2018年1月4日木曜日

リスク評価を、世界や物事を判断するとき、①真(認識的)、②善(道徳的)、③美(美的、快か不快か)という異なる独自の3つの次元の判断を持つという構造の中に置くべきである(2018.1.4)

1、リスク評価の文献はちんぷんかんぷんである。

リスク評価論の勉強を始めた当初、文献を読み漁ったが、正直、 ちんぷんかんぷんだった。むしろ人を煙に巻くために存在するのがリスク評価やリスクコミュニケーションではないかとすら思った。
そこで、リスク評価の業界から一度、外に出て、このちんぷんかんぷんの世界を外から眺める必要があった。

そこで出くわしたのが、混迷する芸術裁判「チャタレー夫人の恋人」事件「悪徳の栄え」事件をめぐるわいせつ論争であり、その混迷にピリオドを打った柄谷行人の真善美に関する考察だった。

詳細は別で論ずるとして、この芸術裁判が混迷した原因は、リベラル裁判官たちが、表現の自由を最大限保障しようとする余り、《この作品は素晴らしい芸術的価値がある。だから、これを「猥褻」として処罰するのはおかしい》と考えてしまったことにある。その結果、彼らは知らずして、芸術を法・倫理の上に置こうとする芸術至上主義者になってしまった。だが、目的(芸術)は手段(法・倫理)を正当化し得るだろうか。そんなことはない。むろん芸術は最大限尊重されなければならないが、だからといって、芸術だけが他と異なり、法・倫理から超越して存在する訳ではないからである。しかし、だからといって、全ては法・倫理的判断で決まるとする上記事件の検察官の考え方も、さっきとは反対に法・倫理を芸術の上に置こうとする法律至上主義であり、同様に過っている。芸術至上主義でもなく、法律至上主義でもない「解き方」を私たちは見つけ出す必要がある。

世の中には「解き方」を間違えたために、どうしても解けない問題がある。数学史の有名な出来事として5次方程式の解法。 
+2x+3x+4x+5x+6=0
このような5次以上の方程式は加減乗除の方法で解くことが(一般には)できないことは1824年、アーベルの手で初めて証明されたが、それまで数百年にわたって、これを加減乗除の方法で解けると信じた者たちにより空しい努力が積み重ねられてきた。数学者たちの迷妄の歴史をここで想起しておくことは価値あることである。

2、リスク評価という判断の構造について

ここでの問題は、リスク評価の問題にとどまらず、そもそも我々が世界や物事を判断するとき、一体どのような判断の構造をしているのか、である。
この点について、現在までのところ最も有益な知見を与えてくれたのが柄谷行人の「トランスクリティーク」「倫理21」だった。柄谷行人によれば、カントの考えでは、

(1)、 我々が世界や物事を判断するとき、①真(認識的)、②善(道徳的)、③美(美的、快か不快か)という異なる独自の3つの次元の判断を持っている。
(2)、この3つの次元の判断はおのおの他の次元の判断から独立して存在している。それゆえ、或る次元の判断を他の次元の判断をもって省略、代用、置き換えることはできない。
(3)、 しかし、科学認識、道徳性、芸術性という3つの領域はそれ自体で存在するものではなく、また主観的なものでもなく、それらは、他の次元の判断を括弧に入れること(超越論的還元)によって初めて成立するものである。
(4)、したがって, この3つの次元の判断は渾然と混じり合っていて、日常生活でもその区別は明確に自覚されているわけではない。
(5)、そのため、本来、或る次元の判断が求められるときに、誤って別の次元の判断でこと足れりとしてしまうことが往々にして起きる。
(6)、 これらの3つの次元の判断をきちんと区別し、それらを自覚的に行なうためには、それ相当の文化的訓練が必要である。
(7)、以上から、この文化的訓練が、科学裁判や科学裁判においてのみならず、リスク評価においても必要不可欠である。

以上の(1)~(7)について、順番に解説する。

(1)、 我々が世界や物事を判断するとき、①真(認識的)、②善(道徳的)、③美(美的、快か不快か)という異なる独自の3つの次元の判断を持っている。

 私たちは、世界や物事を眺め、判断をするとき、一挙に全ての判断ができるわけではなく、特定の関心を抱いて、世界や物事を眺めたとき初めて、世界や物事を判断することができる。より正確に言えば、特定の関心を抱き、それ以外の関心を括弧に入れて、世界や物事を眺めたとき初めて、その関心について判断することができる。
その関心とは、主要なものが ①真(認識的)、②善(道徳的)、③美(美的、快か不快か)という3つの関心である。
このことをカントは芸術論でやった。彼は、芸術を芸術たらしめるものは何か?と問い、その答えを、人が美的関心を抱き、なおかつそれ以外の関心(認識的関心、道徳的関心)を括弧に入れて物事を眺めたとき、その物が芸術品として現われると言った。例えば、デュシャンが「泉」と題して便器を美術展に展示したとき、彼はカントの「芸術を芸術たらしめるものは何か?」を改めて問うたのだ(柄谷行人「トランスクリティーク」172頁)。

 25年前、「オウム真理教」がマスコミに登場した頃、彼らに対する評価は分裂したが、それは彼らを①「さっそうと出家してスタイルもカッコいい」といった美的に見るか、②その宗教的な教義や実践がいかなるものかという倫理的に見るか、③そのスタイルや宗教的教義にもかかわらず、実際にやっていることはインチキであり、犯罪ではないかという認識のレベルで見るかという違いに由来した。つまり、もともと我々の判断に美的、倫理的、認識的の3つの異なる次元の判断があることに由来するものだった。

(2)、この3つの次元の判断はおのおの他の次元の判断から独立して存在している。それゆえ、或る次元の判断を他の次元の判断をもって省略、代用、置き換えることはできない。

 映画や小説ではよく美形の犯罪者やヤクザが主人公として登場するが、それらに夢中になる観客は、鑑賞の間、倫理的判断とは別に、美的判断で鑑賞しているからである。だからといって、その観客が普段、犯罪者やヤクザに好意を抱いている訳ではない。彼らは、無意識のうちに、映画館の中と日常とで次元のちがう判断を行使している。
 それゆえ、映画館で美形の犯罪者やヤクザに夢中になったからといって、その観客を倫理がもとるとは誰も非難しない。美的判断と倫理的判断とは元来別の判断であり、両者を混同すべきでないのだから。

