2008年9月11日木曜日

「リスク評価」論への戸惑い・翻弄(2008.9.11)

『リスク評価』論への戸惑い・翻弄」青山学院大学総合研究所広報冊子NEW SOKEN2008年所収。

「リスク評価」論への戸惑い・翻弄

「リスク評価」の研究の中間報告めいたものをというリクエストだが、とてもそんなものは書けない。なぜなら、法律家にとってリスク評価は躓きの石みたいなもので、この間、戸惑いと途方に暮れることばかりだから。以下、その戸惑いについて報告したい。

 法律家が「リスク評価」に躓くのは1つには、それが科学に基づくものだからだろう。というのは、法律は何を隠そう、世の中の多種多様な専門分野の中でも最も科学から遠ざかった分野だから。文学でさえ、ピアジェの構造主義やチョムスキーの生成文法、ヤコブソンの構造主義的言語学などの一流の科学的研究の成果を踏まえているのに、法律にはそれすらない(構造主義的法律学すらまだ登場していない。その昔、川島武宜が「科学としての法律学」に挑戦したが、それも彼だけで途切れてしまった)。この夏、法律の最先端分野と言われる特許法を精読したが、発明の機械的、形式的な把握の仕方というレベルの低さに唖然とした。こんな機械的な発想では、最先端の科学や技術の成果である発明の本質にとても肉薄できないだろう、それができないようではいくら法律的な議論を深めていったところで不毛でしかない、と法律の先行きを考えて暗澹たる気持ちにすらなった。

もう1つ、私には個人的な思い込みがあって科学に躓く傾向があった――科学とはもともといかがわしいものである、と。小学校3年生のとき、クラスの女の子から「1+1は?」というトンチクイズを出され、「2だ」と答えると、彼女に「ブブゥ、残念でした。答えは1です」きょとんとする私に向かって彼女は言い放った。「だって、1個の粘土にもう1個の粘土を足してごらん。粘土は1個よ」これ以上完璧な答えはなかった。私は言葉を失った。以来、学校で教える科学と称する学問は、それは単にテストで○をもらうための方便でしかなく、科学は真理とは無縁のものであるというのが私のひそかな確信となった。

しかし、にもかかわらず、私は、現在、科学以上に信頼を置いている分野はない。それは、科学が時と場合によっていかにいかがわしさと隣合せのものであろうが、それがいかにまだ未解明なものを数多く抱えていようが、要するに、ごまんと様々な欠点を抱えていようが、にもかかわらず、それらを上回るただ1つの長所を持っていると思えるからだ。それが証明である。つまり、或る命題が証明されていない限り、科学はその命題の存在を主張することは許されないとしていることだ。それは権威や多数決を否定することである。そのことを教えてくれたのが数学者遠山啓であり、言語学者チョムスキーだった。遠山啓によれば、直角三角形に関するピタゴラスの定理は、経験的には古代エジプトで明らかであったが、古代ギリシャが要求したものは、それを真実であると主張するためには証明することであった。古代エジプトのように、王の権威でもってこれを真実とせよと命ずることを認めなかった。あくまでも証明が求められ、その結果、どこの馬の骨か分からないような人物(ピタゴラス)でも、それを証明し得た以上、受け入れられた。
この証明の精神こそ、過去、現在、未来にわたり科学が信頼を持ち得る殆ど唯一の基準のように思える。

ところが、今はやりの「リスク評価」は、この証明精神を骨抜きにするための、いかがわしさに満ち溢れているのではないかと思うことがある。なぜなら、証明とは、本来、或る命題を積極的に証明することであるのに対し、その反対の命題が証明されていないことを持って、こと足れりとするようなロジックがまかり通っているからだ。例えば、遺伝子組換え生物が外界に及ぼす危険性について、本来であれば、「そのような危険性がないこと」について証明してみせるのが科学である。しかし、世の中で往々にまかり通っているのは、上の命題の反対の命題「そのような危険性があること」を持ち出して、その命題を根拠づけるデータが今のところ示されていないことをもって、「そのような危険性があること」は今のところ証明されていない、だから、「そのような危険性がないこと」と考えてよいという結論、或いはそのような結論を前提にした対策が導かれていることである。これは、あたかもピタゴラスの定理について、「直角三角形の2辺の2乗の和は、斜辺の2乗にひとしい」とは限らないという命題が今のところ証明されていない以上、「直角三角形の2辺の2乗の和は、斜辺の2乗にひとしい」という命題が証明されたと考えてよいというのと同様である。
これはインチキではないか。なぜなら、証明とは元来、その命題を積極的に証明することであって、その反対命題を成立しないことを暫定的、消極的に示しただけでは足りないのは明らかだからだ。

しかし、こうしたインチキが堂々とまかり通っているのを見ると、これは確信犯ではないかとすら思う。つまり、「リスク評価」は科学に基づく必要はなく、単に科学に基づいているように見せかけることができさえすればよいのだ、と。言い換えれば、「リスク評価」は偽装科学が活躍する舞台だ、と。
 しかし、これは何も特別なことではない。マキアヴェベリは、君主論で、君主は聖人である必要はないが、そう見える必要があるということを言っている。それと同じことだからだ。つまり、「リスク評価」もまた科学に基づく必要がないが、そう見える必要がある、そして、それ以上でもそれ以下でもない、と。

 だから、「リスク評価」は本質的に「政治」の領域の問題である。もっと言えば、マキアヴェベリの君主論が、いかにして大衆の指示を獲得するかという「広告」の問題であるのと同様、「リスク評価」もまた、いかにして大衆の指示を獲得するかという「広告」の問題である。
それゆえ、「リスク評価」を有効に分析し、批判するためには、科学者や法律家というより、マキアヴェベリのような冷徹な政治批評家や広告批評家の才能と力量が求められる。もちろん、この指摘自体が、現在「リスク評価」を推進している人たちにとって容認しがたいことだろう。しかし、今まず必要なことは、「リスク評価」のやり方はいかにあるべきかを問うことではなく、現在進行中の「リスク評価」の正体の科学的分析である。それが適正に科学的に分析されれば、そこで、きっと「政治」であり、「広告」であることが明らかにされるであろう。
 つまり、まずは、「リスク評価」が科学であることをまとった「政治」であり、「広告」であることことを知らせないことを止めて、科学であることをまとった「政治」であり、「広告」であることことを科学的に証明した上で情報公開すべきである。

その上で、科学であることをまとった「政治」であり、「広告」である「リスク評価」を、では、どうしたら、よりまともな「政治」であり、「広告」として機能し得るようになるのか、という課題に初めて正面から取り組むことが可能になるだろう。ここでもまた、私は、科学的精神のエッセンスである「証明」が最大の武器になり得ると思う。但し、今度は、「リスク評価」が対象としている遺伝子組換え生物といった不確実な現象だけではなく、それらの開発をめぐる有象無象の利害関係人の利害衝突という魑魅魍魎とした不可解な現象の「証明」である。その意味で、科学的精神の「証明」が活躍する出番はまだまだ無尽蔵にあり、新たなに「政治」の科学者、「広告」の科学者の出番も無尽蔵にある。この意味で、法律家の私に「法律」の科学者として何ができるのか、「リスク評価」を通じて、突き付けられ続けている。
08.08.25 柳原敏夫)

-> 青山学院大学 総合研究所掲載の文「リスク評価」論への戸惑い・翻弄



2008年3月5日水曜日

食の安全と職の安全―法律家にとってリスク評価は対岸の火事か―(2008.3.5)


食の安全と職の安全――法律家にとってリスク評価は対岸の火事か――

昨夏、日弁連の夏季消費者セミナーに初参加し、初めて食品安全委員会の人に話を聞いて、リスク評価を行う食品安全委員会には法律家の委員が皆無だと知った。言うまでもなくリスク評価は純然たる科学的評価などではなく、あくまでそれを踏まえた政策的価値判断である。だとすれば、ここは真理探求を本業とする科学者より、事実認定を踏まえた法的価値判断のプロである法律家が本領を発揮すべき場である。にもかかわらず、法律家が皆無なのはなぜなのか。食品安全委員会が法律家を敬遠するのは理解できるとしても、「それはおかしい」という声が法律家の側で上がらないのはなぜか。

ひょっとして、法律家はリスク評価の取組みを敬して遠ざけているのではないか。昨今の狂牛病に端を発した米国牛肉輸入問題ひとつ取っても、「真理と政策」のはざまで揺れ動く食品安全委員会の科学者の委員たちの狼狽ぶり、混迷ぶりが明らかであり、こんなぶざまな真似を反復したくないと密かに思っているのではないか。確かにこれらの科学者たちは、食の安全のリスク評価に直面して、翻弄されているように見える。しかし、なぜ彼らが翻弄されるのか。もちろん彼らに対して自分たちの科学研究の財布の紐を握っている国・産業界からの有形無形のプレッシャーがあるからだろう。しかし原因はそれだけではない。狂牛病のようなリスク評価は、科学の力が尽きたところで、この「不確実な事態」をどう評価するのかという判断が問われているからである。それは科学の限界に関する問題であり、科学者が翻弄されるのは当然である。しかし科学者の翻弄を法律家は対岸の火事として済ますことはできない。なぜなら、純然たる科学的認識ではなく、社会の対立する様々な諸価値の調整を最終任務とするリスク評価は本来、価値の調整を任務とする法律家のような者たちの職責だからである。法律家が伝統的な職の安全に立てこもることはもはや許されない。

