 世の中には、これまで、形式的な人権の保護(自由権)の横暴に対抗してそれはおかしいと声をあげる法律の専門家(法律研究者、労働弁護士、市民弁護士)が少なからずいました。しかし、少なくとも知的財産権に関していえば、その横暴に異議申立ての声をあげる法律研究者、市民弁護士は日本ではゼロです(今や知的財産権を専門と称する弁護士はごまんといる筈なのに)。これは現代法の暗黒時代というほかありません。2年前、たまたまジェレミー・リフキンの「バイテク・センチュリー」を読み、バイオテクノロジーをこのまま自由放任にしていけば、早晩、必ず、第2のチェルノブイリのような惨憺たる事故が起きるだろう、そのとき、人類は痛切な反省をして、生態系や未来の子孫への配慮という実質的な人権の保護(社会権)に向かうことになるだろう、しかし、果してそのような悲劇を反復しなければダメなのか、それでは遅すぎるのではないか、と感じ、バイオテクノロジーの知的財産権の市民弁護士が誰もいないのなら自分がなるしかないと思いました。そしたら、その翌年、今回の裁判が勃発したのです。私は新藤兼人と同様、神も仏も信じませんが、今回だけは、何か神や光のようなものを眼の前に感じました。だから、新藤兼人を見習って、無謀、無頓着、無思慮の「三無主義者」として行動したのです。
 
その意味で、今回の裁判は、21世紀の日本のみならず世界の方向を決定づけるような、また、私にとっても自分の後半生を決定するような意味を持つものだと感じています。

昨年年4月、独立行政法人 農業・生物系特定産業技術研究機構の北陸センター(上越市)は、突然、そのHPで、同センターの実験農場で、カラシナから取り出したディフェンシン遺伝子[1]をイネに導入して、いもち病や白葉枯病に強い遺伝子組替え(以下、GMと略称)イネの実用化に向けた試験栽培をすることを発表しました。

この事実を知ったGM作物の危険性を危惧する多くのコメ生産者や消費者,流通団体は、この野外実験に反対の意思を表明し,その中止を求め続けてきましたが、同センターは、6月29日にGMイネの2回目の田植えを強行しようとしました。
これまで、GMイネの野外実験は、これに反対する生産者や消費者の意見を受け入れ、中止されてきました。GM作物の予見不可能性[2]から生じる未検証の危険を重視する市民の声を尊重し、反映させたいわばリスクコミュニケーションが図られてきたのです。
ところが、今回は、カラシナ由来のGM技術が彼らの自前の特許ということもあってか、これを不安視する地元農民や消費者の声に全く耳を傾けず、危険な野外実験を強行しようとしたのです。このような,安全を軽視した科学技術万能思考に対して,科学者と市民との本来的なリスクコミュニケーションのあり方を問うべく,やむなく,GMイネの試験栽培の中止の裁判(緊急のため、仮処分申立て)を,実験農場地を管轄する新潟地裁高田支部に起こしました。これがことの発端です。

(1)、当事者
申立人:生産者(上越市の農民)と消費者(現地の米を購入している新潟の生協の組合員)12
相手方:独立行政法人 農業・生物系特定産業技術研究機構
(2)、舞台:同センターの実験農場(「高田圃場」)一画約0.5アールの田
(3)、申立人の要求
第一次的=GMイネの試験栽培を中止すること。
第二次的=試験栽培したGMイネの病原菌への耐性試験(いもち病や白葉枯病の菌の噴霧)を中止すること。
      試験栽培したGMイネをただちに刈り取ること。
(4) その理由
今回のGMイネ野外実験は、GM技術そのものの危険性に加え,野外実験が正当化されるために必要な条件を充たしていない。
ア 実験目的に正当性を見出しがたいこと
       従来の品種改良により同一の目的を達成したイネの存在。
       いもち病被害の現状(1・8%)から危険なGM技術を駆使した品種改良の必要性に乏しい。
       ディフェンシン遺伝子挿入イネの病害耐性そのものが検証されていない。
       本試験栽培では,周辺イネとの交雑の可能性が検証できない。
 イ 試験にともなう危険発生の防止が不十分なこと
       耐性試験のために実施されるいもち病や白葉枯病の菌の噴霧による周辺作物等への影響
       利用されるディフェンシン遺伝子もしくはモディファイド・ディフェンシン遺伝子の有用性,安全性の検証がなされていない。
       本GMイネそのものの安全性審査が未了ないこと(ディフェンシンのヒト細胞への影響は不明であるし,ディフェンシンを非食部分にとどめておくことは困難であるにもかかわらず,この点の検証が全くなされていない)
       ディフェンシンに対する耐性菌の出現の可能性があり、その危険性が大問題。
(5) 実験を差止める必要性
  本GMイネは開発の必要性に乏しいばかりか,野外実験をするに足る前提条件を充たしておらず,そのリスクは,すべて周辺農民や消費者が負っている。健全な食品の生産と消費は,個人の生命・健康を維持し,地球環境を保全するという意味において持続可能な社会の基礎をなしており,食品の安全・安心をめぐっての専門家と市民とのリスクコミュニケーションのあり方については,BSE問題をはじめてとして,さまざまな分野で活発な議論がかわされている。
このようななかで、あまりに技術開発に偏重した本試験栽培は,1992年のリオ宣言の第15原則(予防的取り組み)を無視した違法なものであり,過去の食品被害事件と同様な過ちを犯す危険・不安をぬぐうことができない。この危険,損害を回避するには事前の差し止めが必要である。

(1)、答弁書で明らかにされた相手方の態度
 最近まで農水省の研究機関であり、今回の実験のことを自ら「国家プロジェクト」と豪語して憚らない相手方の北陸研究センターは、今回のGMイネの実験の危険性の問題について、本来なら、市民の納得がいくようにきちんと説明を果す責任があります(説明責任)。裁判はむしろ、同センターにとって、その責任を果す格好の場でもあったのです。
 しかし、始まった裁判において、同センターの態度は、
《耐性菌の出現の余地は科学的になく、また実際耐性菌の出現についての報告もない》(答弁書12頁)
と「偽装」の主張を行ない(のちに、耐性菌の出現を報告した論文が判明したから)、その上、
《万が一ディフェンシン耐性の菌が出現したとしても、現行農薬に対する耐性菌ではないため、現行農薬で十分対処できる》
と、世界中の研究者たちが「人を含む自然界と生態系に大変な脅威をもたらす恐れがある」と指摘している問題を、単にイネの問題としか捉えず(しかも、農薬をまけば問題ないとは、一体「環境に優しい」という彼らのうたい文句はどこに行ったのか!)、挙句の果てには、
《本申立は、本実験を批判し、批判を喧伝する手段の一つとして行われたとしか考えられず、手続を維持するだけの法律上の根拠は全く認めることができない。いずれにせよ、本申立においては、そもそも一般的な高等教育機関で教授ないし研究されている遺伝子科学の理論に基づいた主張を展開しているものではなく、遺伝子科学に関し聞きかじりをした程度の知識を前提に特定の指向をもった偏頗な主張を抽象的に述べているに過ぎず、また法的に考察しても非法律的な主観的不安を書きつらねただけのものとしか評価しようがなく、債務者としてはかような仮処分が申し立てられたこと自体に困惑するばかりである》(答弁書19頁)
と、素人の聞きかじりの知識による裁判のために、崇高な国家的プロジェクトが妨害されるのは心外極まると言わんばかりの高圧的な態度を表明しました。
同センターは、HPなどでは「適切な情報公開・提供に努めます」と美しいコトバを表明していて、そのくせ、各論でいざ市民から実験の危険性を具体的に指摘されると、手の平を返したように「特定の指向をもった偏頗な主張を抽象的に述べているに過ぎず‥‥かような仮処分が申し立てられたこと自体に困惑するばかりである」と開き直って見せる欺瞞の典型例というべき態度を取ったのです。

(2)本裁判の審理の最大の特徴―科学裁判の本質―とそれに対する相手方の態度
 本裁判の争点は本野外実験の安全性の有無であり、その判断に必要な証拠はすべて相手方が握っていました(証拠の偏在)。これが本裁判も含めた科学裁判の最大の特徴です。だから、本来であれば、証拠を一手に握っている相手方は、原則としてそれをすべて公開し、市民の不安を払拭する重大な責任があるのです。にもかかわらず、相手方は、最後の最後まで、本野外実験の安全性の有無の判断に必要な証拠を開示しようとしませんでした。これが本裁判の審理の最大の特徴です。

 これは、農水省が、GM作物の野外栽培実験指針として明らかにした、
「計画書について意見が寄せられた場合には、計画書に記載した内容について、科学的根拠や関連する情報をわかりやすく説明するなど、情報提供と意見交換に努めること。」
に真っ向から反するものです。