(3)、 しかし、科学認識、道徳性、芸術性という3つの領域はそれ自体で存在するものではなく、また主観的なものでもなく、それらは、他の次元の判断を括弧に入れること(超越論的還元)によって初めて成立するものである。

この点、柄谷行人は、カントの美学を取り上げて、次のように言った。
《カントは、認識を認識たらしめるものは何かと、その根拠を問うたように、芸術を芸術たらしめるものは何かと、その根拠を問うた。ある物が芸術作品であるかどうかは、その物に対して美的関心以外の関心を括弧に入れることによってのみ決まる。その物が自然物であろうと、機械的複製品であろうと、日常的使用物であろうと関係ない。その物に対して、美的関心以外の関心を括弧に入れて眺めるということ、そのような態度変更がその物を芸術作品たらしめるのだ。この意味で、カントの美学が主観的だというのは正しい。ただし、それは美的関心以外の関心を括弧に入れるという「意志」なのだ。例えば、デュシャンが「泉」と題して便器を美術展に展示したとき、彼はカントの「芸術を芸術たらしめるものは何か?」を改めて問うたのだ。》(柄谷行人「トランスクリティーク」172頁)

そして、この「特定の関心を抱いて物事を眺め、それ以外の関心を格好に入れる」という構造は美的判断に限らない。科学認識でも、道徳的判断でも同様である。


(4)、したがって, この3つの次元の判断は渾然と混じり合っていて、日常生活でもその区別は明確に自覚されているわけではない。

 例えば、19世紀のフランスで、W. シェークスピアの「オセロ」を上演した際、悪役イアーゴの女房殺しの場面に憤激した観客が俳優を射殺した事件が発生したが、この悲劇は美的判断と倫理的判断とを区別できなかったためである。しかし、簡単にこの観客を笑うことはできない。我々もまた、例えば人を愛するとき、その理由は相手に②善(道徳的)の次元で人間的魅力があるからか、それとも③美(美的)の次元で美的、性的魅力があるからか、さらには両方ともあるからか、愛する本人にもよく分かっていないことが多いように、その区別は必ずしも容易ではないからである。

(5)、そのため、本来、或る次元の判断が求められるときに、誤って別の次元の判断でこと足れりとしてしまうことが往々にして起きる。

 かつて、日本で最も自由な教育を行なうと宣言し、斬新な芸術教育で注目を集めた自由の森学園で、その後、悪質ないじめや校内暴力が発生し、大量の学生の退学処分の発動を余儀なくされたとき、みずから設立理念を否定するような処置の発動に学校関係者はこぞって途方に暮れたが、その学校を訪れた柄谷行人はこう言った――いくら自由と自立を尊重するという理想的な教育をしても、いじめや暴力は決してなくならない。もともとそれは人間の攻撃性に由来するものだからです。そこで必要なのは、芸術(音楽、美術、文学)ではなく、むしろ人間の攻撃性を科学的に解明しようとしたS. フロイトです)。いじめや暴力に対してまず必要なのは、美的判断でも倫理的判断でもなくて、科学的判断(認識)だからです、と。

(6)、 これらの3つの次元の判断をきちんと区別し、それらを自覚的に行なうためには、それ相当の文化的訓練が必要である。

 フランスの美術家デュシャンが「泉」と題して便器を美術展に提示したとき、多くの者たちは眉をひそめ、狼狽したという。

 マルセル・デュシャン「泉」(1917年)

しかし、デュシャンは単に《芸術を芸術たらしめるものが何であるかをあらためて問うた》(柄谷行人)だけである。つまり、便器という対象に対し、認識的(①真)と倫理的(②善)関心を括弧に入れて見るという芸術本来の判断を求めたにすぎない。しかし、このことを理解するには、それ相当の文化的訓練が要る。
その意味で、もともと科学者もまた、こうした文化的訓練を積んだ者のことである。近代科学は、ガリレオに見られるように、研究の対象を、②善(道徳的、宗教的)的と③美(美的、快か不快か)的関心を括弧に入れて認識することにおいて成立したものだからである。この点で、医者も同様である――産婦人科医は、妊婦を美的或いは性的に見ることを括弧に入れる訓練を積んでいる。しかし、この訓練がきちんとできていないと、ときとして悲劇が発生する。例えば、外科医は、手術のとき、患者をたんなる手術の対象物として突き離して見る訓練を積んでいるが、身内が患者のような場合には、時として「相手が手術で苦しむのではないか」といった人間的感情を拭い去ることができず、メスの操作が狂うことがあるという。他方、未熟な外科医は、手術が終わったあとでは患者を生きた人間として見るべきなのに、依然、相手を物のように突き放してしか見られない。

(7)、以上から、この判断の構造と文化的訓練が、芸術裁判や科学裁判においてのみならず、リスク評価においても必要不可欠である。

芸術裁判や科学裁判の判断も、以上の判断の構造を踏まえるべきである。
とはいっても、ここでは次の特質があることに注意する必要がある。
②善(法的判断)が問われる芸術裁判や科学裁判においては、①真(認識的判断)や③美(美的判断)を基礎とし、それに基づいて、善独自の判断を行なうという関係になっている。いわば、善(法的判断)の判断の全体は、第一次的に①真(認識的判断)や③美(美的判断)を行ない、これを受けて、その次に②善(法的判断)を行なうという二段(二階)構造になっている。

リスク評価も科学裁判と同様に考えるべきである。それは①真(認識的判断)を基礎とし、それに基づいて、②善独自の判断を行なうという関係、つまり善(政策的判断)の判断の全体は、第一次的に①真(認識的判断)を行ない、これを受けて、その次に②善(政策的判断)を行なうという二段(二階)構造になっている。なぜなら、リスク評価も「不確実な事態」に対して科学的な判断を下すことが不可欠ではあるものの、最終的には、その問題に対して政策的な判断を下さざるを得ないからである。

3、リスク評価を、一方で科学的判断を下すリスク評価と政策的判断を下すリスク評価に、他方で共同体の中で通用するリスク評価と共同体を超えて通用するリスク評価に区別して呼ぶ

以上の意味で、リスク評価という言葉は次の2つの意味で使われている。1つは、リスクについて科学的な判断を下す場合(①真〔認識的判断〕)と、もう1つは、その科学的判断を踏まえて政策的な判断を下す場合(②善〔政策的判断〕)である。
実はもう1つ、二種類のリスク評価が存在する。それは、共同体の中で通用しているリスク評価と、共同体を超えた場所でも通用する普遍性を備えたリスク評価である。
キルケゴールは、宗教を共同体の中の宗教と共同体を超えた普遍性を備えた宗教に区別するため、前者を宗教A、後者を宗教Bと呼んだのを参考にして、リスク評価も、この2通りの場合分けに基づいて4つのリスク評価があることを区別するため、以下のように呼ぶことにする。