とはいえ、リスク評価は法律家にとっても鬼門である。なぜなら、リスク評価もまた科学者以上に法律家の正体を情け容赦なく暴くからである。200510月、日本初の遺伝子組換えイネの野外実験の差止の仮処分事件(*1)の抗告審で、東京高裁は、組換えイネが作り出すタンパク質(ディフェンシン)が「仮に外部に大量に流出しても耐性菌が出現する可能性は低い」と耐性菌出現の可能性を認め、にもかかわらず住民側の耐性菌の危険性の主張は「杞憂」であると断じた。また、実験の承認申請書に導入する遺伝子をコマツナ由来と書くべきところ、別の植物(カラシナ)由来と記載した事実を認め、にもかかわらず、その事実は承認手続の重大な瑕疵とは言えないと判断した(*2)。それはこれを読んだ科学者たちを唖然とさせた(*3)。裁判所が自ら認定した科学的事実が何を意味するのか自分で全く理解しないまま法的判断に向ったことが歴然としていたからである。裁判官は、科学の限界に関する耐性菌出現も遺伝子組換えの危険性の問題についてもよく理解できなまま、今のところ「危険性を示すデータが検出されていない」だから、「判らないけど、ま、いいか」と実験を許容した可能性がある。それが科学者の厳しい批判にさらされたのは当然である。

法律家は対立する価値を調整し、一見尤もな法解釈技術を駆使するプロかもしれない。しかし、その前提として目の前に起きている科学的事実を正しく認識できないのならその価値はゼロにひとしい。ましてや、この時「危険性を示すデータが検出されていない限り安全である」といった俗論に逃げ込むのは最悪である。認識なき価値判断は空虚である。法律家にとっても試練の時はすぐそこである。
2008.3.5.柳原敏夫)

(*1)公式HP「禁断の科学裁判」http://ine-saiban.com/index.htm
(*2)http://ine-saiban.com/saiban/siryo/Y/051012seconddecision.pdf
(*3)http://ine-saiban.com/saiban/voice-pro.htm

2007年2月19日月曜日

リスク評価論の謎 ―― リスク評価の判断構造の探求 ――(2007.2.19)

リスク評価論の謎 ―― リスク評価の判断構造の探求 ――」雑誌「日本の科学者」2007年5月号所収。


何のためにこんな議論をするのか――これがリスク評価の論文に対する私の率直な疑問・不満だった。本稿は、その不満の原因解明のささやかな試みである。つまり、リスク評価とは本来どのような構造を持った判断なのか。これをチャタレー事件等の芸術裁判における判断の構造と対比する中で明らかにしようとしたものである。
柳原 敏夫
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はじめに
少し前までリスク評価論を曲りなりに勉強してきたが、途中で投げ出した。ズカッと言って、私には時間の無駄としか思えなかった。そこで、この時眼の前に立ちはだかった「なぜ、我々のリスク評価論は深まらないのか?」という謎に向うことにした。しかし、そのためには、一度、リスク評価論の外に出る必要がある。
高校時代、D. H. ローレンスを愛読していて、最初に読んだ英語の小説が「チャタレー夫人の恋人」だった。後年、法律の勉強を始めたとき、最も有名な憲法判例としてこの小説が再登場した。しかし、この有名な最高裁判決は何度読んでも理解できなかった。これもまた私の長年の謎の1つとなった。
しかし、今回、初めて両者の謎がリンクした。

1
 リスク評価論の外―芸術裁判の躓き―

(1) 絵画(模写)をめぐる芸術裁判への不信
 一昨日、最高裁に絵画(模写)をめぐる芸術裁判の書面を提出した1。これは一市民の現在の裁判制度に対する徹底した不信を表明したものである。その真髄は次の通りだ――模写とは絵をそっくりに写し取ることである。だから、原画と似ているのは当然である。だが、本当にそれだけだろうか。似ているで、おしまいだろうか。果してそれに尽きるだろうか。なぜなら、光琳、大観、ゴッホ、彼らのどんな精密な模写といえども、そこには必ず原画との「ちがい」が認められるが、このちがいを当然のこととして「取るに足りない些細なちがい」とは評価できない筈で、いったい、いかなる場合なら「取るに足りない些細なちがい」として無視することができるのだろうか――この原告の根本的な疑問に対し、裁判所は何ひとつ答えることなく、何ら判断基準を示すことなく、単なる印象でもって原告の主張を斥けた。これでは「法(判断基準)による裁判」の放棄である。申立人が上告した根本理由は一審、二審裁判所の「逃げる司法」に対して、最高裁に「逃げない司法」判断を求めるためである。
だが、私自身、まだよく分らないことがある。それは――裁判所は一体どこからどこに逃げているのだろうか。イデオロギー裁判でもない芸術裁判で、あれだけボロクソ追及されたにもかかわらず、なぜ彼らは逃げ続けるのだろうか。ところで、こうした逃走は何も裁判所に限ったことではなく、食品安全委員会でも同様なのではないのか。