 これはまた、相手方が自ら、センターニュース本年6月号でも表明している、
適切な情報開示・提供  
 GM作物及びこれらを利用した食品について、国民の皆様のご理解が十分に得られているとは言い難い面もあり、例え研究段階の実験であっても、農林水産省の栽培実験指針では、より積極的で透明性をもった情報提供に努めることがうたわれています。
 そこで、‥‥本実験は一般に公開しながら進めていくことを原則としており、今後も見学会を開き、実験の経過の公開など、適切な情報公開・提供に努めます」
にも反するものです。
加えて、相手方は、今回の実験は、国家的プロジェクトであることを冒頭から強調し、その公共的性格と重要性をアピールしてやまなかったのですが、そうであるならばなおのこと、最も公共的な問題である「本野外実験の安全性の有無」について、速やかに最大限の情報公開を行なうべきでした。
 にもかかわらず、(本当にこんなことができるのかと未だ信じられないくらいだが)相手方は、本裁判において、そうした情報公開を一切しなかったのです。これでは、情報公開の「偽装」だと言われても仕方ないのではないでしょうか。
 民主主義の根幹をなす最重要な原則である情報公開において、一般論としての美しい言葉と、実際上における完璧なまでに裏腹の態度、これが本裁判の審理における最大の特徴であり、こうしたサポタージュは今後、二度とあってはならないことです。

(3)、本裁判の具体的な争点――本野外実験の安全性について――
(1)、本野外実験の安全性の有無について、申立人は、当初、次の3つの観点から、主張・立証しました。
①.第1に、室内実験において本GMイネの安全性・問題点を十分に詰め、解決していない現段階で、野外実験に移行するのは時期尚早であり、その危険性の点から許されないこと。
②.第2に、その本野外実験の交雑防止GMイネの花粉が一般イネと受粉するのを防止)やディフェンシン耐性菌(ディフェンシンの殺菌作用に対し、これに抵抗するような性質を獲得した菌)の出現・流出・伝播などの安全対策の点において見過ごすことのできない不備があり、その危険性の点から許されないこと。
③.第3に、他方で、こうした問題の多い本野外実験を敢えて推進する積極的な必要性・有用性が認められず、またそれを実証するデータもないこと。

(2)、審理の結果、最終的に、次の2つが重要な争点となりました。
ア、本野外実験の交雑防止策が安全性の見地から十分かどうか。
イ、ディフェンシン耐性菌の出現・流出・伝播の危険性とその安全対策が十分かどうか。

(4)、主要争点1(交雑防止策)に対する双方の主張
(1)、相手方の主張
 当初、本来1つの措置で十分安全性は確保されているが、万全を期すために重畳的に次の3つの対策を講じるとしたが、
 (a)、距離的な隔離(一般農家のイネと間に十分な距離を置く)
 (b)、時期的な隔離(一般農家のイネとの出穂期間との間に十分な期間を置く)
c)、物理的な隔離(花粉が飛散しないように、袋がけ等の物理的措置をする)
(a)と(b)について、その不備が明らかになるや(例えば、(b)については、最終的に、一般農家のイネとの出穂期間のズレがわずか1日しかないことを認めた)、最終的には、
c)、物理的な隔離の完璧さ
を全面に出し、当初の「袋掛けするかまたは組換え個体栽培区を不織布等で覆う」を「袋掛けし、なおかつ、組換え個体栽培区を不織布等で覆う」という二重の防止策に変更し、最後の防止策にすべてを賭ける態度を表明しました

(2)、申立人の反論
 しかし、この二重の防止策は、
(ア)、もともと花粉の交雑防止策は万全でなければ意味がないが、イネの花粉は、文献上、最長50時間生存することを考えると、相手方の二重の防止策でも、実験の観察のため人がネット内に出入りする以上、なお完全に交雑が防止されるとは到底言えない。
(イ)、かといって、完全な交雑防止のためにネット内に一切出入りしないとなると、今度は、イネの開花予想時期の20日間、全く観察ができず、白葉枯病の観察という彼らの実験目的が全く達成されない。
(ウ)、このジレンマは、野外実験をやる以上解決不可能な問題であり、それを解決しようとしたら、野外実験上に室内実験場を建設するしかない。しかし、これはもはや、野外実験の放棄である(相手方の今回の二重の防止措置も殆ど【野外実験上に出現した室内実験場】に近い)。
二重の防止策を施した野外実験場を外から撮影。 


同じく内部から撮影。【相手方のHPより】

(5)、主要争点2(ディフェンシン耐性菌の出現・流出・伝播)に対する双方の主張
(1)、申立人の主張
①.既に、実験室でディフェンシン耐性菌が出現した複数の報告があること。
②.したがって、本野外実験でも、ディフェンシン耐性菌が出現する可能性が高いこと。
③.出現したディフェンシン耐性菌が大変危険なものである可能性があること。
④.ディフェンシン耐性菌が本野外実験上から外部に流出・伝播する危険性があること。

(2)、相手方の反論                        
「本野外実験で、ディフェンシン耐性菌の出現の危険はない、つまり出現の可能性はゼロである」
なぜなら、
(a)、これまで、自然界(カラシナ)でディフェンシンという蛋白質が存在してきたが、そのことにより、ディフェンシン耐性菌が出現し、大問題になったという報告は過去一度もなかった、だから、今回の野外実験もまた、そうした心配は無用である。
(b)、上記①の報告は他の生物相等の環境影響の存在しない、およそ自然界とはかけ離れた、特殊な、人工的環境の下で実験を行ったもので、本野外実験のような自然界における耐性菌の出現の根拠にならない

(3)、申立人の再反論
(a)について
 今回の野外実験におけるディフェンシンの生産は、カラシナのようにこれまでの自然界におけるディフェンシン生産とは条件が全く異なる。カラシナの場合には、ディフェンシンが必要に応じて生産されるのに対し、本GMイネは、イネの緑葉組織特異的発現プロモーターにより、ディフェンシンを常時大量に作り続けるように加工してある。つまり、自然界ではあり得ない組み合わせを人工的行うことで、ディフェンシン遺伝子の本来の発現調節を無効にして、常時大量にディフェンシン遺伝子を発現するようにしてある。だから、過去、自然界で問題がなかったからといって、これをそのまま参考にすることはできない。
(b)について
 菌とエサとディフェンシンを混ぜて放置するだけで、微生物がディフェンシンと頻繁に接触することにより耐性菌が出たというこの報告から、自然界でもこの三者が混じり合い、かつ微生物がディフェンシンと頻繁に接触すれば、耐性菌が出るだろうと予想するのが合理的であり、この三者が混じり合い、ディフェンシンを常時大量に作り続ける結果、微生物がディフェンシンと頻繁に接触する条件下にある本野外実験もまた同様に考えるのが合理的であること(疎甲91。研究者の陳述書(3)
(4)、二審における相手方の再反論とその評価
 申立人の上記主張には黙して反論せず、一転して次の全く新たな主張を、「科学的な公知」な事実として主張するに至る。
ディフェンシン耐性菌がイネの細胞から外部に出る可能性は存在しない」
 しかし、これは誰の目から見て、植物生理学の初歩的知識のレベルで誤った撤回するしかないもの。

(6)、内外の反響――予想外の事態――
主食のコメに対する遺伝子組換え実験について、科学者の池内了氏は、次のように言います。
第二世代の遺伝子組換え作物として、イネやコムギがターゲットになっていることに注意する必要がある。これらは主食であるから、ほんの少しの不純物であっても大きな厄災を引き起こすし、いったん出回ってしまうと引き返すのが困難となってしまうという問題点がある。壮大な人体実験になりかねないのだ。
 より重大な問題が、生態系に及ぼす影響である。‥‥組換えされた遺伝子は、まず近縁の植物や捕食動物に移動し、時間が経つうちに生態系全体に広がってしまうのが必然である。長い時間をかけた生命進化の過程で遺伝子は変化してきたのだが、遺伝子組換えによってそれとは無関係の遺伝子が短期間の間に生態系に持ち込まれることになる。これによって、どのように生態系が撹乱されるか、誰も知らないのだ」(「禁断の科学――軍事・遺伝子・コンピュータ――」156頁。NHK知るを楽しむ)
 ましてや、本野外実験は、「ディフェンシン耐性菌が出現した」という上記報告からほぼ確実性をもって、ディフェンシン耐性菌という生態系の撹乱をもたらす生物の出現が予想されており、こうした生物災害の恐ろしさは、既に鳥インフルエンザの経験からも明らかである。
したがって、当然のことながら、地元では、本野外実験と裁判は天地を揺るがす大事件として報道された。しかるに、他方で、弁護団の度重なる記者発表にもかかわらず、全国向けのニュースは完全な黙殺に終始した。
ところが、こうしたマスコミの黙殺と好対照だったのが、意外なことに科学者たちだった。GM技術に従事する科学者の95%は開発側に立っている」(NHK-BS海外ドキュメンタリー番組【問われる遺伝子組換え食品】のラスト)現状で、新潟県の無名の市民の申立人らと何の縁もなく、名前すら知らなかった科学者・研究者たちから、しかも日本全国のみならず世界中から、本野外実験のディフェンシン耐性菌出現の危険性について、警鐘を鳴らす声が次から次へと届けられたのです(疎甲869294。同118121)。
なぜ、彼らは、国境を超えて、見も知らない市民の裁判のために、一文の得にもならないどころか我が身の研究に不利益・障害が及ぶであろうことを承知で危険を顧みず、さながら、「シンドラのリスト」のオスカー・シンドラのように振る舞い、今回の国家的プロジェクトに異議の声をあげたのでしょうか――思うに、科学的な認識として、ディフェンシン耐性菌出現の可能性が市民の人体の安全のみならず地球上の生態系に及ぼす影響の重大性を考えたとき、研究者として自らの理性と良心に照らし、とうてい黙っていることができなかったからとしか思えません。
ここに、本野外実験の危険性の本質を垣間見ることが、と同時に困難な状況に置かれた研究者たち「シンドラのリスト」の理性と良心の可能性を垣間見ることができました。