君は安全神話に関心がないかも知れないが、安全神話は君に関心がある(その3)

目次
6、リスク評価が最も問題になるのは、科学の探求を尽くしてもなお、その危険性について確実な認識が得られなかったとき、つまり科学の力が尽きたところで「不確実な事態」をどう評価したらいいかという判断が問われる時である。だから、それは科学の問題というより、科学の限界の問題にほかならない。
、安全神話とは「危険性を示すデータが検出されていない限り安全である」とする誤謬のことである。

6、リスク評価が最も問題になるのは、科学の探求を尽くしてもなお、その危険性について確実な認識が得られなかったとき、つまり科学の力が尽きたところで「不確実な事態」をどう評価したらいいかという判断が問われる時である。だから、それは科学の問題というより、科学の限界の問題にほかならない。

そもそもリスク評価が最も問題となるのは、測定値が科学的に正しいかどうかといったことではなく、むしろ、そうした科学の探求を尽くしてみたが、それでもなお或る現象の危険性について確実な判断が得られないときである。つまり、科学の力が尽きたところで、初めて、ではこの「不確実な事態」をどう評価するのだ?という判断が問われる時である。この意味で、リスク評価とは科学の問題ではなく、科学の限界の問題である。言い換えれば、リスク評価とは、科学的に「解くことができない」にもかかわらず「解かねばならない」、この2つの要求を同時に満たす解を見つけ出すというアンチノミー(二律背反)の問題である。
そうだとしたら、このアンチノミーをどうして科学的判断=真(認識)だけで解くことができるだろうか。科学の限界の問題を科学で解こうとすることほど非科学的なことはない。

、安全神話とは「危険性を示すデータが検出されていない限り安全である」とする誤謬のことである。

リスク評価で、安全性を主張する人たちが好んで持ち出すお馴染みの論法がある。それが次の論法である。
今までのところ危険性を示すデータは検出されていない。だから安全と考えてよい

この論法を、私は、2005年、日本で最初の遺伝子組み換えイネ野外実験をめぐる実験差止裁判の中で論争となったリスク評価の問題 散々聞かされてきた、例えば次のように。

(1)、遺伝子組み換えイネ野外実験によるリスクの1つ、カラシナ・ディフェンシン耐性菌が出現する可能性について
 「実際、耐性菌の出現についての報告もない」(被告)
 「何か起きるのであれば、既にカラシナ畑で起こっている」(被告)

(2)、リスクの1つ、周辺の非組換えイネとの交雑防止のための隔離距離について
 「これまでの知見では、交雑の生じた最長距離は25.5メートルである」(被告)

 同様に、食品安全委員会もこの論法を愛用してきた。
 ②.体細胞クローン牛技術のリスク評価書(2009年6月)
体細胞クローン牛や豚、それらの後代(子供)の肉や乳について、栄養成分、小核試験、ラット及びマウスにおける亜急性・慢性毒性試験、アレルギー誘発性等について、従来の繁殖技術による食品と比較したところ、安全上、問題となる差異は認められていません」(食品安全委員会Q&AのQ)。

以上はすべて、危険性を示すデータが検出されないことを理由に安全性を導き出す根拠にしている。しかし、検出されないことが果して安全性を導き出す合理的根拠になり得るだろうか。
結論として、それは合理的根拠になり得ない。なぜなら、この場合、論理的には「危険性を示すデータが検出されない」→「危険性があると結論づけることはできない」であって、それ以上でもそれ以下でもない。従って危険性がない結論づけることできない。つまり、白も黒とも結論付けられない、灰色の状態だからである。

さらに、翻って思うに、
そもそも近代科学において「データ」とはどうやって検出されるものなのだろうか。実はデータは見つかるものではなく、我々が見出すものである、それもしばしば、ベーコンの指摘の通り、自然を拷問にかけて自白させるやり方によって見つけ出すものだ。
例えば、もしアインシュタインの一般相対性理論がなかったら、皆既日食で、太陽の近傍を通る星の光の曲がり方を示すデータは決して検出されることはなかったろう。むしろ、このデータは一般相対性理論によって初めて存在するに至ったのである(その詳細はH.コリンズほか「七つの科学事件ファイル」104頁以下参照)。また、10-21~10-23秒しか寿命がない素粒子の存在を証明するデータが自然に見つかることは凡そあり得ない。つまり、一般相対性理論や素粒子の科学的な仮説が先行し、なおかつその検証のために必要な実験装置が考案されて初めて、これらのデータが存在するに至るのである。
 これが科学の問題である。そうだとすれば、科学の問題ではなく、
科学の限界の問題であるリスク評価において、科学の限界のために、いかなる具体的な危険な事態が出現するかを予見できず、その具体的な危険性を検証するための実験装置も考案できない状況下で、その危険性を示すデータが存在するに至ることなど(危険な事態が現実化した場合以外に)凡そあり得ない。
 
 これに対し、危険性を示すデータが検出されないことを安全性を導き出す根拠としてよいと説明するため使われるロジックが、

問題の新技術は「従来技術の延長=実質的に同等にすぎない」から、或いは体細胞クローン技術は「(安全性が取り沙汰されている)遺伝子組換え技術は全く別物」だから、
といったものである。
しかし、そもそも「従来技術の延長にすぎない」かどうかはリスク評価をしてみて初めて判明する結果である。それをリスク評価のための材料にするのは本末転倒である。また、従来技術の「延長=実質的に同等」かどうかは真(認識)の次元ではなく、価値判断の次元の事柄である。それを科学的検討を行なうと称する場で実施することは次元を踏み越えた越権行為というほかない。
また、体細胞クローン技術について、DNAを組み込まれる立場(ここでは卵子)からすれば、一部のDNAを組み込まれるか(遺伝子組換え技術)、それとも核全部のDNAを組み込まれるか(体細胞クローン技術)という違いでしかない。丸ごとDNAを組み込むから、一部だけのDNAを組み込む遺伝子組換え技術とちがって安全だという科学的根拠はどこにもない。

君は安全神話に関心がないかも知れないが、安全神話は君に関心がある(その2)