(2) 裁判所の逃走経路
裁判所は、どこからどこへ逃亡したのか。この場合、美から善(倫理)へである。つまり、本来であれば、裁判所は、まずは作品の適切な美的判断に向かうべきであった。それを終えてのち初めて、作品の法的な判断に進むことができる。しかし、裁判所は厳密な美的判断を何ひとつしなかった。それをしないでいきなり法的判断に出たのである。それが印象による判断と見えたのは当然である。だから、私は次のように批判するしかなかった。
《通常の裁判と比較し、芸術裁判の大きな特色は、裁判の対象が通常の事実認識(認識的判断)だけでは済まず、芸術裁判の対象である芸術作品を正しく把握するためには適正な美的判断が不可欠だということである。それが、古来、著作権事件のみならず著作権以外の様々な芸術裁判(「チャタレー」事件、「悪徳の栄え」事件など)の審理を著しく困難なものにした2。しかし、裁判制度が芸術を法廷に持ち込むことを認める以上、「適正な美的判断」という課題は回避しようがない(それは、科学が法廷に持ち込まれる以上、「適正な認識的判断」という課題は回避しようがないのと同様である)。裁判所が適正な芸術裁判を実施し、文化の発展に寄与するためには、この厳格な適用が不可避である。
以上の芸術裁判における特色を標語的に言えば、次のようになる。
――美のことはまず美に聞け。それから、善の判断に進め、と。》
しかも、裁判所のこの迷走は今に始まったことではない。1875年、日本の裁判制度が始まって以来今日まで続いている。なぜなら、その迷走が自覚されたことは、ただの一度もなかったのだから。もっとも、それが顕在化したことはあった。「チャタレー事件」と「悪徳の栄え事件」である(1957313日と19691015日の最高裁判決)3, 4。しかし、このとき、芸術家の自由を守ろうとしたリベラル派裁判官は、「芸術性と猥褻性とは別異の次元に属する概念であり、両立し得ないものではない」の多数意見に反発する余り、「芸術性と猥褻性とは別次元の概念ではなく、芸術性が高い作品ではその芸術性により猥褻性が消失することがある」という論理でもって対抗しようとした(裁判官色川幸太郎など)。
芸術家の自由を最大限守ろうとしたリベラル派の動機は理解できる。だが、私には彼らの論理が気に入らない。彼らの論理だと――この作品は素晴らしい芸術的価値がある。だから、これを「猥褻」として処罰するのはおかしい、と。これは芸術を社会的倫理の上に置こうとする芸術至上主義である。だが、目的(芸術)は手段(倫理)を正当化し得るだろうか。そんなことはない。むろん芸術は最大限尊重されなければならない。だからといって、芸術だけが他と異なり、社会倫理から超越して存在する訳ではないからである。
そして、これと同じことが科学でも起きる。この論理を科学に当てはめると――この研究は素晴らしい科学的価値がある。だから、これを「危険」だからいって規制するのはおかしい、と。
リベラル派裁判官の弱点は多数意見の論理の粗雑さを見抜けなかったことにある。芸術性と猥褻性が次元が異なるのは多数意見の言う通りである。しかし、両者はそれだけで済むような単純な関係ではない。両者(美的判断と法的判断)の正しい関係はもっと複雑精妙であり、その正確な把握なしには最終的に適正な判断は導けない。
(3) 美的判断と法的判断の関係
さしあたり、私が考える両者の正しい関係のイメージは次のようなものである。
A.哲学者カントによれば、我々が世界を見、物事を判断するとき、①真(認識的)、②善(道徳的)、③美(美的、快か不快か)という異なる独自の3つの次元の判断を持っている。
 たとえば、「オウム真理教」がマスコミに登場した頃、彼らに対する評価は分裂したが、それは彼らを①「さっそうと出家してスタイルもカッコいい」といった美的に見るか、②その宗教的な教義や実践がいかなるものかという倫理的に見るか、③そのスタイルや宗教的教義にもかかわらず、実際にやっていることはインチキであり、犯罪ではないかという認識のレベルで見るかという違いに由来した。つまり、もともと我々の判断に美的、倫理的、認識的の3つの異なる次元の判断があることに由来するものだった。
B.この3つの次元の判断はおのおの他の次元の判断から独立して存在している。
 映画や小説ではよく美形の犯罪者やヤクザが主人公として登場するが、それらに夢中になる観客は、鑑賞の間、倫理的判断とは別に、美的判断で鑑賞しているからである。だからといって、その観客が普段、犯罪者やヤクザに好意を抱いている訳ではない。彼らは、無意識のうちに、映画館の中と日常とで次元のちがう判断を行使している。
C.それゆえ、或る次元の判断を他の次元の判断をもって省略、代用、置きかえることはできない。
 映画館で美形の犯罪者やヤクザに夢中になったからといって、その観客を倫理がもとるとは誰も非難しない。美的判断と倫理的判断とは元来別の判断であり、両者を混同すべきでないのだから。
D.にもかかわらず、この3つの判断の区別は、日常で必ずしも明確に自覚されているわけではなく、通常、この3つの次元は渾然と交じり合っている。
 例えば、19世紀のフランスで、W. シェークスピアの「オセロ」を上演した際、悪役イアーゴの女房殺しの場面に憤激した観客が俳優を射殺した事件が発生したが、この悲劇は美的判断と倫理的判断とを区別できなかったためである。しかし、簡単にこの観客を笑うことはできない。我々もまた、例えば人を愛するとき、その理由は相手に②善(道徳的)の次元で人間的魅力があるからか、それとも③美(美的)の次元で美的、性的魅力があるからか、さらには両方ともあるからか、愛する本人にもよく分かっていないことが多いように、その区別は容易ではないからである。
E.そのため、本来、或る次元の判断が求められるときに、誤って別の次元の判断でこと足れりとしてしまうことが往々にして起きる。
 かつて、日本で最も自由な教育を行なうと宣言し、斬新な芸術教育で注目を集めた某私立学校で、その後、悪質ないじめや校内暴力が発生し、大量の学生の退学処分の発動を余儀なくされたとき、みずから設立理念を否定するような処置の発動に学校関係者はこぞって途方に暮れたが、その学校を訪れた柄谷行人はこう言った5――いくら自由と自立を尊重するという理想的な教育をしても、いじめや暴力は決してなくならない。もともとそれは人間の攻撃性に由来するものだからです。そこで必要なのは、芸術(音楽、美術、文学)ではなく、むしろ人間の攻撃性を科学的に解明しようとしたS. フロイトです6。いじめや暴力に対してまず必要なのは、美的判断でも倫理的判断でもなくて、科学的判断(認識)だからです、と。
F.しかし、これらの3つの次元の判断をきちんと区別し、それらを自覚的に行なうためには、それ相当の文化的訓練が必要である。
 フランスの美術家デュシャンが「泉」と題して便器を美術展に提示したとき、多くの者たちは眉をひそめ、狼狽したという。しかし、デュシャンは単に《芸術を芸術たらしめるものが何であるかをあらためて問うた》だけである5。つまり、便器という対象に対し、認識的(①真)と倫理的(②善)関心を括弧に入れて見るという芸術本来の判断を求めたにすぎない。しかし、このことを理解するには、それ相当の文化的訓練が要る。
その意味で、もともと科学者もまた、こうした文化的訓練を積んだ者のことである。近代科学は、ガリレオに見られるように、研究の対象を、②善(道徳的、宗教的)的と③美(美的、快か不快か)的関心を括弧に入れて認識することにおいて成立したものだからである。この点で、医者も同様である――産婦人科医は、妊婦を美的或いは性的に見ることを括弧に入れる訓練を積んでいる5。しかし、この訓練がきちんとできていないと、ときとして悲劇が発生する。例えば、外科医は、手術のとき、患者をたんなる手術の対象物として突き離して見る訓練を積んでいるが、身内が患者のような場合には、時として「相手が手術で苦しむのではないか」といった人間的感情を拭い去ることができず、メスの操作が狂うことがあるという。他方、未熟な外科医は、手術が終わったあとでは患者を生きた人間として見るべきなのに、依然、相手を物のように突き放してしか見られない。
G.その上で、②善(法的判断)においては、①真(認識的判断)や③美(美的判断)を基礎とし、それに基づいて、善独自の判断を行なうという関係に立つ。いわば、善(法的判断)の判断の全体は、第一次的に①真(認識的判断)や③美(美的判断)を行ない、これを受けて、その次に②善(法的判断)を行なうという二重構造になっている。
 その意味で、チャタレー事件と悪徳の栄え事件で適正な判断を下すためには、まずは美的判断(作品の芸術性など)を下し、その結果を踏まえて、次に法的判断(わいせつかどうか)に進むべきであった。「芸術性と猥褻性とは別次元の概念だから、芸術性の主張は猥褻性の判断に関係ない」で済むようなのんきな話ではない。それはちょうど、法律上の因果関係の判断において、事実的因果関係の判断(①真)を踏まえて、法的な判断(②善)を行うのと同様の困難さがある。例えば公害事件では、たとえ①真〔認識的判断〕につき、事実上の因果関係の立証が不十分であっても、②善〔法的判断〕においては、言われなき被害を蒙った被害者救済の観点から、ある程度以上の心証が得られた場合には、その得られた心証度の程度に応じて法的な因果関係を肯定するという独自の工夫をこらされることがある7
2 科学裁判の躓き
ところで、以上のことは、何も芸術裁判(美的判断と法的判断の関係)に限らない。科学裁判でも同様である。ここでは、認識しかも専門的分野の認識と法的判断との複雑精妙な関係が問われている。そのことを痛感したのは、200510月、新潟県にある北陸研究センターの遺伝子組換えイネ(GMO)野外実験の差止を求める仮処分事件の二審のときである。これは、ディフェンシンという殺菌作用を持つタンパク質を常時生産する遺伝子組換えイネにより、耐性菌が出現し、地球の生態系と人の健康に深刻な影響を及ぼす危険性があるのではないかということが争われた日本で最初のGMO裁判8だが、申立人の危惧は「未だ証明がない」という一審裁判所の慎重な事実認定に対し、一審より短い期間しか審理しなかった二審の裁判所は、相手方が科学的に公知の理由に基づき「ディフェンシンがイネの細胞から外部に出ないから耐性菌の出現の可能性は皆無である」と主張したのを全面的に採用し、市民や協力する研究者の危惧は「杞憂」にすぎないと断じた9。しかし、実は、相手方の「ディフェンシンがイネの細胞から外部に出ない」という主張の根拠こそ、逆に科学的に公知の事実に基づき成立しないものであることが明らかなものだった10
これほどまで科学的に根拠薄弱な事実認定をいとも自信満々にやってのける裁判所を目の当たりにして、私は自問自答せざるを得なかった――この恐るべき過信はどこからくるのか、と。
 思うに、1つは無知から来るのだろう。それは、前述した認識と法的判断の関係に関する無知である。恐らく、彼らには①真(認識的判断)と②善(法律的判断)の関係、両者の峻別とその関連性について明確な自覚はないだろう(そのことは、チャタレー事件最高裁判決の問題点が何であるか聞いてみれば一発で判明する)。①真(認識的判断)と②善(法律的判断)の峻別の必要性を自覚している者なら、どんなに困難に満ちたものであろうとも、専門的分野の徹底した認識に向かうことの重要性を自覚できる。なぜなら、この認識の次元でミスったら、どんな立派な法的判断を下したところで、取り返しのつかない結果になるからである。それは、事実として犯罪をやっていない者をやったと認定する冤罪を見れば一目瞭然である。
 したがって、二審の裁判所は、事実関係は専門的でどうもよく分らないから適当なところで判断して、あとの法的判断もセンスでまあいいかと下したとしか思えない。というのは、裁判所は、すぐそのあとで、市民が指摘した「相手方は、野外実験の承認を得るにあたって、申請書に本来なら『コマツナのディフェンシン』と書くべきところを、偽って『カラシナのディフェンシン』と書いた。これは重大な違反である」という点について、市民の指摘した事実をあっさり認め「遺憾である」とまで言っておきながら、それに続けて、しかしその違法性の評価については「実験承認手続に重大な瑕疵があるとは評価できない」(13頁)と、なぜこれが重大な瑕疵にならないのか一言も理由を明らかにすることもなく法的判断を下したからである。しかし、これは遺伝・育種学や分子生物学のイロハを知る者にとって驚異=脅威である。たとえ同じアブラナ科の植物とはいえ、コマツナとカラシナではその遺伝子の配列は異なり、それゆえ、コマツナとカラシナのディフェンシンでは、いもち病菌等に対する作用も異なり、それゆえ、遺伝子組換え実験の安全性の確認についても、それぞれ別個独立に検証しなければならないもので、同じアブラナ科の植物だからどちらでもたいした違いはないと評価することなど思いも及ばないからである。これでは、コマツナをカラシナのディフェンシンと偽って記載した事実はないと必死に弁明した相手方もきっと浮かばれないだろう。徹底した事実認識に向かうことの重要性を自覚しない人たちの手にかかると、こうした関係者全員に不幸な事態をもたらす。
3 リスク評価論の躓き
 リスク評価論はこれらの喜悲劇を対岸の火事として済ますことはできない。その出火源は裁判(科学裁判・芸術裁判)もリスク評価も同一である。
つまり、リスク評価論でも、
(a) ①真(認識)と②善(道徳・法・実践)の両方の次元が存在し、(b) 一方をもって他方を省略したり、代用することはできず、必ず両方の判断を行なう必要があり、(c) おのおの判断においては、それ以外の次元(①真〔認識〕であれば、②善と③美。②善〔道徳・法・実践〕の次元であれば①真と③美)を括弧に入れて判断する必要があり、(d)、両者の関係については、①真〔認識〕の判断を基礎として、それに基づいて、次に②善〔道徳・法・実践〕独自の判断に進むという手順を取る必要がある。つまり、リスク評価とはこうした二重構造を持った善の判断の一つである。
ところで、①真(認識)の判断なら、その適正な判断のための文化的訓練を積んだ者=科学者がおり、③美の判断なら、その適正な判断のための文化的訓練を積んだ者=芸術家がいる。しかし、本質は②善(倫理・法・実践)の領域の判断である「リスク評価」について、上述の科学者や芸術家に匹敵するような、その適正な判断のために必要な文化的訓練を積んだ者はいるだろうか。
現在、リスク評価に関わる大部分の人たちは、リスク評価の対象となる分野の科学者、研究者たちである。しかし、彼らは①真(認識)の判断ならその適正な判断のための文化的訓練を積んだかもしれないが、②善(道徳的)の次元の判断については別に特別な訓練を受けてきた訳ではなく、素人同然の筈である。
ましてや、二重構造を持った善の判断において、最初の①真(認識的)の次元の検討で、その方面の専門家として判断を下しておきながら、引き続き、これとは独自の判断である②善(道徳的)の次元の検討で、善に関する文化的訓練も受けていない彼らに、①真(認識的)の関心を括弧に入れて、自ら下した認識的判断を引いた目で適正に判断することを期待できるだろか。実際は、最初の①真(認識的)の次元の検討で出した結論を、そのままズルズルと②善(道徳的)の次元の検討でも肯定してしまう可能性がかなり高い。なぜなら、最初に自分たち自身で検討して確信をもって導き出した認識的判断を、次の②善(道徳的)の検討において、これを否定することも含めて突き放して判断することは、そうした文化的訓練を受けたことがない人には、人性の本質上まず不可能であると言うほかないからである。その結果、このとき、彼らは、いわば善(倫理・法・実践)から真(認識)へ逃亡する恐れが高い。
さらに、リスク評価が実際に問題となる場面とは、そもそも科学の探求を尽くしてみたが、それでもなお危険性について確実な判断が得られなかったときである。つまり、科学の力が尽きたところで、初めてこの「不確実な事態」をどう評価するのかという判断が問われる時である。だから、リスク評価の場面とは厳密には科学の問題ではなく、科学の限界の問題である。その意味でも、科学者がリスク評価の判断者として相応しいとは限らない。科学の問題に通暁している専門家=科学者が必ずしも科学の限界の問題にも通暁しているとは限らないからである。
その意味で、リスク評価の判断者として相応しい人とは、科学というシステムの内部で優秀である科学者ではなくて、むしろ科学の限界といういわば「科学のメタレベルの問題」或いは数学基礎論に対応するようないわば「科学基礎論の問題」に通暁している者である。
では、②善(道徳的)の領域の専門家である法律家はどうだろうか。
確かに、法律家は善(法的)の適正な判断のための文化的訓練を積んだ者である。しかし、すでに見た通り、20世紀までの法律家は、一般的、日常的な事実を前提にした②善(法的)の適正な判断の文化的訓練を積んでいるかもしれないが、いったん科学的、あるいは芸術的に専門的な事実になるや、その文化的訓練は発揮されないにひとしい。それは彼らが前述の文化的訓練の何たるかを殆ど自覚していないからである。だから、従来の法律家では科学的な専門的知見が前提となるリスク評価では使い物にならない。このとき、彼らは、前述の研究者たちとは反対に、真(認識)から善(倫理・法・実践)に逃亡するだろう。
おわりに
もう一度くり返すが、リスク評価の本質は善(倫理・法・実践)の問題である。
しかし、それを適正に実行するためには、その前提として、「不確実な事態」という原因の徹底した認識に向うことが不可欠である。それには科学というより科学の限界に通暁し、かつ真(科学)の文化的訓練を受けた専門家が不可欠である。
しかも、次の善(道徳・法・実践)の検討では、改めて、その方面の文化的訓練を受けた別個の専門家により行なう必要がある。さらに、真(科学的認識)の判断を基礎にして初めて善の適正な判断が可能となるのであって、そのためには、彼らも予め真(科学的認識)の判断を十分正確に理解しておく必要がある。
したがって、これを一人二役でこなすことは実際上不可能である。そこで、リスク評価には少なくとも上述の2種類の専門家同士の緊密な協働作業(=ネットワーク)が必要不可欠である。