申立人は、これまでの室内実験と異なり、予見不可能性とその回復不可能性を特質とするGM事故にもろに直面することになる今回の野外実験について、どのような場合に実験が許容され或いは中止されるのかについて、日本で初めてのGM作物裁判として、今後のGM作物野外実験の安全性を考える上で手本となるような、できる限り透明で納得の行く判断が出されることを願っていましたが、
 一審裁判所の新潟地裁高田支部では、約1ヶ月半の審理の末、GMイネが開花寸前の817日に判断を下した――ディフェンシン耐性菌の問題について、短時間のうちに細胞分裂をくり返して爆発的に自己増殖する生物特有の性質を見落とし、耐性菌を従来の有害化学物質などと同一レベルで考えるという誤りに陥って、なおかつGM事故におかる「疑わしきは罰する」という予防原則の適用の必要性を正しく理解せず、伝統的な事故の枠組みの中で、本野外実験の危険性の有無を判断して、危険性の疎明がないとして申立を却下しました。
もっとも、裁判所は、同時に相手方に対しても、
開発計画を遂行する過程で得られた情報や実験結果等(特に、本件で問題とされた本件GMイネの原告山田ら周辺農家のイネに対する交雑の可能性、本件の隔離圃場内におけるディフェンシン耐性菌の発生状況と伝播の有無等)に関しては、今後とも生産者や消費者に的確に情報提供したり説明をすることにより、本件GMイネに対する不安感や不信感等を払拭するよう努めていく責任があり、仮にも、上記の情報公開等が円滑に行われず、いたずらに生産者や消費者の不安感等を助長するような事態を招き、その結果、農業等行う上で具体的な損害ないし支障が生ずるような状況に立ち至ったときには、本件野外実験の差止めを求められてもやむを得ない」と異例の厳しく注文をつけたのです。


これに対し、即日、申立人から異議申立(抗告という)が出され、東京高等裁判所で審理されましたが、申立人が審理の迅速化を再三にわたり要望してきたにもかかわらず、「説明責任を尽くす」と表明した相手方は、抗告審開始後1ヶ月以上沈黙を守り、まともな反論を一切しませんでした。ようやく9月末に、実質的な主張を行なったものの、その直後に、GMイネの刈り取りを行なうや否やその翌日、刈り取り終了を理由とする抗告却下の申立書を電光石火のごとく提出したのです。

他方、9月末の相手方書面に対する申立人の反論(申立人のこれまでの主張に対する積極的な反論がひとつもないこと、相手方が起死回生の一打として持ち出した「ディフェンシン耐性菌がイネの細胞から外部に出る可能性は存在しない」という主張が初歩的な科学的知識のレベルですら誤った杜撰なものであること)が出され、いよいよ事実の徹底解明についてケリをつけるべき天王山にさしかかったと思えた瞬間、二審の裁判所は、10月12日、いきなり、5枚足らずの三行半の決定を出しました。
そこには、最重要論点であるディフェンシン耐性菌出現の可能性の問題について、全く何一つ具体的な言及をすることもなく、にもかかわらず、申立人及び微生物の専門家たちの意見書を評して「杞憂」にすぎないと断じた。「疎明(証明の一種)がない」としか言わなかった一審裁判所の決定と異なり、「杞憂であり」とまで表明した以上、普通なら、よほどの科学上の確信に支えられたものですが、しかし、当の裁判所は、科学以前の初歩的な知識のレベルですら間違いに陥っている相手方の杜撰な主張の間違いすら指摘できなかったのです。
これを読んだ或る研究者の人はこう感想を述べました、「それにしても、東京高裁の裁判官は、馬鹿な判決をしたものですね。」その通りですが、しかし、馬鹿な判決のために本当に馬鹿な目に遭うのはほかならぬ私たち市民です。のみならず、GM事故の特質である「晩発生」[3]に思いを致したとき、今後、起こり得る地球の生態系の破壊という深刻な被害の結果、最もひどい目に遭うのは私たちの子供たち、未だ生まれざる私たちの子孫たちです。これは単なる私たち市民の私権と国家的プロジェクトと称する本野外実験の間の問題ではなく、その本質は、私たちの子供たち、未だ生まれざる私たちの子孫たちの人権と国家的プロジェクトの間の問題にほかなりません。その意味で、我が国初のGM作物をめぐる本裁判こそ21世紀の倫理が最も鋭く問われる最もパブリックな裁判だと思います。
2006.2.16文責 原告代理人 柳原敏夫)

【参考】


[1] タンパク質の一種で、動植物が生産する。病原菌の活動を抑える作用があり、感染防御に重要な役割を持っている。生体は外敵に対する防御システムを数多く発達させているが、ディフェンシンはその防衛ラインの最前線で戦っている防御物質である。
[2] 「回復不可能性」と並んで、遺伝子組換え事故に固有の特質のこと。
遺伝子組換えは、他の生物から切り出した特定の遺伝子(タンパク質設計図)を細胞に挿入して、その遺伝子に基づくタンパク質を作らせることが目的である。つまり、新しい遺伝子の導入で、細胞に1つ余分の新しい仕事を命じることになる。このために、何かの仕事が犠牲になっているかもしれないが、それが、生物体にどう影響しているのかが、わからない。
また、遺伝子の調節機構はほとんどが未解明のため、新しい遺伝子の導入で遺伝子の調節機構がどういう影響を受けるか予想ができない。通常の生育には問題がなくても、何かがきっかけで、毒成分を作るかも知れない。また、生物体の中で、遺伝子が組み変わったりしたときに、予想外の事態が起こるかもしれない。
この点(遺伝子組み替えの結果に対して我々が予見できない)で、これまでの科学的、技術的な行為と大いに異なる。その結果、こうした遺伝子組み替えによる事故に対しても、我々は予見できないという条件の下にある。
[3] 病原体やアスベスト等を体内に取り込んでから実際の被害が発生するまでに時間がかかること。

2005年8月19日金曜日

新米学生にとって、リスク評価論の謎とその解明(試論)(2005.8.19)



新米学生にとって、リスク評価論の謎とその解明(試論)
2005819日
目 次
0、用語の解説
1、はじめに――ささやかな表明――
2、リスク評価論の謎
3、リスク評価論の基本問題――リスク評価論の2つの次元の存在とその自覚――
(1)、2つの次元の並存と独自性をめぐる争い
(2)、2つの次元の並存と独自性をめぐる認識の違いがもたらした事例の紹介
(3)、真(科学的認識とはなにか)をめぐる対立・葛藤――一般性と普遍性の混同――
(4)、善(道徳・法律とはなにか)をめぐる対立・葛藤1――「市民」の捉え方をめぐって――
(5)、善(道徳・法律とはなにか)をめぐる対立・葛藤2――適正手続の保障の導入をめぐって――
(6)、リスク評価の全体構造をめぐる対立・葛藤――シビリアンコントロール導入をめぐって――
(7)、リスク評価の全体構造をめぐる対立・葛藤――倫理・価値を含んだ新しい科学の提唱――
(8)、リスク論の新米学生にとっての最大の躓き――科学の限界を評価する基準の不在――

0、用語の解説
 ここでは、食品の安全性に関するリスク評価等について、政府の食品安全委員会の解説による。
(1)、リスク評価
 食品中にハザード(危害要因)が存在する結果として生じる健康への悪影響の起こる可能性とその程度(健康への悪影響が発生する確率と影響の程度)」を評価すること。
(2)ハザード(危害要因)
 健康に悪影響をもたらす原因となる可能性のある食品中の物質又は食品の状態。例えば、有害な微生物、化学物質などの生物学的、化学的、または物理的な要因がある。
(3)リスクコミュニケーション
前記(1)のリスクに関する情報及び意見の相互交換。
(4)、遺伝子組換え食品
 遺伝子組換え技術を利用して開発された食品をさす。ある生物から有用な遺伝子を取り出して、他の生物に導入することで、農産物の従来の育種の範囲を拡大することが可能となった。
具体的には、栄養成分や機能性成分に富む農作物や不良環境や病虫害に強い農作物などが挙げられる。
(5)、「リスク・ベネフィット」原則(リスク・ベネフィット論)
 これについては、とくに解説なし。