 目次
4、風評どうかはリスク評価の問題である。
5、リスク評価の現実は、政治の問題であり、広告の問題である。


4、風評どうかはリスク評価の問題である。

 風評とは「根拠のない噂」であるから、風評か否かとは、科学的な根拠があるか否かという問題である。ここでは、放射能が原因となって健康にどのような悪影響を及ぼすか、が問題となっている。だから、これはリスク評価場面つjまり「放射能のリスク評価」の問題である。
すなわち、放射能による健康被害について、何が「根拠のない噂」=風評なのかを明らかにするとは、「放射能のリスク評価」を検討するということにほかならない。

 食品安全委員会の定義では、食品の健康に及ぼすリスク評価とは、人が食品中に含まれる添加物、農薬、微生物等のハザード(危害要因)を摂取することによって、どのくらいの確率でどの程度の健康への悪影響が起きるかを科学的に評価すること(食品安全基本法11条でいう食品健康影響評価のこと)。これによると、「放射能のリスク評価」とは、人が環境中の放射能を外部被ばくおよび内部被ばくすることにより、どのくらいの確率でどの程度の健康への悪影響が起きるかを科学的に評価することである。

そして、(その1)の前書きで述べた通り、安全神話とはリスク評価の別名であるから、従って、風評も安全神話もリスク評価の別名のことである。


5、リスク評価の現実は、政治の問題であり、広告の問題である。
  
とはいえ、「放射能のリスク評価」のためには、リスク評価の総論(基本原理)と各論(放射能)の両方の検討が必要である。ここでは、さしあたり総論だけを取り上げる。
リスク評価の総論についても、リスク評価の本来のあるべき姿と現実の姿という2つの問題がある。
リスク評価の本来の姿とは、一言で言って、食品の場合なら、食品中に含まれる添加物、農薬、微生物等のハザード(危害要因)によってどのような健康被害をもたらすかを科学的に評価することである。それは真理の世界の問題であり、倫理・規範・政策の世界の問題ではない。つまり、真理の世界の問題に、倫理や規範や政治が口をはさむことはできない。 たとえオウム真理教の信者がいくらけしからんといっても、裁判所 信者がやっていない犯罪(真か偽かという問題)とやったと認定して処罰できないのと同じことである。

 しかし、リスク評価の現実はこの本来の姿=科学的認識とはちがっている。それは政治の問題である。500年前、マキヴェベリ君主論で、君主は聖人である必要はないが、そう見える必要があると言っている。これと同じく、「リスク評価」もまた科学に基づく必要がないが、そう見える必要がある。この意味で、リスク評価の現実は科学をまとった政治の問題である。
もっと言えば、マキヴェベリの君主論が、いかにして大衆の指示を獲得するかという「広告」の問題であるのと同様、「リスク評価」もまた、いかにして大衆の指示を獲得するかという「広告」の問題である。リスク評価やリスクコミュニケーションの舞台裏が広告代理店の活躍の場であることは今や子どもでも知っている。

リスク評価の現実が政治の問題であることを赤裸々に明かしたのが、2005年12月、狂牛病に端を発して2年前から輸入停止中の米国牛の輸入再開をめぐる食品安全委員会の答申、正確には食品安全委員会中に設置されたプリオン専門調査会がおこなった、米国牛の狂牛病に関するリスク評価だった。このリスク評価をめぐり、同調査会の座長代理(東京医大教授)が「国内対策の見直しを利用された責任を痛感している」と述べ専門委員の辞意表明の事態をはじめとして、奇奇怪怪な事態が続発したからである()(そのレポート->「BSE審議の座長代理が辞意表明 食安委に疑問」 「政府姿勢に異論のプリオン専門委員に厚労省が圧力、食安委本会議委員が指図」という記事)。


)プリオン調査会、半数の委員が辞任/揺らぐ食の番人の信頼性
米国産牛肉の輸入再開をめぐる安全性評価を担ってきた内閣府の食品安全委員会プリオン専門調査会で、十二人の委員のうち半数が四月の改選で一気に辞める異例の事態が起きた。消費者団体などから慎重派とみられていた六人の辞任で、食の番人である同委員会が掲げる「公正中立」の立場が大きく揺らいでいる。」東奥日報 (2006年4月12日)

 
このとき、一連のドタバタ劇場を目の当たりにした一般市民は、一方で、事実の科学的認識を職務とする科学者が政治的決定を行う役回りを演じ、他方で、政治的決定を行うことを職務とする政治家・官僚が(自身の政治的決定に有利な)事実の科学的認識を行う役回りを演じ、至るところで越権行為がまかり通っている現実を痛感した。

しかし、この時の食品安全委員会の反省とは、二度と、こうした内部告発を伴う委員の辞意表明を出さないこと(臭いものに徹底してふたをすること)であり、「科学的認識と政治的決定の間の越権行為」にまみれたリスク評価を、本来のあるべき姿に戻すということ(臭いものを元からただすこと)ではなかった。

この食品安全委員会の反省を忖度し、立派に踏襲しているのが今日の原子力規制委員会をはじめとする、原子力、遺伝子組み換え技術等に関する政府の専門委員会である

当然ながら、今回の復興大臣の指示も、この食品安全委員会の反省を忖度し、踏襲しており、彼らにとって、風評の定義=リスク評価は政治問題、広告問題である。しかし、リスク評価の本来の姿である科学的認識から言わせると、リスク評価を(正確に言うと、科学的認識を経ないで)政治の問題、広告の問題にすることこそ、最も根拠のない議論であり、これこそ風評にほかならない。この意味で、復興庁こそ根拠のない議論=風評を流している。は、リスク評価の本来の姿に立ち返って、科学的認識に基づかない今回の復興大臣の指示を「風評払拭」の第1号として公表し、自ら襟をただすべきである。

君は安全神話に関心がないかも知れないが、安全神話は君に関心がある(その1)

目次
1、はじめに--人々の目をふさぐ張本人が「人々を無知から救う」という--
2、君は安全神話に関心がないかも知れないが、安全神話は君に関心がある。――原発事故の時にそれが分かる。
3、二重の基準でくり返される「風評払拭」キャンペーン