注)   

1http://naha.cool.ne.jp/llw/Art/070207appeal.pdf

2)悪徳の栄え事件の弁護人大野正男は「フィクションとしての裁判」の中で、被告人の澁澤龍彦も検察官も猥褻の有無をめぐって、途中から「永遠の水掛論」をやっている無力感、徒労感に襲われてしまったと、芸術裁判の困難さを率直に表明している。それをどう克服すべきか、それが私にとって関心事だった。しかし、それは遂に示されぬまま、氏は2006年暮れ永眠された。

3http://www.kyoto-su.ac.jp/~suga/hanrei/29-3.html

4http://www.kyoto-su.ac.jp/~suga/hanrei/30-3.html

5)柄谷行人は批評家。カントとフロイトを論じた「死とナショナリズム」(2003)、「倫理21」(2001)など多数の著作がある。.

6S. フロイトは精神医学者。「精神分析入門」(1917)、「快楽原則の彼岸」 (1920)など多くの和訳書がある。

7)もし実損害が百万円で、心証度が80%なら80万円の損害を認め、心証度が40%なら40万円の損害を認めることになる。    
8)その公式HPは、http://ine-saiban.com/  
9 http://inesaiban.com/saiban/siryo/Y/051012seconddecision.pdf 3頁                  
10)  http://inesaiban.com/saiban/siryo/X/051104speKokoku-reason.doc 1112

2006年3月10日金曜日

禁断の科学裁判の再定義(2006.3.10)

報 告
~遺伝子組み換え稲屋外実験差し止め訴訟、一審裁判の概要~
法律家 柳原 敏夫
目 次

第1、はじめに――知財の時代とは知罪の時代のことか――
たった今、安田節子さんから、「種の支配」ということについて興味深いお話があったので、私も触発されて、これについて、あれこれ思いをめぐらしていました。

全然話はちがいますが、私は、これまでずうっと著作権だけを専門にやってきた専門バカの手本みたいな法律家です。それで、著作権だけでメシを食おうと思うと、少なくとも日本では、一般市民はむろんのこと、個人のクリエーター、アーティストをクライアント(依頼者)にしてもやっていけないので、企業をクライアントにするしか方法はありませんでした。そこで、ご多分に漏れず、私も当初、企業をクライアントにして著作権の仕事をしてメシを食おうと取り組んできたのですが、それが軌道に乗り出すと、今度は途端に著作権の仕事がつまらなくなりました。理由は簡単です、仕事の大半が、弱肉強食の論理で、弱い個人のクリエーター、アーティストを食い物にするような仕事でしかなかったからです。言ってみれば、モンサントの代理人みたいなものです。こんなもんが面白いはずがない。そこで、私に法律の仕事の面白さを開眼させてくれた映画監督の新藤兼人さんや仕事で知り合った脚本家の中島丈博さんたちに興味を持つようになり、彼らの仕事ぶりを知るにつけ、初めて、日本のインディペンデントといわれる人たちがいかに悲惨な状況に置かれているかを知らされ、そこでは、彼らこそ価値の創造者(=著作物の制作者)であるにも関わらず、自由な契約の名の下に、著作権が問題になる余地すらなく(なぜなら、著作権は企業に帰属するから)、こうした人たちが直面する法律問題とは倒産、自己破産、失踪宣告といったことを初めて知らされました。いわば「橋のない川」の人以前の隷属状態に置かれた彼らの惨状を知って、ここに著作権の真の課題があり、なおかつこの解決は容易ならざる問題であることを思い知らされました。