1、はじめに――ささやかな表明――
真の法律家とは法律を最も信用していない連中のことである――ご多分にもれず、最初この言葉を聞いた時、私もまたその意味がさっぱり分からず、それが胸に落ちるまで20年近く要した。それまでの間、法律家とは所詮、人の不幸を食い物にするハイエナでしかないのかと正直なところ思っていた(だから、法律を仕事・研究の対象にしようとする連中の気が知れなかった)。しかし、それ以上の問題はそうした悩みを共有できる場所、人がいなかったことである。そうした私にとって、この悩みを初めて共有できた場が、「日本の法学の先駆的業績」と評価されている民法学者の川島武宜の主著「科学としての法律学」(1958年)である。川島は、この本の中で、「学生時代、法律学というのはいったいどういう学問であるのかもわからないで、日々の学生生活に少しも生き甲斐を感ずることができなかった」(2頁)と法律学への不信を赤裸々に語っている。にもかかわらず、「自分も含めて、多くの法学生たちが、そうした法律学に興味を持つようになったのは、実は法律学を正しく理解したからではなく、むしろ、普通の素人にはわからない『秘伝奥義的技術』を身につけたと感じて、素人には分からない技術を使いこなせることに一種の優越感・快感に浸るためである」と看破した。
そこで、川島は、素人には分からない「秘伝奥義的技術」を駆使して、素人をちょろまかすためだけに存在しているとしか見えない法律学への不信を正面から表明し、これに代わって、法的判断の客観性=科学性を確立することを彼自身の終生の課題とした。それが「科学としての法律学」である。また、その成果のひとつが、彼の弟子の平井宜雄の因果関係論(因果関係を、事実〔科学的判断〕としての因果関係と、それを踏まえた法的な判断としての因果関係という2つの異質な次元があることを明らかにした)として広く知られている。

これに対し、私は、今再び、自分が同じ問題に直面していると感じている。それは、リスク評価論の新米学生になったからである。そして、リスク評価論を読み始めてみて直面した現実とは、「リスク評価論というのはいったいどういう学問・制度であるのかわからないで、日々の勉強生活に少しも生き甲斐を感ずることができなかった」からである。正直言って、リスク評価の文献を読んでも、「ダメだア、1行たりとも理解できねえ」というのが正直な実感である。それどころか、市民運動の現場からも、リスクコミュニケーションに対して「口にするのも汚らわしい大嫌いな言葉」「本の索引からも削除してしまい、燃やしてしまいたい」といった過激な反発の声を聞くに及んで、ひょっとしてこれは自分ひとりの感想ではなく、ここには多くの市民に共通する問題が潜んでいるのではないかと思い直すに至った。そして、これだけ根深い不信をばらまいているにもかかわらず、他方で、こうした意味不明のリスク評価論を論じてやまない人たちがいるというのは、前述した川島の指摘の通り、「普通の素人にはわからない『秘伝奥義的技術』を身につけたと感じて、素人には分からない技術を使いこなせることに一種の優越感・快感に浸るためである」のではないかと疑うようになった。
そこで、私も、ひそかに、川島にならい、素人には分からない「秘伝奥義的技術」を駆使して、素人をちょろまかすためだけに存在しているとしか見えない(にもかかわらず、この世にのさばり幅を利かせている)リスク評価論への不信を正面から表明し、これを一掃して、リスク評価論の客観性=科学性を確立することを私自身の終生の課題としたいと願うようになった。
なお、誤解がないように言っておきたいが、ここで私が問題にしているのは、リスク評価論の客観性=科学性であって、たとえば或る化学物質がどの程度の危険性があるかといったリスク評価の科学性のことではない。ひょっとして今のリスク評価は科学的に行なわれているのかもしれない(もっとも、BSE〔狂牛病〕のリスク評価からも明らかな通り、すべてがそうであるとは到底思えないが)、しかし、ここで問題なのは、リスク評価の科学性ではなく、リスク評価のシステム全体がどのような構造になっているのか、その科学的(=客観的)な解明であり、そして、その解明に基づいて、客観的・科学的なリスク評価を担保する方法を発見すること(私は、これらを総称して、「リスク評価論の客観性=科学性」と呼んでいる)である。ところが、BSE(狂牛病)のリスク評価を見ていても明らかな通り、リスク評価論の現状は、「普通の素人にはわからない『秘伝奥義的技術』」に陥っている。そこにこそ、今、科学の光を照射する必要がある。川島にならっていえば、それが「科学としてのリスク評価論」の探求である。


2、リスク評価論の謎
リスク評価を学び始めて以来、最も不可解と感じた謎は、リスク評価論では何が最も基本的な問題なのか、何が最も根本的な課題なのか、それが少しも明らかにされていないことである。
もともと、多様な価値観の共存を前提とする現代の民主主義国家の下では、当然、どんな制度・システムにおいても、その制度のあり方・運用の基本的指針をめぐって、多様な価値観の共存・対立を反映して、そこに根本的な理念・価値観の対立が存在する。そのことは、とりわけ重要な制度であればますます顕著である。
例えば、刑法という制度であれば、その制度のあり方・運用の基本的指針をめぐって、古くから、刑法は秩序維持を目的とすべきであり、そのために刑法を積極的に発動すべきであるという価値観と、刑法は個人の生活利益の保護を目的とすべきであり、その発動はやむを得ない必要最小限に限定されるべきという価値観の基本的な対立が存在した。
ところが、リスク評価論では、この基本的な問題がさっぱり分からない。つまり、もともと民主主義国家は、多様な価値観の共存を前提としているのだから、リスク評価論という重要なシステムにおいても、多様な価値観の共存・対立が反映して、リスク評価のあり方・運用の基本的指針をめぐって、基本的な理念・価値観の対立が当然のことながら発生する筈である。にもかかわらず、今のところ、リスク評価をめぐって、そこに、どういう根本的な問題が横たわっているのか、この基本的な対立・問題点は、我々市民の前には、ちっとも明らかにされていない。あたかも、何の対立も葛藤もないかのように、すべての矛盾を解決した万歳三唱の制度として存在しているかのような相貌を見せている。しかし、もしそうだとしたら、それは欺瞞でしかない。なぜなら、多様な価値観の共存・対立を前提にしている以上、無矛盾な制度・システムなど原理的にあり得ないものだから。また、かりにそうならば、実際上、少なからぬ市民からリスク評価論に対する激しい反発など起きる筈がない。
そこで、リスク評価論をめぐって、そこにどういう根本的問題が横たわっているのか、それを明らかにすること――これが「科学としてのリスク評価論」の探求その1の課題である。

さらに、ここで重要なことは、リスク評価論をめぐる対立の存在を正しく認識することにより、リスク評価に関わる者たちが、対立するどの立場を選択するのか、主体的に選び取ることができることである。したがって、もし、自分の選択が不都合をもたらすと気がついた場合、それに対し、責任を取ることもできるし、その反省から、別の選択を主体的に選び直すこともできる。つまり、リスク評価の制度に対し、主体的、責任をもって向かい合うことができる。逆に言えば、リスク評価の制度をあたかも自然の与えられた存在のごとき所与のものとして受けとめるのであれば、そこからどんな不都合が生じても、天変地変の災害のごときものとして、受動的に、成り行き任せに向かい合って済ませてしまう恐れがある。つまり、そこでは自然災害のように「しょうがない」と簡単に諦め、人間の責任が問われない。
ただでさえ、日本には古来から無責任体制の傾向が蔓延っている。これ以上、そうした悪弊をはびこらせないためにも、そして、リスク評価の制度に対してきちんと主体的、責任をもって向かい合うためにも、リスク評価に関わる者たちが、どういう価値観を選択し、その結果、どういう制度のあり方になったのかを認識し、自覚しておくことが是非とも必要不可欠である。


3、リスク評価の基本問題――リスク評価論の2つの次元の存在とその自覚――
(1)、2つの次元の並存と独自性をめぐる争い
 これまでのリスク評価論で必ずしも明確にされてこなかったが、「科学としての法律学」を確立しようとしてきた川島武宜や平井宜雄の方法に従えば、ちょうど、法律で問題になる因果関係が①事実上の(客観的・科学的な)因果関係と、②法的な因果関係の2つの次元にまたがる問題であることが明らかにされたように、リスク評価の問題もまた、
(a)、①真(認識)と②善(道徳・法・実践)の両方の次元にまたがる問題であり、
(b)、①真(認識)と②善(道徳・法・実践)という異質な次元について、それぞれ、ほかの次元の判断を括弧に入れるという独自の吟味を経ることが不可欠である。それは、一方の判断をもって、他方を省略したり、代用したりすることはできない。
(c)、②善(道徳・法・実践)の次元の判断とは、①真(認識)の次元の判断に対し、次のような特色を持つ。
()、ここで問われるべきことは真か否かという二者択一の問題ではなく、最初から複数の結論が相並び立ち、それらは根本的な価値の違いによって、おのずから導かれる結論が異なってくるという関係にあること。
()、いかなる根本的な価値の立場に立ったとき、具体的な問題でどのような帰結に導かれるのか、あらかじめ、その(立場-帰結)の論理的な構造を明らかにされるべきであって、
()、その上で、自分がどのような根本的な価値観に立ち、そこからどのような帰結を選択するのかを、認識ではなく、まさに決断=実践することがここでは問われる。