1、はじめに-人々の目をふさぐ張本人が「人々を無知から救う」という-


ドキュメンタリ-「チョムスキーとメディア」は、イギリスの詩人ジョン・ミルトンの約400年前の次の言葉で始まる。



 「放射能による健康被害の危険性」を論じるここでは、少し言い換えて、次の言葉から始める。

人々の目をふさぐ張本人が「人々を無知から救う」という。
ここでの問いは、私たちの置かれている状況はミルトンの約400年前の言葉と変わらないのではないか、です。


2、君は安全神話に関心がないかも知れないが、安全神話は君に関心がある。――原発事故の時にそれが分かる。


福島原発事故がそうだった。
福島原発事故で安全神話が崩壊したと言われるが、正確には福島原発事故で崩壊したのはコインの表、原発自体の安全性に関する神話が崩壊しただけだった。 もう一方のコインの裏は崩壊しなかった。それが放射能による健康被害に関する神話だった。

しかし、実はこちらの安全神話も崩壊の危機にあった。この時、危機を救ったのが山下俊一長崎大学教授である。彼は、東電の社長が事故直後に本社に戻るため自衛隊のヘリコプターに搭乗しようとして拒否された時でも、自衛隊のヘリコプターに堂々と乗って長崎から福島まで行った人物、安全神話を死守するために使わされた特使だった。そのあと、期待通り、

「放射線の影響は、実はニコニコ笑ってる人には来ません。クヨクヨしてる人に来ます。」
「皆さん、マスク止めましょう。」
「『いま、いわき市で外で遊んでいいですか』『どんどん遊んでいい』と答えました。」
                         (子ども脱被ばく裁判 原告準備書面(7)33頁以下より)

にはじまる、聞いたこともないような奇想天外な安全神話創設に向けた有名な発言、「根拠のない噂」=風評が連日、連発された。しかし、不安の中にいた福島の人たちは専門家と称するこの人物の安全・安心の言葉にすがり、放射能に対する警戒心を解いてしまった。

原発事故が発生すると、頼みもしないのに安全神話のほうからヘリに乗って君たちのところにやって来て、安全だ、安心だと耳元でささやき続ける。安全神話は君たちが勝手な真似をしないようにそれくらい君たちに関心がある。


3、二重の基準でくり返される「風評払拭」キャンペーン

 漫画「美味しんぼ」では風評払拭にあれほど情熱を注いだ日本政府は、事故直後の山下俊一氏の「根拠のない噂」=風評に対し、自衛隊機に彼を乗せてやっても、注意を喚起するようなコメントは一言も発せず、貝のように固く押し黙り、これを追認した。

 それどころか、 勇猛果敢にして荒唐無稽な山下発言による安全神話死守の成果に自信を得た日本政府が次にやったことは、一連の山下発言をモノサシにして、放射能(とりわけ内部被ばく)が健康被害にもたらす悪影響を懸念する見解を評価し、これを「根拠のない噂」=風評として抑圧・排除することだった。その著名なケースが、2014年5月、日本政府の閣僚と福島の自治体が一丸となって、目を見張るばかりの同時多発連携プレーをやってのけた漫画「美味しんぼ」の言論抑圧事件である。


「美味しんぼ」言論抑圧事件に対する私の見解は「自らは説明責任を果さず、少数意見の表現者には「断固容認でき」ないと抗議声明を出す福島県の言論抑圧に抗議する(2014.5.13) 」

 このとき、日本政府が取り組むべき最大の問題は次のことであった--放射能(とりわけ内部被ばく)が健康被害にもたらす影響はどのようなものであるか、もし影響の有無が科学的に解明されないとしたらつまり灰色の場合、いかなる対策を採るべきであるか、という論点を徹底的に解明することだった。その問題が解明されて、初めて何が「根拠のない噂」=風評なのかも明らかにされる。

 しかし、この時、日本政府はこの肝心の問題を何一つ解明せず、その結果、何が風評なのかもひとつも定義しないまま、うやむやのうちに、言論抑圧にそれなりの成果をあげた閣僚たちや福島の自治体はその後一丸となって、ズルズルベッタリと貝のように押し黙ってしまった。

  ところが、先頃、何も定義されないこの風評が再び登場した。2017年12月12日、日本政府は、復興の名のもとに、「風評払拭」を掲げる復興大臣の指示を出した。しかし、3年前「美味しんぼ」で日本政府は、何が「根拠のない噂」=風評なのか、それを定義するのを逃げた。逃亡して、何が「根拠のない噂」=風評なのか、科学的な説明ができないような日本政府に、「風評払拭」を口にする資格はない。「美味しんぼ」のときのように、閣僚たちが「風評払拭」を口にして放射能(とりわけ内部被ばく)が健康被害にもたらす影響を論じた表現の自由、学問の自由に介入することこそ、権力者による「根拠のない噂」=風評であり、やってはいけない人権侵害のお手本である。

本来の「風評払拭」は、何よりもまず「風評払拭」を口にする日本政府に向けられるべきである。

  にもかかわらず、日本政府は、どうしても「風評払拭」を口にしたいのであれば、 まず、何が「根拠のない噂」=風評なのか、科学的な説明に基づいて定義してから口にすべきである。なぜそんな単純なことを実行できないのか。

 その理由は、もし風評について科学的に明確な定義を下したら、山下発言に象徴される、日本政府がこれまで黙認してきたもろもろの「根拠のない噂」=風評にも手を下さざるを得なくなるからである。日本政府は、自分たちにとって不都合な見解・表現は「根拠のない噂」=風評として抑圧したいが、都合のいい見解・表現は黙認し、支援するという二重の基準(ダブルスタンダード)()を採用しているからである。


)二重の基準(ダブルスタンダード)をくり返し取り上げるのは米国の外交政策を一貫して批判するノーム・チョムスキーである。二重の基準が米国の外交政策の基本原理だからである。
アメリカの犯罪行為はどんなにひどかろうが、米国にとって存在しない。しかし、他国の犯罪行為は言語同断だ、と。

これは福音書が定義した偽善者のことである。なぜなら、偽善者とは「他の人に当てる物差しを自分にもあてることを拒否する者」と定義しているから、と。

 そこで、以下、風評について、科学的に明確な定義の解明を実行しようとせず、風評について二重の基準を採用している日本政府に代わって、 何が「根拠のない噂」=風評なのか、科学的な説明にチャレンジしてみる。
 これから論じるのは、例えば次のことである。


安全神話とは「危険性を示すデータが検出されていない限り安全である」とする誤謬のことである。

風評かどうかはリスク評価の問題である。


リスク評価の現実は、政治の問題であり、広告の問題である。


リスク評価が最も問題になるのは、科学の探求を尽くしてもなお、その危険性について確実な認識が得られなかったとき、つまり科学の力が尽きたところで「不確実な事態」をどう評価したらいいかという判断が問われる時である。だから、それは科学の問題というより、科学の限界の問題にほかならない。