その解決の方向は、万国のクリエーター、アーティスト、団結せよ!にしかなかったのですが、しかし、それは、従来の労働運動の延長の、単なる経済的条件の改善ではもはや解決になりませんでした。というのは、今や、クリエーター、アーティストたちは、彼ら自身が生み出そうとする価値の中身自身を改めて吟味しなければならない地点にいたからです。この「価値の再吟味」は様々な論点があるでしょうが、そのうち最大の課題として、クリエーター、アーティストたちは、いったいどのような社会システムの中で作品を生み、提供する積りなのかが問われました――つまり、今の「大量生産、大量消費、大量廃棄」のシステムの中で引き続きやっていく積りなのか、それともこのシステムから脱出する積りなのか、という選択です。この選択によって、彼らのライフスタイルが180度変わってくるからです。

私もまた、様々な紆余曲折の中で、「大量生産、大量消費、大量廃棄」のシステムとおさらばしたいと考えるクリエーター、アーティストたちの願い――お金よりは、自分が真に作りたいと願う作品を作り続け、それを真に望むユーザの元にちゃんと送り届けられるシステム、いわばクリエーター本位のコンテンツの産地直送システムを選択したいという彼らの願いを(ささやかながらも)サポートする仕事を自分の著作権の仕事の中に見出すことができるようになりました(もちろん、その取り組みはまだ始まったばかりですが)。

同時に、こうした新しい仕事を発見するにつけて、そのような新しい立場から眺めてみると、改めて、自由競争という美名の下に置かれた著作権業界のあこぎな世界がますますクリアに見えてくるようになりました。

著作権で最も欠けている議論はパブリックという問題です。憲法ですら、29条2項で、「財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。」と、財産権の内容・支配がパブリックな領域に及ぶときには、公共の福祉に適合するようにおのずと制限されることが明確にうたわれています(もちろん、この「財産権」は不動産や動産といった伝統的な有体物の所有権等に限らず、著作権や特許権などの知的財産権、無体財産権も含みます)。にもかかわらず、知的財産権では、海賊版を撲滅せよ!といった権利の完璧な保障のことばかり声高に叫ばれ、知的財産権の公共性(パブリックな性格)のことは一言も話題にされません。

その結果、どういう事態になったかというと、例えば、たかだかOSというパソコンの心臓部分を作っただけの会社が世界一の企業になるという、それまでの産業の常識が通じないようなビックリ仰天の事態が出現したのです。ビル・ゲーツ氏率いるマイクロソフト社です。なぜ、CD-ROM1枚に収まるだけの情報を作っただけの会社が、世界一の企業になることができたのか?それは彼らの作ったウィンドウズというソフトが著作権で守られたからです。しかし、単に著作権で守られたからではありません。それだけでは世界一の企業になれるはずがない。そのためには、彼らの制作したウィンドウズというOSのソフトが、一方で、その果している役割が今や我々の日々の社会生活にとってなくてはならないツールというよりインフラになっており、その意味で、今日の情報化社会において、我々の社会生活の電気、ガス、水道、電話といった有体物のインフラと同じような役割を果していながら、他方で、その極めて高い公共性のことは一言も口にせず、ひたすら、ただの著作物一般と同様な扱い、つまり好きなように作り、好きな値段で、好きなだけこれを売ることができるという自由放任のやり方を貫徹することでした。もともと、コンピュータのソフトは著作物と言われるものですが、しかし、パソコンのOSのソフトはゲームのソフトや映画などとは根本的にちがうのです。人はゲームソフト「ファイナルファンタジー」や宮崎駿さんのアニメ「風の谷のナウシカ」を1日みなく(しなく)てもやっていけるでしょうが、今や、多くの人はOSのソフトを1日でも使わずにはやっていけません。

だから、このような状況を正しく理解した誰かが、もし、
「パソコンのOSって、今では社会生活の電気、ガス、水道、電話といったインフラと同じじゃん。だったら、そのパブリックな性格に相応しい扱い、規制があって当然じゃん」
と問題提起したら、それはきっと多くの人たちの賛同を得られ、その結果、
「パソコンのOSは、今や社会生活の電気、ガス、水道、電話といったインフラと同じ機能を果しており、その極めて高い公共性にかんがみ、パソコンのOSの価格、その売り方についても、制作者が自由に決めることはできない」
という方向に議論がいくと思います。マイクロソフト社はこうした議論を最も恐れた筈です。なぜならこれは真理だからです。しかし、私が知る限り、そうした議論は日本では起きなかった(その最大の原因は、狂牛病問題などで問題の本質をズケズケ指摘した専門家に匹敵するような現代法の専門家・法律家が我が国にはひとりもいなかったからです)。その結果、もっけの幸いで、マイクロソフト社はウィンドウズに好きな値段をつけて好きなだけ売りさばき、ボロ儲けすることができた。言ってみれば、水道水に好きな値段をつけて売りさばくようなものです。これは魔法です。これで世界一の企業になれなかったらそれこそおかしい。

こんな魔法のようなボロ儲けの方法ができる時代のことを巷では「知財の時代」と呼ぶのです。そうだとしたら、こうした手法を真似しない手はありません。つまり、その本質は、決して個人的な財産ではなく、むしろ社会生活の電気、ガス、水道、電話といったインフラと同じ機能を果しているにもかかわらず、その本質を消し去って、それをあたかも個人的な財産と同じようなものとして偽装して、好きな値段をつけ、自由に売りさばくことができるようにするという戦略です。規制緩和という時の政府のうたい文句も、この魔法を下支えしました(日本のビル・ゲーツをめざしたホリエモン君の魔法が失敗したのはその手口がさすがに余りにザルだったからですが)。

今、安田さんの話を聞いていて、この手法をバイオテクノロジーの分野で応用しようとした最たるものが「種の支配」、しかも、人々がそれなくては1日もやっていけない主食の「種の支配」のことではないかと思いました。つまり、主食の種はその本来の性格からして、極めて公共性の高いものであって、それに対する特定の者による独占的な支配は厳しく排斥されなければならない。しかし、バイオテクノロジーのマイクロソフトをめざす企業たちは、きっと、パソコンのOSの成功例にあやかって、我こそは、そのパブリックな性格を消し去って、主食の種に対する独占的な支配を確立し、なおかつ好きな値段をつけ、自由に売りさばくことができるようにしたいと目論んでいる筈です。幸い、今はまだ、規制緩和という下支えもあるし、知的財産権の公共性というヤバイ問題を指摘するような専門家はどこにもいないのだから、今のうちにどんどん推進して、とっととドリームを実現しようぜ、と(市民からみれば、これこそ「わが亡きあとに洪水は来れ」の連中だ)。

ところで、今回の上越の遺伝子組み換えイネの実験を推進する人たちも、知的財産権で守られたそうしたドリームを追い求めているのではないかという疑いは、例えば、彼らのHPにおける以下の実験の紹介文からも拭い去ることができません。
平成15年12月22日
「我が国独自の技術で安心な組換えイネを開発」
【独自に開発した新技術】
‥‥‥‥
3)野菜から取り出した病気に強い遺伝子の詳細北陸研究センターでは、複数のアブラナ科野菜からイネに複合病害抵抗性を付与できる抗菌蛋白質ディフェンシン遺伝子を独自に単離してきました。その中から、カラシナ由来のディフェンシン遺伝子が複合病害抵抗性付与に最も効果の高いことを確認し、本研究に用いています(特許出願公開中:特開2003-88379)。
 従来、イネへの病害抵抗性の付与効果が検証されている遺伝子は限られており、しかもそれには既存特許等の問題が残されていました。

つまり、今回の実験推進の根本的な動機がここに紹介した知財の時代の「魔法のようなボロ儲け」の夢にあるのではないかということです。なぜなら、今日、「知財の時代」で叫ばれているキャッチフレーズは、もっぱらコインの表である「インセンティヴ(励み・動機)を保護する」だけ、つまるところ、「額に汗した者が報われるように知的財産権をきっちり保障しろ!」という保護の貫徹でしかありません。もう一方のコインの裏に書かれている「財産権といえども、そのパブリックな性格に相応しい規制を免れない」という社会的な理念は完全に抜け落ちています。その結果、彼らの頭に「独自に開発した新技術」に相応しい報酬のことしかないとしても不自然でも何でもないからです。彼らに言わせれば、ビル・ゲーツだって、好きな発明をして、好きな値段をつけて、好きなだけ売って、ボロクソ報酬を得たんじゃない。なんで、俺たちがそれをやっていけないのか!と。

さらに、このことは、これまでの裁判の中で、自分たちの実験の安全性について、これを明らかにするデータをちっとも提出しようとしなかった彼らの態度と首尾一貫しています。かれらは、一方で、これは「国家的プロジェクトだ」と声高に叫びながらも、にもかかわらず、この実験のパブリックな性格については恐ろしいほど無自覚でした。それは、彼らが、自分たちの特許(知的財産権)のことを、単純に、これはオレたちのものだ!としか考えておらず、その知的財産権の公共性について何ひとつ思い至っていないという正体をはしなくも如実に明らかにしたものでした。

もっとも、この無自覚を彼らだけのせいにすることはできません。なぜなら、彼らもまた、単に「知財の時代の常識」に従っただけとも言えるからです。では、いったい誰がどんな風にして、普通の市民からみて非常識とも言える「知財の時代の常識」を作り上げてしまったのでしょうか。