 しかし、このことを承認するのに抵抗を示す多くの人たちがいるにちがいない。つまり、リスク評価とは、あくまでもその方面の専門家=科学者の判断だけ完結するものであり、その意味で、上の②善(道徳・法・実践)の次元は必要ない、と。
この反発は、かつて、文学書がわいせつかどうかが問題になったチャタレー事件や悪徳の栄え事件における文学者たちの反応と似ているところがある。つまり、両者はともに専門家(科学の専門家である科学者、文学の専門家である文学者)の専権の領域を不当に干渉するものであるという反発の点において共通する。しかし、この考え方は世界の認識としてそもそもまちがっている。
 200年以上前、哲学者のカントは、我々が世界を見、物事を判断するとき、①真(認識的)、②善(道徳的)、③美(美的、快か不快か)という異なる独自の3つの次元の判断を持つことを明らかにし、その各々の次元について、それまでの判断のあり方を批判した(純粋理性批判、実践理性批判、判断力批判)。
 もっとも、この3つの異なる次元が存在し、これがそれぞれ独自のものであるということは、我々の日常で明確に自覚されて入るわけではなく、通常、この3つの次元は渾然と交じり合っている。夏目漱石は「文学論」の中で、19世紀のフランスで、シェークスピアの「オセロ」を上演した際、悪役のイアーゴーの女房殺しの場面に、憤激した観客が俳優を射殺した事件を紹介しているが(全集14174頁)、これなどは②善(道徳的)の次元と③美(美的、快か不快か)の次元を区別することができなかった事例である。
 しかし、この観客を笑うことはできない。我々もまた、例えば、人を愛するとき、相手が②善(道徳的)の次元で人間的魅力があるのか、それとも③美(美的)の次元で美的、性的魅力があるのか、さらには両方ともあるのか、愛する本人にもよく分かっていないことが多い。また、第2次大戦後の現代美術に大きな影響を与えたフランスの美術家デュシャン(1887~1968)が「泉」と題して便器を美術展に提示したとき、多くの者たちは眉をひそめ、狼狽したからである。しかし、デュシャンは単に、《芸術を芸術たらしめるものが何であるかをあらためて問うた》(柄谷行人「倫理21」67頁)にすぎなかった。つまり、便器という対象に対し、①真(認識的)と②善(道徳的)関心を括弧に入れて見るという芸術本来の判断を求めただけのことである。しかし、このことを理解するには、それ相当の文化的訓練が必要である。
 その意味で、もともと、科学者もまた、こうした文化的訓練を積んだ者のことである。もともと近代の科学は、研究の対象を、②善(道徳的)的と③美(美的、快か不快か)的関心を括弧に入れて認識することにおいて成立したものである。この点で、医者も同様である――産婦人科医は、妊婦を美的或いは性的に見ることを括弧に入れる訓練を積んでいる。外科医も、手術の後で、血のしたたるビフテキを平気で食えるほど、②善(道徳的)的、③美(美的、快か不快か)的関心を括弧入れる訓練を積んでいる(柄谷行人同書同頁参照)。
 したがって、リスク評価論においても、
(a)、①真(認識)と②善(道徳・法・実践)の両方の次元が存在し、
(b)、おのおの判断においては、それ以外の次元(①真〔認識〕であれば、②善と③美。②善〔道徳・法・実践〕の次元であれば①真と③美)を括弧に入れて判断する必要があることが明白である。

 ところが、問題は、ことの本質は①真(認識)の次元や③美の次元の判断と同様なのにもかかわらず、②善(道徳的)の次元の判断について、こうした文化的訓練を積んだ者が殆どいないということである。それは、この次元の専門家のひとりである法律家についても基本的に妥当する。川島武宜や平井宜雄などの少数者を除いて、前述したチャタレー事件や悪徳の栄え事件の本質(裁判の対象がたとえ科学であろうが芸術であろうが、その最終的な判断は、①真(認識的)と③美(美的、快か不快か)的判断を括弧に入れてあくまでも②善(道徳的)の独自の次元でなされること)が今なお正しく理解されていないことからも、そして、その変奏曲(昨今の事例として「石に泳ぐ魚」事件など)がいまだにくり返し続いていることからも明らかである。
 ましてや、②善(道徳的)の次元の判断について素人同然である科学者の人たちが、①真(認識的)と③美(美的、快か不快か)的判断を括弧に入れてあくまでも②善(道徳的)の独自の次元で判断を下す文化的訓練ができていないとしても無理はない。しかし、問題は、そうした点で素人同然の科学者が、実は、現実のリスク評価論の場面において、①真(認識的)の次元の検討(この次元では、科学者として上記の文化的訓練ができているかもしれないが)を終えたあと、前述した善の次元の文化的訓練(①真〔認識的〕と③美〔美的、快か不快か〕的関心を括弧に入れて判断する)もできないまま、また、恐らくその自覚も全くないまま、ズルズルと②善(道徳的)の次元の検討を終えて、リスク評価について最終結論を出すのだとしたら、それは相当にヤバンで危険なものと言わざるを得ない。なぜなら、法律の因果関係論でも周知の通り、もともと②善(道徳的)の次元の判断は、①真(認識的)の次元の判断と内容的にちがってきて当然である(公害事件などでは、たとえ①につき、事実上の因果関係の立証が不十分であっても、②においては、言われなき被害を蒙った被害者救済の観点から、法的に因果関係を肯定したり、確率的に肯定するという独自の判断をすることがある)。にもかかわらず、そうした文化的訓練を経ていない人たちが、最初に自分たち自身で検討して導き出した①真(認識的)の次元の検討結果を、②善(道徳的)の判断においても、そのままズルズルと肯定してしまうという誘惑に打ち勝つことは、人性の本質上、まず不可能であると言うほかないからである。

(2)、2つの次元の並存と独自性をめぐる認識の違いがもたらした事例の紹介
 (1)で述べた「①真(認識)と②善(道徳・法・実践)の次元の並存とその独自性」を承認すべきかどうか、をめぐる争いが実際上決定的な違いとなって現れた最近の事例をひとつ紹介しておく。
 それは、本年3月25日に東京高裁で下された元厚生省生物製剤課長松村明仁被告人に対する判決である。同判決は、松村被告人は有罪としたが、彼の上司の上司である薬務局長も事務次官にも責任はないとした。その理由は、「上司には血液製剤の安全性を判断する専門的な知識も能力もなかったから」である。
 これは、法律家といえども、「因果関係に限らず、凡そ法律の概念の本質は次のことである」ということが依然、十分に理解されていないことを示している。
(a)、①真(認識)と②善(道徳・法・実践)の両方の次元にまたがる問題であり、
(b)、①真(認識)と②善(道徳・法・実践)という異質な次元について、それぞれ、ほかの次元の判断を括弧に入れるという独自の吟味を経ることが不可欠である。それは、一方の判断をもって、他方を省略したり、代用したりすることはできない。
 つまり、確かに、血液製剤の安全性の問題は、第一義的には、①真(認識)の次元の問題であり、そこではその方面の専門家(=科学者)の判断が求められる。この点で、非専門家である上司(薬務局長ら)に責任はないというのは正しい。しかし、それは純然たる科学的評価のことであり、ここで問題になっているのは、あくまでも血液製剤の安全性に関する社会的評価であり、なおかつその社会的な責任である。
したがって、血液製剤の安全性の問題は、そのあと、引き続き、②善(道徳・法・実践)の次元の問題として判断することが問われる。そして、この次元においては、①の担当した専門家(科学者である上記裁判の被告人)が引き続き担当するのはむしろ適切ではなく、ここでは法的、社会的見地から、それに相応しい人物たち(本件では、最終判断を下す上司である薬務局長や事務次官)がこれを担当し、なおかつその判断の責任を負うべきである。
ところが、担当した裁判官は、この「科学としての法律学」のことが十分理解されていなかったため、社会的責任が問われる場面であるにもかかわらず、
「血液製剤の安全性の問題は、あくまでもその方面の専門家=科学者の判断だけ完結するものであり、彼らに任せておけばよい(つまり、②善(道徳・法・実践)の次元の判断は必要ない)」
といった俗論を受け入れてしまい、そこから、本来のものとは全く正反対の結論を導き出してしまったのである。
 そのため、この判決が、世のコモン・センスから激しい批判を浴びたのは不思議ではない(4月10日日経新聞の内外時評「責任負わない事務官たち--問題残した薬害エイズ訴訟--」参照)。