科学の力が尽きたところで「不確実な事態」をどう評価したらいいかという判断で登場する最大の判断基準の1つが予防原則である。


なぜ、予防原則は世の識者から目の敵にされ、黙殺されるのか。それは彼らにとって不都合な事態を引き起こすから。

2014年5月14日水曜日

福島県の言論抑圧に抗議する(その2)「福島県・復興庁のいう『復興』だけが「復興」ではない」(2014.5.14)

 法律家 柳原 敏夫
今年3月に来日したノーム・チョムスキーは、民主主義社会における思想統制のやり方の1つとして、政府とマスメディアが、あらかじめ可能な選択肢のうち、一部の選択肢しか市民に提供せず、その中でしか選べないように仕向けることを挙げている。
例えば、社会システムとして、資本主義か社会主義かの2つの選択肢しか示さず、どちらかを選ばせるように仕向ける。そこで、人々はしぶしぶ資本主義を選択する、という具合に。

今回の「福島の復興」がその典型だ。福島県(そして復興庁らの政府)と マスコミは、人々は子どもも含めて福島に残って、復興に励むか、それとも復興を放棄して福島から去るか、この2つの選択肢しか市民に提供しない。そして、そこから選ばせる。後者はあたかも非国民のような扱いである。

しかし、言うまでもなく、そのどちらでもない「復興」のやり方がある。
チェルノブイリの経験から、除染が困難を極めるものであることは想定済みでのことであり(菅谷昭松本市長)、その間、放射能への感受性の高い子どもたちを汚染地域に住まわせ続けることは犯罪同然であり、従って、まずは子どもたちを非汚染地域に避難させた上で、大人たちは汚染地域の除染対策等と取り組むべきである。これが私たち「ふくしま集団疎開裁判の会」が2011年からずっと言い続けてきた「復興」(私たちの言い方だと「命の復興)である(菅谷昭松本市長もこの立場である)。
これに対し、福島県の子どもを汚染地域に住まわせ続けるやり方は、経済を最優先する余り、子どもの命を粗末にする「経済復興」である。
このように、復興には、少なくとも福島県が推進する「経済復興」と「ふくしま集団疎開裁判の会」や菅谷昭松本市長が主張する「命の復興」の2つがあり、人々はこの両方のことを知って、吟味した上で自らの決定を下すことができる必要がある。それが民主主義の基礎となる「言論と討論の広場」である。

この 「言論と討論の広場」に貴重な情報を提供したのが、今回の「美味しんぼ」である。
 「美味しんぼ」を読んだ読者は、(子どもたちが)福島から避難することと(大人が)福島を復興することが両立する「命の復興」という選択肢が現実味を帯びて迫ってくることだろう。
 そのとき、福島県が「美味しんぼ」が福島の復興を妨げていると非難するのは、単に、福島県が命より経済を優先する「経済復興」が妨げられていると文句を言っているだけのことだと理解できるだろう。命を最優先する「命の復興」にとって「美味しんぼ」は何ら妨げにならないどころか、鼓舞され、激励される。

福島県は、今こそ、「美味しんぼ」から学び、「子どもの命を守る」という政治の原点にたち返って、復興を再定義すべきである。

(※)自らは説明責任を果さず、少数意見の表現者には「断固容認でき」ないと抗議声明を出す福島県の言論抑圧に抗議する

(※)「漫画「美味しんぼ」の表現の自由を抑圧する福島県に抗議する」(ふくしま集団疎開裁判の会)  

2014年5月13日火曜日

自らは説明責任を果さず、少数意見の表現者には「断固容認でき」ないと抗議声明を出す福島県の言論抑圧に抗議する(2014.5.13)


  法律家 柳原 敏夫
 
民主主義で最も大切なのは「権威の座にある人たちの気に食わない意見を発表する自由」

大学で、法律のイロハとして、表現の自由の大切さについて、次のように教えられる―――真実に到達するためには自由な言論と討論の広場が不可欠である。そして、民主主義社会にとってこの広場の存在が最も重要な土台である。なぜなら、或る見解や政策に間違いや不公正があったときでも、自由な言論と討論の広場で議論をすることにより適切な世論が形成され、直接あるいは間接民主主義の過程を通じて、誤りを正すことが可能だからである。これに対し、もし表現の自由が抑圧された場合には自由な言論と討論の広場そのものが傷づけられ、真実に到達するための広場が機能しなくなって、もはや誤りを正すことが不可能になるからである(「憲法の基礎知識」84頁ほか)。
この意味で、政府や自治体(福島県)や学問的権威(原子力村)の見解に盲従する自由ないし賛成する自由なら、問題にする必要がない。表現の自由として守られるべき中心は批判の自由ないし反対の自由である。すべて権威の座にある裸の王様は人にそれを指摘されるのを嫌うからだ。つまり、表現の自由とは煎じ詰めれば、「権威の座にある人たちの気に食わない意見を発表する自由」のことである。この本質をヴォルテールは次の言葉で表現した(宮沢俊義「憲法講話」8頁)。
「わたしは、お前の言うことに反対だ。だが、お前がそれを言う権利を、命にかけて守る」

現代の科学水準では放射線による被ばくと健康被害の関係は大部分が灰色

放射線による被ばくと健康被害の関係(因果関係の有無・そのメカニズム)について、良識を備えた人なら次の事実から出発することに異論がない筈である――「被ばくによる人体への影響は、いまも科学的に十分解明されていないことが多くあり」「内部被曝によって起こる病気や症状のほとんどが、明らかに外部から被曝していない人にも発症するものだということです。それでいて、原因が被曝によるものだと特定する検査方法が確立されていませんから、病院に行ってもよほどのことがない限り、それが被曝によるものだと確定診断されることはありません」(1991年から5年半チェルノブイリに医療支援活動を行った菅谷昭松本市長「原発事故と甲状腺がん」52頁)

被ばくと健康被害の関係が科学的に十分解明されていないとは、或る健康被害が発生したとき、現時点の科学ではそれが被ばくの影響である(危険)と断定できなければ、影響がない(安全)と断定できないことを意味する、つまり危険の可能性を帯びた灰色だということだ。そこが今日の科学の到達点であり限界でもある。
そこで問題は、この「灰色」の事態とどう向かい合うか、である。菅谷松本市長は次のように言う――「放射線による健康被害が科学や医学では十分に解明されていない現時点においては、チェルノブイリの現実から学んでいくしかありません。不安な時だからこそ、正しい情報を元に冷静に判断してもらいたい」(同書まえがき8頁)。