憲法のイロハを学ぶ者は、誰でも、近代の人権の歴史として、形式的な人権の保護(自由権)を中心に構成された19世紀の自由国家的人権宣言から、実質的な人権の保護(社会権)を中心に構成された20世紀の社会国家的人権宣言に発展したことを教えられます。それは当然の真理として、あたかも普遍的な歴史の法則のように語られます。しかし、これを単なる歴史の自然法則のようなものと考えることは完全な誤りです。なぜなら、人権の歴史は決して自動的に実質的な人権の保護(社会権)に移行したわけではなく、そこには、それまでの形式的な人権の保護(自由権)の貫徹により生じた様々な矛盾、不幸、災害に対する人々の数知れない異議申立ての声の中で初めて取り上げられ、実現されるに至ったものだからです。実質的な人権の保護(社会権)は自然法則の産物ではなく、まさに市民の異議申立ての声が勝ち取ったものです。

そうだとすれば、情報化社会の幕開けと共に脚光を浴びた知的財産権について、今日までそれが形式的な人権の保護(自由権)の域を出ず、実質的な人権の保護(社会権的な)の面にちっとも光が当たらないとしても不思議でも何でもありません。なぜなら、これまで、市民はもちろんのこと、現代法の専門家でもそのような異議申立ての声をあげた者は誰一人いなかったからです。もともと、人権の歴史は自動的に実質的な人権の保護(=パブリックな性格)の側面に光があたるものでは全くないからです。黙っていたら、暗黒のアフガニスタンみたいに、ずっと形式的な人権の保護(=強者の権利保護)だけがのさばり続けます。

 もともと紛争は人生のリトマス試験紙です。それは、そこに関わるすべての関係者の正体(裁判官すら例外ではない)を情け容赦なく暴き出すからです。その意味で、今回の裁判は、「知財の時代の常識」の上にあぐらをかいている被告のみならず、「知財の時代の常識」自体に対しても、そもそもお前は本当にコモン・センスなのか?が問い直される裁判でもあります。なぜなら、今回の裁判を通じ、これだけ地球という生態系と人類の子孫への脅威の可能性を帯びた実験であることが指摘されたにもかかわらず、もし研究の自由と知的財産権の名の下に、こうした実験が事実上野放しのまま容認されることになるとしたら、「知財」(知的財産)とはまさに「知罪」(=知的犯罪)のことであると言うほかなくなるからです。
 
 世の中には、これまで、形式的な人権の保護(自由権)の横暴に対抗してそれはおかしいと声をあげる法律の専門家(法律研究者、労働弁護士、市民弁護士)が少なからずいました。しかし、少なくとも知的財産権に関していえば、その横暴に異議申立ての声をあげる法律研究者、市民弁護士は日本ではゼロです(今や知的財産権を専門と称する弁護士はごまんといる筈なのに)。これは現代法の暗黒時代というほかありません。2年前、たまたまジェレミー・リフキンの「バイテク・センチュリー」を読み、バイオテクノロジーをこのまま自由放任にしていけば、早晩、必ず、第2のチェルノブイリのような惨憺たる事故が起きるだろう、そのとき、人類は痛切な反省をして、生態系や未来の子孫への配慮という実質的な人権の保護(社会権)に向かうことになるだろう、しかし、果してそのような悲劇を反復しなければダメなのか、それでは遅すぎるのではないか、と感じ、バイオテクノロジーの知的財産権の市民弁護士が誰もいないのなら自分がなるしかないと思いました。そしたら、その翌年、今回の裁判が勃発したのです。私は新藤兼人と同様、神も仏も信じませんが、今回だけは、何か神や光のようなものを眼の前に感じました。だから、新藤兼人を見習って、無謀、無頓着、無思慮の「三無主義者」として行動したのです。
 
その意味で、今回の裁判は、21世紀の日本のみならず世界の方向を決定づけるような、また、私にとっても自分の後半生を決定するような意味を持つものだと感じています。

昨年年4月、独立行政法人 農業・生物系特定産業技術研究機構の北陸センター(上越市)は、突然、そのHPで、同センターの実験農場で、カラシナから取り出したディフェンシン遺伝子[1]をイネに導入して、いもち病や白葉枯病に強い遺伝子組替え(以下、GMと略称)イネの実用化に向けた試験栽培をすることを発表しました。

この事実を知ったGM作物の危険性を危惧する多くのコメ生産者や消費者,流通団体は、この野外実験に反対の意思を表明し,その中止を求め続けてきましたが、同センターは、6月29日にGMイネの2回目の田植えを強行しようとしました。
これまで、GMイネの野外実験は、これに反対する生産者や消費者の意見を受け入れ、中止されてきました。GM作物の予見不可能性[2]から生じる未検証の危険を重視する市民の声を尊重し、反映させたいわばリスクコミュニケーションが図られてきたのです。
ところが、今回は、カラシナ由来のGM技術が彼らの自前の特許ということもあってか、これを不安視する地元農民や消費者の声に全く耳を傾けず、危険な野外実験を強行しようとしたのです。このような,安全を軽視した科学技術万能思考に対して,科学者と市民との本来的なリスクコミュニケーションのあり方を問うべく,やむなく,GMイネの試験栽培の中止の裁判(緊急のため、仮処分申立て)を,実験農場地を管轄する新潟地裁高田支部に起こしました。これがことの発端です。

(1)、当事者
申立人:生産者(上越市の農民)と消費者(現地の米を購入している新潟の生協の組合員)12
相手方:独立行政法人 農業・生物系特定産業技術研究機構
(2)、舞台:同センターの実験農場(「高田圃場」)一画約0.5アールの田
(3)、申立人の要求
第一次的=GMイネの試験栽培を中止すること。
第二次的=試験栽培したGMイネの病原菌への耐性試験(いもち病や白葉枯病の菌の噴霧)を中止すること。
      試験栽培したGMイネをただちに刈り取ること。
(4) その理由
今回のGMイネ野外実験は、GM技術そのものの危険性に加え,野外実験が正当化されるために必要な条件を充たしていない。
ア 実験目的に正当性を見出しがたいこと
       従来の品種改良により同一の目的を達成したイネの存在。
       いもち病被害の現状(1・8%)から危険なGM技術を駆使した品種改良の必要性に乏しい。
       ディフェンシン遺伝子挿入イネの病害耐性そのものが検証されていない。
       本試験栽培では,周辺イネとの交雑の可能性が検証できない。
 イ 試験にともなう危険発生の防止が不十分なこと
       耐性試験のために実施されるいもち病や白葉枯病の菌の噴霧による周辺作物等への影響
       利用されるディフェンシン遺伝子もしくはモディファイド・ディフェンシン遺伝子の有用性,安全性の検証がなされていない。
       本GMイネそのものの安全性審査が未了ないこと(ディフェンシンのヒト細胞への影響は不明であるし,ディフェンシンを非食部分にとどめておくことは困難であるにもかかわらず,この点の検証が全くなされていない)
       ディフェンシンに対する耐性菌の出現の可能性があり、その危険性が大問題。
(5) 実験を差止める必要性
  本GMイネは開発の必要性に乏しいばかりか,野外実験をするに足る前提条件を充たしておらず,そのリスクは,すべて周辺農民や消費者が負っている。健全な食品の生産と消費は,個人の生命・健康を維持し,地球環境を保全するという意味において持続可能な社会の基礎をなしており,食品の安全・安心をめぐっての専門家と市民とのリスクコミュニケーションのあり方については,BSE問題をはじめてとして,さまざまな分野で活発な議論がかわされている。
このようななかで、あまりに技術開発に偏重した本試験栽培は,1992年のリオ宣言の第15原則(予防的取り組み)を無視した違法なものであり,過去の食品被害事件と同様な過ちを犯す危険・不安をぬぐうことができない。この危険,損害を回避するには事前の差し止めが必要である。