(3)、真(科学的認識とはなにか)をめぐる対立・葛藤――一般性と普遍性の混同――
 「リスク評価にとって、科学的認識とはなにか」をめぐる対立として第一に取り上げるべきことは、「一般性と普遍性を混同してしまう」ことである。つまり、本来、科学的認識とは、普遍性をもったものでなければならないのに、それを見落として、経験から抽象される一般性(俗にいえば、単なる目安)で足りると思い込むことである。その結果、経験から抽象された単なる「目安」でしかない一般性の基準が、安全性確保の基準とされて堂々と通用するというヤバンで危険な事態が発生する。
その重要な一例として、遺伝子組換え(以下、GMと略称)作物の野外実験の実例を挙げる。GM作物の野外実験にあたっては、花粉の飛散による一般作物との交雑を防止するために、一般作物との隔離距離を定めているが、問題はこの隔離距離の数値を導き出すための方法である。
たとえば、2004年、GMイネの野外実験において、農水省が導き出した隔離距離は20mである(注1)が、その数値を導き出した根拠は、過去の5つの実験例から得られたデータを元に、その中の最大値15mに基づいて5mプラスしたことにある。しかし、これがどれくらい普遍性を持たず科学的根拠がないか、その翌年、新しい交雑距離の実験結果、25.5mが出たという理由で、さっそく、26mに延長されてしまったことからも明らかである(注2)(しかも、今度は、実験結果から0.5mしか余裕を持たせておらず、なぜ最初のように、実験結果から5mだけ余裕を持たせなかったのかも不明である)。もともと、予見不可能性とその回復不可能性を特質とするGM事故に直面するGM作物の野外実験においては、1粒の交雑からでもGMイネが3年後には1千万粒に指数的に爆発的に拡大する可能性があることから、交雑防止は100%完璧を期す必要がある。それゆえ、交雑防止策としての隔離距離は、単なる目安でしかない一般的なものではダメで、1粒の例外をも許容しない普遍的なものでなければならない。にもかかわらず、農水省が導き出した隔離距離は、単に5つの実験報告の最大値を元に算定されたものであり、その上、その最大値が得られた実験において調査したイネの株数はたった2株である。つまり、これは単にわずかばかりの経験から抽象されたただの「目安」でしかなく、普遍性を主張するにはお粗末過ぎる。そして、このようなお粗末な「目安」のために、回復不可能な交雑の事態が発生する危険性は大きく、この点で、科学的認識のイロハもわきまえない農水省の責任は極めて重大と言わざるを得ない。
同様な指摘は、以下の通り、つとに研究者からもなされており、知らなかったという弁解は農水省には通用しない。
「現時点では安全性や環境への影響に関する基礎研究が乏しすぎ」「「今あるデータを基に花粉飛散距離を普遍化することは禁物であり、それを守ったからといって、交雑を完全に防止することはできない」(植物育種学・受粉生物学専攻の生井兵治氏)

(4)、善(道徳・法律とはなにか)をめぐる対立・葛藤1――「市民」の捉え方をめぐって――
 リスク評価においては、これまで「それは、誰にとってのリスク評価か」という問いがなかった。つまり、そこでは、抽象的、一般的な「市民」という前提で、暗黙のうちに、私たち市民全部にとってのリスク評価が議論されてきた。これは、ちょうど、近代市民法が、抽象的、一般的な「市民」という前提で、契約自由の原則や過失責任の原則を考えてきたのと同じである。
 しかし、本来なら遅きに失することであるが、リスク評価においても、そこでは、具体的にどういう「市民」のリスクが問われているのか、早急に、これを明らかにする必要がある。ちょうど、近代市民法が、抽象的、一般的な契約自由の原則や過失責任の原則を形式的に適用した結果、貧富の拡大や、危険な経済活動の結果謂われなき重大な被害の発生といった理不尽な事態をもたらし、それに対する深刻な反省から、抽象的な「市民」を、(労働関係なら使用者と労働者、賃貸借関係なら貸主と借主、消費者関係なら事業者と消費者といった風に)具体的に社会的強者と弱者に分類し、或いは(企業とその周辺の住民といった風に)危険性の発信者と受信者に分類したように。
 なぜ、こうした分類が意味があるかというと、それは、分類ごとに正義・公平の見地からその中身に相応しい原理を見つけ出し、分類された市民ごとにそれに相応しい原理を適用していくべきだからである。ちょうど、近代市民法が、実質的公平の実現のために、社会的強者や危険性を発信する企業と、社会的弱者や危険性の受信する住民とでは、適用すべき原理が異なっているのと同様である。
 今、こうした「市民」の具体化の結果、少なくとも、次のことが明らかになるであろう。リスク評価論で、よく「リスク・ベネフィット」原則(ただし、その正確な内容は必ずしも明らかではない。ここでは、さしあたり、「誰がリスク発生の責任を負うか」という問題について、「リスクの発生を通じてベネフィットが帰する者に、そのリスクに関する責任も負わせるのが公平に適う」という意味で理解しておく)が話題になるが、少なくとも、この原則が適用される対象は、もはや、抽象的、一般的な「市民」であってはならない。そして、「リスク・ベネフット」原則とは、理念の中身として「利益の帰するところに、損失もまた帰する」という報償責任の原理と同じであることを考えれば、この原則が適用される対象とは、そのリスクの発生を通じて、経済的な利益が見込まれる市民=法人・企業にほかならない。これに対し、そのリスクの受信者である市民=周辺住民や消費者たち(これを経済的弱者とも言うことができる)には、「リスク・ベネフット」原則は適用されるべきではなく、彼らに適用されるべき原理とは、不合理な差別の禁止である――ベネフィットは負わない経済的弱者に対し、リスクのみ負わせるのはまさに不合理な差別に該当し、禁止される、と。
 このことは、たとえば、GM作物の野外実験のリスク評価において最も顕著に当てはまる。GM野外実験を通じて、ビジネス上の莫大な利益が見込まれる人(法人・企業)のリスク評価と、ベネフィットは負わず、GM汚染というリスクのみ負う周辺住民のリスク評価のあり方は、おのずから全く異なってくる。前者には、基本的に、「リスク・ベネフット」原則=「利益の帰するところに、責任(予防責任)もまた帰する」が適用されてしかるべきであるのに対し、ベネフィットは何も負わず、GM汚染というリスクのみ負う周辺住民に適用されるべき原理とは、無条件に、彼らにリスクを負わせてはならない、という原理である。
 これに対し、本年5月、米国の牛の生産者団体の幹部が「日本の消費者は、牛を食べてベネフィットを享受しているのだから、リスクも負うのが当然だ」旨発言したことが報道されたが、これはベネフィットの意味のすり替えである。この論理だと、もし工場の廃液、煤煙、騒音、化学物質などによりリスクに晒される周辺住民も、たまたまその工場の製品(自動車、食品など)を購入していたなら、リスクの責任もまた自ら負わなければならないことになる。発生させたリスクに対応するベネフィットとは、そのような個人が対価を支払って購入した商品を使用することによって得られる利益のことではない。発生させたリスクを上回る、その発生者に見込まれる経済的利益のことにほかならない。

(5)、善(道徳・法律とはなにか)をめぐる対立・葛藤2――適正手続の保障の導入をめぐって――
リスク評価論において、これまで、「適正手続の保障」の問題が十分論議されてこなかったように思う。なぜなら、これまでのリスク評価論は、人々への危険性の有無・程度という「結果」のみが全面に出て、それさえクリアしていれば基本的に問題がないという発想があったように思うから。
もしそうだとしたら、この発想は根本的に問題である。なぜ問題かというと、もともと善(道徳・法律とはなにか)の次元の重要な理念として、「適正手続の保障」というものがある。これは、市民の自由・人権を侵害さえしなければいいというのではなく、直接、自由・人権侵害が発生したかどうかを問わず、そうした事態が起きないように予防的に定められた「適正な手続き」がきちんと守られているかどうかを極めて重要なこととして重視するという理念である。現憲法でも、この「適正手続の保障」の重要性を踏まえ、31条以下40条まで具体的に明文化しているのみならず、表現の自由についても、検閲の禁止(21条2項)、宗教の自由についても、政教分離(20条)といった「適正手続」(つまり、憲法が禁止した手続を実施した場合には、それによる人権侵害の発生の有無を問わず、画一的に違反とみなす)を定めている。
つまり、「適正手続の保障」の理念は、民主主義社会の根幹をなすものであって、市民の人権に深く影響を及ぼすリスク評価においても、この理念は全面的に掲げられなければならない。
ところが、リスク評価の現場では、依然、「かりに手続的にはいろいろ問題があったとしても、最終的に人々への危険性がない或いは取るに足らないものであれば許容してもいいのではないか」といった「結果」オンリーの立場が依然根強いように見える。その意味で、改めて、リスク評価に「適正手続の保障」の導入の必要性の意味を明らかにしておく必要が大きい。
以下、その具体的なものを2、3列挙する。
ア、事前と事後の手続的厳密さ
一般に、化学物質の研究やGM作物の研究などにおいて、各研究段階ごとに、安全性確保のために解決しておかなければならない課題・テーマというものがある。それを片付けないまま、その次の段階に進むことは、たとえ、その次の段階の研究自身が、直接、市民の人権を侵害するようなことがないとしても、それは「適正手続の保障」という理念から見たとき大きな問題であり、適正手続違反として直ちに、その次の段階の研究は中止されなければならない。
具体的な例を挙げれば、GM作物における室内実験から野外実験への移行の問題がある。
一般に、自然界との接触を持ち、それゆえ様々な危険性を伴うGM作物の野外実験においては、そこに移行するためには、その前に、室内実験において解決しておかなければならない課題・テーマがある。にもかかわらず、それらの課題を未解決のまま、野外実験に移行することは、たとえその野外実験の設備が完璧で、自然界への危険性に対し万全の措置を取っていたとされても(実際は、「事実は小説(科学)より奇なり」で、それでもなお、人知を超えた想定外のことが発生するので、万全の措置ということはあり得ない)、適正手続違反として、野外実験場から直ちに退場するしかない。