チェルノブイリ事故から学ぶ最大の教訓の1つは、被ばくと小児甲状腺がんとの因果関係を科学的に解明するのに事故から20年もかかったことで、それまでに4000名の子どもが甲状腺がんになってしまったことである。私たち市民にとって第1に必要なことは被ばくと健康被害の因果関係の科学的解明ではない。被害発生前に全島避難した2000年の三宅島噴火のように、被ばくによる健康被害の可能性という「灰色」の事態からいかにすみやかに抜け出すかである。

この点で、チェルノブイリ事故との対比と並んで、もう1つ重要な情報がある。それが「3.11以前との対比」である。ここでは福島原発事故で被ばく体験した人自身の、3.11以前の健康との対比である。福島原発事故は日本がそれまで経験したことがない史上最悪の人災である。事故後、3.11以前にはなかったような身体の異変が起きた時、思い当たる原因としてまず被ばくを疑うのは極めて合理的である。そもそも彼らには、被ばくと健康被害との関係の解明に20年も待つ時間的余裕はない。彼らに必要なのは今すぐできる最善の行動への指針である。こうした切羽詰った状況にいる人々から「灰色」の意味を、自身の体験から(「限りなく」から「少し」まで様々なレベルがあるとしても)、黒に近い灰色という見解が出て当然である。灰色に関するこの種の見解にはそれなりの合理性があり、「根拠のない噂」=風評などでない。

福島県と双葉町は民主主義の試練に立っている
 4月28日と5月12日発売の雑誌「週刊ビッグコミックスピリッツ」連載の漫画「美味しんぼ」に福島県双葉町の前町長や福島大学の准教授が実名で登場し発言した内容は、自身の被ばく体験と同様の境遇に置かれた無数の市民たちから得た情報から導かれる範囲で、自身の見解を述べたものである(前町長の見解については、さらに医師により「被ばくとの関係」についてひとつの可能性として科学的な説明が補足されている)。それは現代科学では解明できない「灰色」をめぐる見解の1つになり得るもので、「根拠のない噂」=風評でない。

これに対して、福島県と双葉町は「総じて本県への風評被害を助長するものとして断固容認できず」「双葉町に事前の取材が全くなく、一方的な見解のみを掲載した、今般の小学館の対応について、町として厳重に抗議します」と抗議声明を出した。

本来、国や自治体は未曽有の人災である放射能災害の被害の解明について、市民に対し可能な限り懇切丁寧な説明責任を負っている。
他方、前述した通り、「美味しんぼ」に登場する双葉町の前町長や福島大学の准教授の発言内容は科学的に未解明な「灰色」に関する合理的な見解の1つである。
にもかかわらず、福島県は何の説明責任も果さずにこれを根拠のない噂」=風評と決めつけ、「風評被害を助長するものとして断固容認できず」と非難したことは、無実の者をいきなり有罪と裁く即決冤罪にひとしく、「権威の座にある人たちの気に食わない意見を発表する自由」に対するこの上ない脅しと言わざるを得ない。
のみならず、2人の見解は、たとえ少数者の声だとしても、同様の境遇に置かれた数知れぬ市民たちの切実な声を代弁したものである。福島県と双葉町の抗議声明はこれらの市民の切なる声をも「風評」として封じ込めてしまうものであり、科学的に未解明な被ばくと健康被害について、市民は政府と福島県が取る見解以外口にすることすら許さないという態度にひとしい。これでは独裁国家そのものではないか。

前述したヴォルテールの言葉「わたしは、お前の言うことに反対だ。だが、お前がそれを言う権利を、命にかけて守る」と正反対の道(独裁政治)を行こうとする福島県と双葉町は民主主義の試練に立っている。
そして、それをストップさせ、民主主義本来の姿に戻すのは主権者である私たち市民の手にかかっている。
共に抗議の声をあげ、機能不全に陥り唯我独尊でしか打開策を持てない凝り固まった姿を、私たち市民の手で元に戻しましょう。

2011年6月9日木曜日

安全性評価(リスク評価)の亀裂・崩壊をもたらした福島原発事故(2011.6.9)


安全性評価(リスク評価)の亀裂・崩壊をもたらした福島原発事故

 世の中には五十年、百年経ってみて初めてその意味が分かるようになる出来事がある。今から約百年前に発生した「人間と人間の関係」の人災=第一次世界大戦がそうである。当初、人々はこの戦争は短期間で終結する、半年後のクリスマスまでには家族と再会できると楽観して出征した。しかし、現実の進行は当初の予想を裏切り、過酷な大量殺戮兵器の出現、未曾有の死傷者・被害・惨禍をもたらした。しかもこの人災が収束したのは4年後(それはつかの間の休戦にすぎなかった)ではなく、31年後であったことを人々は後に思い知ることになる。人災=世界大戦の収束をもたらしたのはヒロシマ・ナガサキに投下された原爆であった。この時、人々は初めて世界大戦は核戦争による人類の絶滅で収束するという過酷な事実を思い切り頭に叩き込まれたのである。

 今年3.11に発生した「人間と自然の関係」の人災=福島第一原発事故はそれに匹敵する出来事である。当初、人々はこの事故は短期間で収束する、遅くとも年内には自宅に戻れると楽観していたが、天下の政府と東電が核燃料棒の崩壊熱に翻弄され続ける姿を目の当たりにして、その見通しは崩壊した。しかし、現実の放射能汚染がどこまで進行するのか、「見えない、臭わない、味もしない、理想的な毒」(スターングラス博士)である放射能は黙して語らない。福島にも例年通り、草木は芽吹き、春は訪れたが、しかしそれはそれまでの春と断絶した「沈黙の春」だった。では、我々は、いつ、この人災が収束するのを見届けることができるのだろうか。そして、その収束をもたらすものは何だろうか。工程表の実行?そんなものはつかの間の処理にすぎず、現実に進行中の大気・土壌・海中への放射能汚染対策は指一本触れられていない。世界大戦の収束をもたらしたものが「核戦争による人類の絶滅」という過酷な事実だったように、それは何年か後、何十年か後の、人々の頭に原発事故は放射能汚染による地球の絶滅で収束するという過酷な事実が思い切り叩き込まれたときである。