(1)、答弁書で明らかにされた相手方の態度
 最近まで農水省の研究機関であり、今回の実験のことを自ら「国家プロジェクト」と豪語して憚らない相手方の北陸研究センターは、今回のGMイネの実験の危険性の問題について、本来なら、市民の納得がいくようにきちんと説明を果す責任があります(説明責任)。裁判はむしろ、同センターにとって、その責任を果す格好の場でもあったのです。
 しかし、始まった裁判において、同センターの態度は、
《耐性菌の出現の余地は科学的になく、また実際耐性菌の出現についての報告もない》(答弁書12頁)
と「偽装」の主張を行ない(のちに、耐性菌の出現を報告した論文が判明したから)、その上、
《万が一ディフェンシン耐性の菌が出現したとしても、現行農薬に対する耐性菌ではないため、現行農薬で十分対処できる》
と、世界中の研究者たちが「人を含む自然界と生態系に大変な脅威をもたらす恐れがある」と指摘している問題を、単にイネの問題としか捉えず(しかも、農薬をまけば問題ないとは、一体「環境に優しい」という彼らのうたい文句はどこに行ったのか!)、挙句の果てには、
《本申立は、本実験を批判し、批判を喧伝する手段の一つとして行われたとしか考えられず、手続を維持するだけの法律上の根拠は全く認めることができない。いずれにせよ、本申立においては、そもそも一般的な高等教育機関で教授ないし研究されている遺伝子科学の理論に基づいた主張を展開しているものではなく、遺伝子科学に関し聞きかじりをした程度の知識を前提に特定の指向をもった偏頗な主張を抽象的に述べているに過ぎず、また法的に考察しても非法律的な主観的不安を書きつらねただけのものとしか評価しようがなく、債務者としてはかような仮処分が申し立てられたこと自体に困惑するばかりである》(答弁書19頁)
と、素人の聞きかじりの知識による裁判のために、崇高な国家的プロジェクトが妨害されるのは心外極まると言わんばかりの高圧的な態度を表明しました。
同センターは、HPなどでは「適切な情報公開・提供に努めます」と美しいコトバを表明していて、そのくせ、各論でいざ市民から実験の危険性を具体的に指摘されると、手の平を返したように「特定の指向をもった偏頗な主張を抽象的に述べているに過ぎず‥‥かような仮処分が申し立てられたこと自体に困惑するばかりである」と開き直って見せる欺瞞の典型例というべき態度を取ったのです。

(2)本裁判の審理の最大の特徴―科学裁判の本質―とそれに対する相手方の態度
 本裁判の争点は本野外実験の安全性の有無であり、その判断に必要な証拠はすべて相手方が握っていました(証拠の偏在)。これが本裁判も含めた科学裁判の最大の特徴です。だから、本来であれば、証拠を一手に握っている相手方は、原則としてそれをすべて公開し、市民の不安を払拭する重大な責任があるのです。にもかかわらず、相手方は、最後の最後まで、本野外実験の安全性の有無の判断に必要な証拠を開示しようとしませんでした。これが本裁判の審理の最大の特徴です。

 これは、農水省が、GM作物の野外栽培実験指針として明らかにした、
「計画書について意見が寄せられた場合には、計画書に記載した内容について、科学的根拠や関連する情報をわかりやすく説明するなど、情報提供と意見交換に努めること。」
に真っ向から反するものです。

 これはまた、相手方が自ら、センターニュース本年6月号でも表明している、
適切な情報開示・提供  
 GM作物及びこれらを利用した食品について、国民の皆様のご理解が十分に得られているとは言い難い面もあり、例え研究段階の実験であっても、農林水産省の栽培実験指針では、より積極的で透明性をもった情報提供に努めることがうたわれています。
 そこで、‥‥本実験は一般に公開しながら進めていくことを原則としており、今後も見学会を開き、実験の経過の公開など、適切な情報公開・提供に努めます」
にも反するものです。
加えて、相手方は、今回の実験は、国家的プロジェクトであることを冒頭から強調し、その公共的性格と重要性をアピールしてやまなかったのですが、そうであるならばなおのこと、最も公共的な問題である「本野外実験の安全性の有無」について、速やかに最大限の情報公開を行なうべきでした。
 にもかかわらず、(本当にこんなことができるのかと未だ信じられないくらいだが)相手方は、本裁判において、そうした情報公開を一切しなかったのです。これでは、情報公開の「偽装」だと言われても仕方ないのではないでしょうか。
 民主主義の根幹をなす最重要な原則である情報公開において、一般論としての美しい言葉と、実際上における完璧なまでに裏腹の態度、これが本裁判の審理における最大の特徴であり、こうしたサポタージュは今後、二度とあってはならないことです。

(3)、本裁判の具体的な争点――本野外実験の安全性について――
(1)、本野外実験の安全性の有無について、申立人は、当初、次の3つの観点から、主張・立証しました。
①.第1に、室内実験において本GMイネの安全性・問題点を十分に詰め、解決していない現段階で、野外実験に移行するのは時期尚早であり、その危険性の点から許されないこと。
②.第2に、その本野外実験の交雑防止GMイネの花粉が一般イネと受粉するのを防止)やディフェンシン耐性菌(ディフェンシンの殺菌作用に対し、これに抵抗するような性質を獲得した菌)の出現・流出・伝播などの安全対策の点において見過ごすことのできない不備があり、その危険性の点から許されないこと。
③.第3に、他方で、こうした問題の多い本野外実験を敢えて推進する積極的な必要性・有用性が認められず、またそれを実証するデータもないこと。

(2)、審理の結果、最終的に、次の2つが重要な争点となりました。
ア、本野外実験の交雑防止策が安全性の見地から十分かどうか。
イ、ディフェンシン耐性菌の出現・流出・伝播の危険性とその安全対策が十分かどうか。

(4)、主要争点1(交雑防止策)に対する双方の主張
(1)、相手方の主張
 当初、本来1つの措置で十分安全性は確保されているが、万全を期すために重畳的に次の3つの対策を講じるとしたが、
 (a)、距離的な隔離(一般農家のイネと間に十分な距離を置く)
 (b)、時期的な隔離(一般農家のイネとの出穂期間との間に十分な期間を置く)
c)、物理的な隔離(花粉が飛散しないように、袋がけ等の物理的措置をする)
(a)と(b)について、その不備が明らかになるや(例えば、(b)については、最終的に、一般農家のイネとの出穂期間のズレがわずか1日しかないことを認めた)、最終的には、
c)、物理的な隔離の完璧さ
を全面に出し、当初の「袋掛けするかまたは組換え個体栽培区を不織布等で覆う」を「袋掛けし、なおかつ、組換え個体栽培区を不織布等で覆う」という二重の防止策に変更し、最後の防止策にすべてを賭ける態度を表明しました

(2)、申立人の反論
 しかし、この二重の防止策は、
(ア)、もともと花粉の交雑防止策は万全でなければ意味がないが、イネの花粉は、文献上、最長50時間生存することを考えると、相手方の二重の防止策でも、実験の観察のため人がネット内に出入りする以上、なお完全に交雑が防止されるとは到底言えない。
(イ)、かといって、完全な交雑防止のためにネット内に一切出入りしないとなると、今度は、イネの開花予想時期の20日間、全く観察ができず、白葉枯病の観察という彼らの実験目的が全く達成されない。
(ウ)、このジレンマは、野外実験をやる以上解決不可能な問題であり、それを解決しようとしたら、野外実験上に室内実験場を建設するしかない。しかし、これはもはや、野外実験の放棄である(相手方の今回の二重の防止措置も殆ど【野外実験上に出現した室内実験場】に近い)。
二重の防止策を施した野外実験場を外から撮影。 


同じく内部から撮影。【相手方のHPより】

(5)、主要争点2(ディフェンシン耐性菌の出現・流出・伝播)に対する双方の主張
(1)、申立人の主張
①.既に、実験室でディフェンシン耐性菌が出現した複数の報告があること。
②.したがって、本野外実験でも、ディフェンシン耐性菌が出現する可能性が高いこと。
③.出現したディフェンシン耐性菌が大変危険なものである可能性があること。
④.ディフェンシン耐性菌が本野外実験上から外部に流出・伝播する危険性があること。

(2)、相手方の反論                        
「本野外実験で、ディフェンシン耐性菌の出現の危険はない、つまり出現の可能性はゼロである」
なぜなら、
(a)、これまで、自然界(カラシナ)でディフェンシンという蛋白質が存在してきたが、そのことにより、ディフェンシン耐性菌が出現し、大問題になったという報告は過去一度もなかった、だから、今回の野外実験もまた、そうした心配は無用である。
(b)、上記①の報告は他の生物相等の環境影響の存在しない、およそ自然界とはかけ離れた、特殊な、人工的環境の下で実験を行ったもので、本野外実験のような自然界における耐性菌の出現の根拠にならない

(3)、申立人の再反論
(a)について
 今回の野外実験におけるディフェンシンの生産は、カラシナのようにこれまでの自然界におけるディフェンシン生産とは条件が全く異なる。カラシナの場合には、ディフェンシンが必要に応じて生産されるのに対し、本GMイネは、イネの緑葉組織特異的発現プロモーターにより、ディフェンシンを常時大量に作り続けるように加工してある。つまり、自然界ではあり得ない組み合わせを人工的行うことで、ディフェンシン遺伝子の本来の発現調節を無効にして、常時大量にディフェンシン遺伝子を発現するようにしてある。だから、過去、自然界で問題がなかったからといって、これをそのまま参考にすることはできない。
(b)について
 菌とエサとディフェンシンを混ぜて放置するだけで、微生物がディフェンシンと頻繁に接触することにより耐性菌が出たというこの報告から、自然界でもこの三者が混じり合い、かつ微生物がディフェンシンと頻繁に接触すれば、耐性菌が出るだろうと予想するのが合理的であり、この三者が混じり合い、ディフェンシンを常時大量に作り続ける結果、微生物がディフェンシンと頻繁に接触する条件下にある本野外実験もまた同様に考えるのが合理的であること(疎甲91。研究者の陳述書(3)
(4)、二審における相手方の再反論とその評価
 申立人の上記主張には黙して反論せず、一転して次の全く新たな主張を、「科学的な公知」な事実として主張するに至る。
ディフェンシン耐性菌がイネの細胞から外部に出る可能性は存在しない」
 しかし、これは誰の目から見て、植物生理学の初歩的知識のレベルで誤った撤回するしかないもの。