イ、重畳的対策の保障をめぐって
一般に、化学物質の研究やGM作物の研究などにおいて、たとえ1つの方法でさしあたり安全性が確保されると思われる場合であっても、万全の安全性確保のために、それ以外にも同様の方法でもって重畳的に安全対策を講じ、それによって、万全の安全性を確保することが行なわれる(以下、これを重畳的対策という)。とりわけ、予見不可能性とその回復不可能性を特質とするGM事故に直面するGM作物の野外実験においては、万全の安全性確保が要請され、そのためには、重畳的対策が不可欠である。
従って、そのような場合、仮に、重畳的対策のうちの1つの対策が実効性を失った場合には、たとえ、それ以外の安全対策により、さしあたり安全性はなお確保されていると思われる場合であっても、それは「適正手続の保障」という理念から見たとき大きな問題であり、適正手続違反として直ちに、その研究はいったん中止されなければならない。
ところが、この、リスク評価における憲法の大原則「適正手続の保障」の具体化である「重畳的対策の保障」の重要性については、政府レベルでも、今なお、正当に認識されていない。
例えば、農水省のGM作物の野外実験指針によれば、GM作物の野外実験における交雑防止措置として、隔離距離による方法か、または開花前の袋かけなどの方法の「いずれかの交雑防止措置を採」ればよいとし、「いずれの交雑防止措置も採らなければならない」(=重畳的対策)とはしていない(注3)。
しかし、そもそも、この指針に示された隔離距離の数値は、前述した通り、イネについて、過去のわずか5つの実験例から得られたデータを元に、その中の最大値(しかも、この実験で調査した株数もたった2株である)を元に算出したもので、到底、普遍性を持った数値とは言えず、事実によりいとも簡単に破られるものでしかない(事実、その翌年、さっそく、数値がプラス6m塗り替えられた)。つまり、本来なら1つの対策でさしあたり安全性は確保されていると思われる場合であっても、「適正手続の保障」という理念から重畳的対策が要請されるべきなのに、ここでは、1つの対策ですらその中身はズサンで、安全性はいとも簡単に崩れるようなものなのに、そのような杜撰なものを、重畳的ではなく単独だけでよろしいとする恐るべき安全対策を採用している。
これでは、将来のGM事故発生を待機しているにひとしい。しかし、そのとき、この指針を作成した者たちは、予見不可能性とその回復不可能性を本質とするGM事故に対し、一体どのような責任を取るのだろうか。

(6)、リスク評価の全体構造をめぐる対立・葛藤――シビリアンコントロール導入をめぐって――
 ここでの問題は次のように言うことができる。
リスク評価が本来、①真(認識)の次元の検討を経た上で、さらに②善(道徳・法・実践)の次元の検討を通じて結論が導かれるものだとしたとき、そこで、②善(道徳・法・実践)の次元において、①真(認識)の次元の検討が暴走・乱用することがないように、シビリアンコントロールを導入する必要があるのではないか。
しかし、一般論で言えば、科学者は、もちろんこれを消極的であろう――なぜ、科学者の理性を信用してくれないのか、と。しかし、科学の力は、湯川秀樹に言わせれば、今やざっと次のようなものに変貌してしまっていることを忘れてはならない。

《 20世紀までの科学というのは、要するに、物理現象を「認識」することや。その対象が、だんだん人間離れして、マクロ(宇宙)の相対性理論になったり、ミクロ(原子)の量子力学になったとしても、やっていることの中心は、あくまでも自然現象を法則的に記述するという「認識」や。

 ところが、だんだん、様子が変わってきた。それは、科学の中心が「認識」から「実践」(作り出すこと)に移ってきた。これまでの科学的認識を武器にして、新しく「もの」を作るようになった。その最たるものが、原爆や。これは、地球の自然現象には存在しないものを、人間の力業で作り出してしまったのや。言ってみれば、地球の自然ではできないことを、やってしまったという意味で、地球の神様以上のことをしでかしてしまったようなものだ。だから、そのあと、核の扱いをめぐって、人間がコントロールできないような厄介な問題に直面しているのや。
それと同じようなことが、原爆ほどではなくても、化学の世界でやられてきた。地球の自然現象には存在しないものを、化学物質として作り出してきた。

 さらには、20世紀後半になると、生物の世界で、分子生物学の発達の中で、地球の自然現象には存在しないたんぱく質やら、酵素やら、しまいには生物まで作り出そうとしている。そして、そういう未知のものが、我々の住む世界にどんな影響を与えるものか、それはおそろしいというか、よう分からない。》(湯川秀樹と数理統計学者の北川敏男の対談「物理の世界 数理の世界」(中公新書))

 その結果、科学では、ウィーナーのサイバネテックスなど、それらを制御(コントロール)するという新しい分野が発達してきた。しかし、これだけでは無論不十分である。なぜなら、それらは、所詮、科学内部による制御(コントロール)でしかないから。科学の絶大な威力を前にして、科学内部のみならず、科学の外部からもまた制御(コントロール)が不可欠である――それが、ここでいうシビリアンコントロールである。

科学にシビリアンコントロールの導入が必要とされる根拠は、湯川秀樹が前述した通り、科学が手にするに至った絶大なる威力にある。それはちょうど、かつて、相手を有無を言わせず屈服させ、絶大な威力を発揮すると同時に世界中に惨禍をもたらす危険性をはらんだ絶大なる軍事力に対し、これを制御(コントロール)する方法として人類の英知が編み出してきた解決策が、非軍人による統制=シビリアンコントロールだった(憲法66条2項参照)のと同様である。
つまり、今や、絶大な威力を発揮すると同時に世界中に惨禍をもたらす危険性をはらんだものが科学力であり、従って、その運用についても、いまや、軍事力と同様の制御(コントロール)が求められてしかるべきではないか。それが、科学に対する非科学者による統制=シビリアンコントロール導入である。そして、その最も重要な局面のひとつが、リスク評価の場面における非科学者による統制=シビリアンコントロールである。
具体的には、②善(道徳・法・実践)の次元において、①真(認識)の次元の検討が暴走・乱用することがないように、非科学者による統制=シビリアンコントロールを導入することが必要である。

ただし、ここでもっと重要なことは、「誰が一体、このシビリアンコントロールを行使するのか?」という点にある。
今まであれば、こうした場合、「代表民主制の下では、シティズン(市民)の理性・倫理を代表するに相応しいのは国家(文民である官僚)の理性・倫理である」といった考え方が簡単に通用してきた。しかし、今や、国家理性=市民の理性の代表という図式は通用しない。約90年前、夏目漱石が
「国家的道徳といふものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いものの様に見える事です。元来、国と国とは辞令はいくらやかましくっても、徳義心はそんなにありやしません。詐欺をやる、誤魔化しをやる、ペテンに賭ける、滅茶苦茶なものであります。だから、国家を標準とする以上、国家を一団と見る以上、余程低級な道徳に甘んじて平気でいなければならない‥‥」(私の個人主義)
と喝破したことが、今では完膚なきまでに明らかにされているからである。
そこで、我々は、改めて、シティズン(市民)の理性・倫理を適切に行使するやり方を発見しなければならない。これは、より一般的に言えば、「パブリックな問題に対する理性・倫理の行使」という課題に対し、20世紀までの解決方法(国家理性の手に委ねる)が破綻し、今、それに代わる新しい解決方法が求められている問題である。
これに関する解決の理念は明らかである。それは、国家といった誰かの手に統治を委ねるのではなく、市民自身による自己統治であり、理性を私的目的のために使用するのではなく、パブリックな目的のためにのみ使用することである。
この問題を最も突き詰めて考察したカントは、国家の立場で理性を行使することは「理性の私的使用」にすぎないと論破した(啓蒙とは何か)。これに対し、理性をパブリックな目的のために(=公的)使用することが大切なのであり、そのとき、その者は共同体の利害を超え、普遍的な理念に従う「世界市民」であると指摘した。
では、そのような「世界市民」はどこに見出せるのか。それは専門性とも肩書とも無縁である。それは我々の周りのどこにでも見出せる。例えば、鍋や釜の製造者で、ナチス体制という共同体の利害を超え、普遍的な理念に従って、多くのユダヤ人の命を救った無名の人オスカー・シンドラーがその典型である。
したがって、カントが200年前に指摘した、共同体の利害を超え、普遍的な理念に従う「世界市民」の理性・倫理こそ、リスク評価におけるシビリアンコントロールを行使するに相応しい。
そこで、我々は、今後、具体的な場で、この「世界市民」を発見、発明していかなくてはならない。

また、もし、21世紀の憲法改正に何か意味があるとしたら、それは、今や絶大なる軍事力と肩を並べるに至った絶大なる科学力に対する非科学者による科学の統制=世界市民によるシビリアンコントロールを明文化することしか思い当たらない。