この意味で、3.11の大震災で亀裂が入ったのは東日本の大地だけではなかった。原発の安全性に対する国や企業の考え方はもちろん、バイオテクノロジーなどの先端科学技術の安全性に対する彼らの考え方つまりリスク評価を根底から揺さぶり、亀裂をもたらした。これまで、科学技術に関する小規模な事故や異変が発生しても国や企業は、可能性は認めても、「ただちに安全上問題が生じることはない」という今ではすっかり有名になった決まり文句でお茶を濁し経済的効率を優先してきたが、その流儀は人間たちをマインドコントロールすることはできても、自然界に対し無力だった。可能性がある事故は、いつか必ず「現実」のものとなる。それが今回の福島原発事故である。彼らのリスク評価の最大の問題は、それに対する用意と覚悟が全くできていないということである。それは事故直後の原子力安全委員会の議事録[1]を見れば一目瞭然である。国や企業は、放射能が「見えない、臭わない、味もしない、理想的な毒」として深い沈黙の中にいたので、あたかも人間と同様、放射能をマインドコントロールできたかのように錯覚し、タカを括っていた節すらある。

この間、天下の政府と東電の事故対策が「無力」なのは想定通りである。なぜなら、彼らがやってきたのは、可能性がある事故への備え・対策ではなく、「ただちに安全上問題が生じることはない」事故を怖れずに科学技術をひたすら実用化・応用化することだけだったからである。

但し、これは何も原子力技術に限らない。バイオテクノロジーでも同様である。6年前、新潟県上越市で、元農水省の研究機関により遺伝子組換えイネの日本で最初の野外実験が実施された時、組換えイネの安全性を危惧する地元住民の猛反対の声に対して、実験の責任者はこう述べた「怖いと言って手をこまねいてはいられない。研究者の使命だ」(2005年5月28日新潟日報)、と。その後の実験差止の裁判[2]の中で、微生物研究者が、この実験により、ヒトの健康と地球生態系に重大な脅威をもたらす可能性のある恐るべきディフェンシン耐性菌が出現したのは確実であると指摘したのに対して、この研究機関も、かつて、耐性菌が出現することを自分たちの論文中で認めておきながら、にもかかわらず、耐性菌対策として、この耐性菌に翻弄される以外、用意と覚悟が何もないことを明らかにした。このバイオテクノロジーでも、国は、「ただちに安全上問題が生じることはない」耐性菌を怖れずに科学技術(遺伝子組換えイネ)の実用化・応用化だけにひたすら邁進したのである。

原子力技術とバイオテクノロジーがもたらす人災に対する国や企業のリスク評価は、基本的に以上の通りである。だから、私たちの生活は事故が現実化しない限りで、かろうじて安全が保たれている。ひとたび事故が現実化したとき、国も企業も自然界に翻弄され、無力さをさらけ出す。その意味で、私たちは科学技術がもたらす未曾有の人災によって崖っぷちに立たされている。ヒロシマとナガサキのあと、判断をまちがえて世界戦争を起こしたとき人類は絶滅するように、フクシマのあと、「リスク評価」をまちがえて原子力事故(むろん、今なお進行中の福島原発事故も含まれる)や生物災害をおこしたとき人類は甚大な被害を蒙り、地球環境は絶滅するという崖っぷちに立たされている。人類の甚大な被害と地球環境を絶滅の危機から救うために、いま、「リスク評価」の方法そのものから全面的に転換する必要がある。つまり、「いかなる価値に基づいて、リスクを評価するのか」というリスク評価の根本問題について、これまでの国と企業の開発至上主義、経済効率至上主義という価値基準を無条件で放棄し、詩人ノヴァーリスが語ったように、かつての我々が持っていた、人類と地球環境が共存するという価値基準を全面的に回復させる必要がある。

「数や図形が
 すべての生きものの鍵ではなくなり、
 歌い、接吻する者が
 学を究めし者より多くを識り、
 世界が
 自由なる生の世界にたちもどり、
 光と影が
 ふたたび真の透明に結合し、
 メールヘンと詩に
 永遠なる世界の物語を知るときがくれば、
 誤れるものはすべて
 秘めたる言葉の前にとび去っていく」
                   (ノヴァーリス「青い花」より。上田真而子訳)
2011.6.9柳原敏夫)


[1]

原子力安全委員会2011年3月11日議事録14日議事録:当日14時46分の三陸沖の大地震のあと15時27分より数波の大津波が福島原発を襲来。これにより、非常用電源を含む全電源を喪失し、原子炉内の燃料棒に対する継続的な注水冷却機能を喪失する恐れという緊急重大事態が発生し、東電は原子力災害対策特別措置法に基づき、直ちに経済産業大臣らに通報した。これを受け、原子力の安全確保を職務とする原子力安全委員会は当日臨時会議を開催したが、5分で閉会した。議事録には、《配布資料なし、「緊急技術助言組織」の立ち上げを行った》とあるだけである。次の会議が開催されたのは事故から4日後の14日のことであり、35分で閉会した。議事録には、《配布資料なし、緊急の場合における実用発電用原子炉に関する線量限度等の告示について、原子力安全・保安院より連絡を受け、事務局より説明が行われた。》とあるだけである。
[2] 裁判の公式HP禁断の科学裁判
遺伝子組換えイネの野外実験差止訴訟:カラシナが作り出すディフェンシンというタンパク質が病原菌に対し強力な殺菌作用を有していることに目をつけた農水省の研究機関(当時。後に独法)が、カラシナのディフェンシン遺伝子をイネのDNAに組み込んで、いもち病や白葉枯病に強い遺伝子組換えイネを作ろうと思い立ち、数年間の屋内実験のあと、2005年4月、実用化に向けて屋外で実験を実施すると発表。これを知った地元住民から遺伝子汚染、食の安全、風評被害など野外実験の危険性を危惧する声があがり、実験中止の声が広がった。にもかかわらず、開発側は地元住民の声に全く耳を傾けようとしなかったため、住民はやむなく、裁判による解決を余儀なくされた。これが遺伝子組換えイネの野外実験の中止を求める差止訴訟であり、2010年11月まで6年間続いた。
裁判の審理の中で、農薬散布や院内感染で知られる通常の耐性菌とは桁違いに危険なディフェンシン耐性菌という耐性菌が野外実験の実施により出現したことが数々の証拠から明らかにされたが、「バイオ技術の安全神話」を愚神礼賛する裁判所はこれを黙殺。住民敗訴判決のおかげで、この途方もない危険なディフェンシン耐性菌の駆除は、その大災害が現実化するまで放置されたままとなった。