(6)、内外の反響――予想外の事態――
主食のコメに対する遺伝子組換え実験について、科学者の池内了氏は、次のように言います。
第二世代の遺伝子組換え作物として、イネやコムギがターゲットになっていることに注意する必要がある。これらは主食であるから、ほんの少しの不純物であっても大きな厄災を引き起こすし、いったん出回ってしまうと引き返すのが困難となってしまうという問題点がある。壮大な人体実験になりかねないのだ。
 より重大な問題が、生態系に及ぼす影響である。‥‥組換えされた遺伝子は、まず近縁の植物や捕食動物に移動し、時間が経つうちに生態系全体に広がってしまうのが必然である。長い時間をかけた生命進化の過程で遺伝子は変化してきたのだが、遺伝子組換えによってそれとは無関係の遺伝子が短期間の間に生態系に持ち込まれることになる。これによって、どのように生態系が撹乱されるか、誰も知らないのだ」(「禁断の科学――軍事・遺伝子・コンピュータ――」156頁。NHK知るを楽しむ)
 ましてや、本野外実験は、「ディフェンシン耐性菌が出現した」という上記報告からほぼ確実性をもって、ディフェンシン耐性菌という生態系の撹乱をもたらす生物の出現が予想されており、こうした生物災害の恐ろしさは、既に鳥インフルエンザの経験からも明らかである。
したがって、当然のことながら、地元では、本野外実験と裁判は天地を揺るがす大事件として報道された。しかるに、他方で、弁護団の度重なる記者発表にもかかわらず、全国向けのニュースは完全な黙殺に終始した。
ところが、こうしたマスコミの黙殺と好対照だったのが、意外なことに科学者たちだった。GM技術に従事する科学者の95%は開発側に立っている」(NHK-BS海外ドキュメンタリー番組【問われる遺伝子組換え食品】のラスト)現状で、新潟県の無名の市民の申立人らと何の縁もなく、名前すら知らなかった科学者・研究者たちから、しかも日本全国のみならず世界中から、本野外実験のディフェンシン耐性菌出現の危険性について、警鐘を鳴らす声が次から次へと届けられたのです(疎甲869294。同118121)。
なぜ、彼らは、国境を超えて、見も知らない市民の裁判のために、一文の得にもならないどころか我が身の研究に不利益・障害が及ぶであろうことを承知で危険を顧みず、さながら、「シンドラのリスト」のオスカー・シンドラのように振る舞い、今回の国家的プロジェクトに異議の声をあげたのでしょうか――思うに、科学的な認識として、ディフェンシン耐性菌出現の可能性が市民の人体の安全のみならず地球上の生態系に及ぼす影響の重大性を考えたとき、研究者として自らの理性と良心に照らし、とうてい黙っていることができなかったからとしか思えません。
ここに、本野外実験の危険性の本質を垣間見ることが、と同時に困難な状況に置かれた研究者たち「シンドラのリスト」の理性と良心の可能性を垣間見ることができました。

申立人は、これまでの室内実験と異なり、予見不可能性とその回復不可能性を特質とするGM事故にもろに直面することになる今回の野外実験について、どのような場合に実験が許容され或いは中止されるのかについて、日本で初めてのGM作物裁判として、今後のGM作物野外実験の安全性を考える上で手本となるような、できる限り透明で納得の行く判断が出されることを願っていましたが、
 一審裁判所の新潟地裁高田支部では、約1ヶ月半の審理の末、GMイネが開花寸前の817日に判断を下した――ディフェンシン耐性菌の問題について、短時間のうちに細胞分裂をくり返して爆発的に自己増殖する生物特有の性質を見落とし、耐性菌を従来の有害化学物質などと同一レベルで考えるという誤りに陥って、なおかつGM事故におかる「疑わしきは罰する」という予防原則の適用の必要性を正しく理解せず、伝統的な事故の枠組みの中で、本野外実験の危険性の有無を判断して、危険性の疎明がないとして申立を却下しました。
もっとも、裁判所は、同時に相手方に対しても、
開発計画を遂行する過程で得られた情報や実験結果等(特に、本件で問題とされた本件GMイネの原告山田ら周辺農家のイネに対する交雑の可能性、本件の隔離圃場内におけるディフェンシン耐性菌の発生状況と伝播の有無等)に関しては、今後とも生産者や消費者に的確に情報提供したり説明をすることにより、本件GMイネに対する不安感や不信感等を払拭するよう努めていく責任があり、仮にも、上記の情報公開等が円滑に行われず、いたずらに生産者や消費者の不安感等を助長するような事態を招き、その結果、農業等行う上で具体的な損害ないし支障が生ずるような状況に立ち至ったときには、本件野外実験の差止めを求められてもやむを得ない」と異例の厳しく注文をつけたのです。


これに対し、即日、申立人から異議申立(抗告という)が出され、東京高等裁判所で審理されましたが、申立人が審理の迅速化を再三にわたり要望してきたにもかかわらず、「説明責任を尽くす」と表明した相手方は、抗告審開始後1ヶ月以上沈黙を守り、まともな反論を一切しませんでした。ようやく9月末に、実質的な主張を行なったものの、その直後に、GMイネの刈り取りを行なうや否やその翌日、刈り取り終了を理由とする抗告却下の申立書を電光石火のごとく提出したのです。

他方、9月末の相手方書面に対する申立人の反論(申立人のこれまでの主張に対する積極的な反論がひとつもないこと、相手方が起死回生の一打として持ち出した「ディフェンシン耐性菌がイネの細胞から外部に出る可能性は存在しない」という主張が初歩的な科学的知識のレベルですら誤った杜撰なものであること)が出され、いよいよ事実の徹底解明についてケリをつけるべき天王山にさしかかったと思えた瞬間、二審の裁判所は、10月12日、いきなり、5枚足らずの三行半の決定を出しました。
そこには、最重要論点であるディフェンシン耐性菌出現の可能性の問題について、全く何一つ具体的な言及をすることもなく、にもかかわらず、申立人及び微生物の専門家たちの意見書を評して「杞憂」にすぎないと断じた。「疎明(証明の一種)がない」としか言わなかった一審裁判所の決定と異なり、「杞憂であり」とまで表明した以上、普通なら、よほどの科学上の確信に支えられたものですが、しかし、当の裁判所は、科学以前の初歩的な知識のレベルですら間違いに陥っている相手方の杜撰な主張の間違いすら指摘できなかったのです。
これを読んだ或る研究者の人はこう感想を述べました、「それにしても、東京高裁の裁判官は、馬鹿な判決をしたものですね。」その通りですが、しかし、馬鹿な判決のために本当に馬鹿な目に遭うのはほかならぬ私たち市民です。のみならず、GM事故の特質である「晩発生」[3]に思いを致したとき、今後、起こり得る地球の生態系の破壊という深刻な被害の結果、最もひどい目に遭うのは私たちの子供たち、未だ生まれざる私たちの子孫たちです。これは単なる私たち市民の私権と国家的プロジェクトと称する本野外実験の間の問題ではなく、その本質は、私たちの子供たち、未だ生まれざる私たちの子孫たちの人権と国家的プロジェクトの間の問題にほかなりません。その意味で、我が国初のGM作物をめぐる本裁判こそ21世紀の倫理が最も鋭く問われる最もパブリックな裁判だと思います。
2006.2.16文責 原告代理人 柳原敏夫)

【参考】


[1] タンパク質の一種で、動植物が生産する。病原菌の活動を抑える作用があり、感染防御に重要な役割を持っている。生体は外敵に対する防御システムを数多く発達させているが、ディフェンシンはその防衛ラインの最前線で戦っている防御物質である。
[2] 「回復不可能性」と並んで、遺伝子組換え事故に固有の特質のこと。
遺伝子組換えは、他の生物から切り出した特定の遺伝子(タンパク質設計図)を細胞に挿入して、その遺伝子に基づくタンパク質を作らせることが目的である。つまり、新しい遺伝子の導入で、細胞に1つ余分の新しい仕事を命じることになる。このために、何かの仕事が犠牲になっているかもしれないが、それが、生物体にどう影響しているのかが、わからない。
また、遺伝子の調節機構はほとんどが未解明のため、新しい遺伝子の導入で遺伝子の調節機構がどういう影響を受けるか予想ができない。通常の生育には問題がなくても、何かがきっかけで、毒成分を作るかも知れない。また、生物体の中で、遺伝子が組み変わったりしたときに、予想外の事態が起こるかもしれない。
この点(遺伝子組み替えの結果に対して我々が予見できない)で、これまでの科学的、技術的な行為と大いに異なる。その結果、こうした遺伝子組み替えによる事故に対しても、我々は予見できないという条件の下にある。
[3] 病原体やアスベスト等を体内に取り込んでから実際の被害が発生するまでに時間がかかること。