(7)、リスク評価の全体構造をめぐる対立・葛藤――倫理・価値を含んだ新しい科学の提唱――
ここで、今世紀の最大の課題のひとつである「絶大なる科学力に対する制御(コントロール)として、どんなやり方があり得るのか」について、興味ある例を紹介しておく。
(5)で述べた、非科学者による統制=シビリアンコントロールの導入という方法以外にも、別なやり方を提唱する者がいる。「モモ」「はてしない物語」の作者であるミヒャエル・エンデである。
彼は、人間の自由、責任、創造力、ユーモア、人間の尊厳が存在する余地のない、これまでの「客観的」な自然科学に対し異議を申し立て、これに代わるオルタナティブな科学の創造を提唱する。
《パウル・ファイアアーベントがその著「方法の強制に反対して」で書いているように、皆さん方親は、自分の子供にカソリックを学ばせるかプロテスタントにするか、あるいは宗教の授業を全然受けさせないかを選ぶことはできますが、自然科学の科目に関しては、選ぶことができません。科学教会の正当主張は普遍性を持ち、情け容赦なく、独占的であります。》(「児童文学をこえて――ポエジーの復権――」1980年)
そして、研究自身の中に、人間の自由、責任などの倫理が含まれている「新しい科学」を創造することの必要性、重要性を説く。これまで、「中立」「客観的」という美しい名の下に、実は、もっぱら経済的関心または軍事的関心から、資金が提供され、研究が進められてきた従来の科学に代えて、人間の倫理、価値観を最初から含んだ、それゆえ経済的利用や軍事利用といった命令では動かない、本当の意味での自由に基づき進められる研究が可能になる新しい科学の創造を提唱する(「アインシュタイン・ロマン6エンデの文明砂漠」138140頁)。
これは、研究対象を、②善(道徳的)的と③美(美的、快か不快か)的関心を括弧に入れてもっぱら①真(認識)の次元で認識することにおいて成立した近代科学に対して、①真(認識)の次元と②善(道徳・法・実践)の次元を統合することを目指す新しい科学の提唱である。その目指すところはよく分かるが、問題は果してこの方法が可能なのかである。かつて普遍性を誇った伝統的宗教=カソリックから、新たな抵抗宗教=プロテスタントが出現したように、伝統的な科学に対して、新たな抵抗科学が出現できるのかどうか。
21世紀はバイオテクノロジーという舞台で人類文明史の総決算が演じられる世紀であり、その正念場の中で、倫理・価値を含んだ新しい科学の出現をめぐって壮大な実験場となろう。

(8)、リスク論の新米学生にとっての最大の躓き――科学の限界を評価する基準の不在――
最後に、リスク論を学び始めた新米学生にとって最大の躓きについて述べる。
リスク論を勉強しようと思ったとき、てっきり、私は、リスク評価というのは、或る化学物質なりバイオハザート(生物災害)について、それが人に及ぼす危険性を科学的に測定すること、つまり科学がその威力を思う存分に発揮する、科学にとってまさに最高の出番の場だとばかり思っていた。しかし、驚いたことに、実際はそうではなく、むしろ正反対であることを知るに至った。リスク評価が最も問題となる場面というのは、実際に測定した値が科学的にみて正しいのかどうかなどではなく、むしろ、そもそもそうした科学の探求を尽くしてみたが、それでもなお、その危険性について確実な判断が得られなかったときであったからである。つまり、科学の力が尽きたところで、初めて、ではこの「不確実な事態」をどう評価するのだ?という判断が問われている問題であることを知った。或る意味で、それは、裁判の世界で、意を尽くして、事実関係の存否を証明しようとしたが、力及ばず事実関係が確定されなかったとき、その「不確実な事態」をどう評価するのだ?という判断が問われるときに登場する問題=証明責任と似ていた。
その意味で、リスク評価とは科学の問題というよりは、科学の限界の問題である。それゆえ、科学の問題に通暁している専門家=科学者であっても、必ずしも科学の限界の問題に通暁しているとは限らない。そうだとすると、私は、これまで、この小論の中では、リスク評価における①真(科学的認識)の次元の判断は、さしあたりその方面の専門家=科学者の手に委ねることを前提にしてきたが、それが必ずしも妥当しないのではないかと疑うようになった。なぜなら、ここで必要な専門家というのは、科学というシステムの内部で優秀であるような科学者ではなくて、むしろ科学の限界といういわば「科学のメタレベルの問題」或いは数学基礎論に対応するようないわば「科学基礎論の問題」に通暁している者だからである。
これを具体的に見てみよう。例えば、GM技術の危険性について、現代の科学ではこれを解明できないという基本的な問題がある。では、どうして現代の科学がこれを解明できないのか。この点は次のように言われている。
《ある特定の遺伝子を組み換えて、本来のゲノムから切り離し、別のゲノムに導入することは、機械的なパーツを取り替えることとは本質的に異なる。なぜなら、遺伝子はそのほとんどが発現(遺伝子コードが転写・翻訳されてタンパク質となること)したあと、ゲノム中の他の遺伝子産物(タンパク質のこと。遺伝子暗号は翻訳されてタンパク質を生み出す。)と相互作用することによって、その機能を発揮するから、局所的な遺伝子の組み換えによって引き起こされるすべての相互作用をあらかじめ予見することはほとんど不可能だからである。
そして、たとえ組み換え遺伝子自体に明白な害作用が予想されなくとも、その遺伝子産物と他の遺伝子産物との相互作用が新たな問題をもたらすことは十分にあり得る。》(遺伝子組換えイネ裁判。2005624日申立書9頁。原文は末尾のURLを参照)
つまり、現代の科学では「すべての相互作用をあらかじめ予見することはほとんど不可能」であり、これが「不確実性」をもたらす。逆に言えば、危険性の測定のために、「すべての相互作用をあらかじめ予見すること」が必要な局面では、そうした測定は不可能である。したがって、危険性の測定のためにこうした予見が必要なGM技術では、危険性の測定は原則として不可能である。
そこで、ここでの問題は、科学の限界により危険性の測定が不可能な場合において、その危険性をどのように評価したらよいかについて、我々がまだ客観的な基準を何も持ち合わせていないことである。たとえて言えば、法律の世界では、裁判で証明を尽くしても事実関係の存否が確定できなかった場合、その不確定な事実については、「証明責任分配の法則」という客観的な基準によって結論を導くことができるが、リスク評価においては、そうして客観的な基準の必要性がろくに議論もされていなければ、むろん確立もしていない。しかし、この客観的な基準がないために、例えばBSE(狂牛病)の全頭検査緩和のリスク評価において、客観的な基準も明らかにされないまま意味不明な結論が、分かりやすく言えば、政治的な圧力だけで結論が導かれたとしか思えない結果となってしまう。「証明責任分配の法則」という客観的な基準が存在する裁判ではそのようなことはまず考えられない。
しかし、その結果、回復不可能な被害を蒙るのは無数の市民である。こうした中世教会さながらの茶番劇にピリオドを打ち、悲惨な事態を防止するために、リスク評価論を一刻も早く近代科学並みの水準にまで引き上げる必要がある。
くり返すが、これは科学本来の仕事ではなく、科学の限界に関する仕事である。しかし、同時に、これは科学的認識が尽きたところで直面するリスク評価において、「不確実な事態」に対していかなる客観的な規準でもってリスクを評価するか、という課題が要求する「最も説得力ある客観的な基準を明らかにする仕事」であり、その意味でこれもまた科学の仕事である。そして、この仕事が②善(道徳・法・実践)の次元における客観的な基準の探求という特質を持つことから、これはかつてのように、科学者だけの単独事業ではあり得ず、前述した「科学としての法律学」の理念の重要性を自覚した他の分野の人たちとの緊密な協同作業によって初めて可能となるものである。
そして、科学は今や「地球上のあらゆる生き物を、1回どころか40回も殺戮することができるまでの力」を持ちながら、「この途方もないことに対抗できる力が、肯定的な面で何かあるかといえば、われわれの科学の潜在的力量の全てをもってしても、化学工業の大成功が根絶やしにしてしまった蝶のたくさんの種類のうちのたった1種類を蘇らせることすらできない」(ミヒャエル・エンデ「児童文学をこえて――ポエジーの復権――」)ものであり、こうした科学に対する市民の不信が頂点に達していると思える今日、この科学的探求こそ、世界の無数の市民がひそかに科学に最も期待している数少ない課題のひとつであり得ると確信している。
以 上


※注釈
注1:農水省 第1種使用規程承認組換え作物栽培実験指針2頁
   http://narc.naro.affrc.go.jp/inada/def-rice6/jikken-shishin.pdf
注2:平成17年度における第1種使用規程の承認を受けた組換え作物に係る. 栽培実験の留意点について
   http://www.s.affrc.go.jp/docs/press/2005/0412/press_050412.pdf
注3:注1の指針同頁


※参考文献
*柄谷行人「倫理21」(2000年。平凡社刊)
*ミヒャエル・エンデ「アインシュタイン・ロマン6エンデの文明砂漠」(1991年。NHK出版刊)
*川島武宜「『科学としての法律学』とその発展」(1987年。岩波書店刊)
*河田昌東「遺伝子組換え作物を考える市民のための勉強会」講義&発言(2005年7月20日上越市)

※遺伝子組換えイネの野外実験差止めを求める裁判の公式サイトは次の通り。
http://gmine.seesaa.net/